ー虎牙の章13- 力攻めの愚
家康が怒気をはらんだ口調で、自分の家臣に注意をする。だが、4人の顔はきょとんとしたものになり
「おい、正信。徳川家の殿が何かおかしなことを言っているでござるぞ?拙者らがおかしいのではなくて、殿のほうがおかしかったでござる」
「でゅふ。尻を掘り合い、家臣と親密な関係になるのは、戦国の世の慣わしでもうす。信長さまを見習ってほしいのでございます。尻ひとつで決して裏切らない家臣ができると言うのに、うちの殿は、馬鹿さ加減が、いささか度が過ぎているのでもうす」
「うーむ。何が原因で尻好きにならなかったのだぎゃ?うちの殿は。全国の大名のほとんどは、有能な家臣の尻を掘っているものだぎゃ」
「きっと、家康さまの奥方、瀬名さまがいけないなのだ。瀬名さまがイボイボだったから、家康さまはお尻に軽いトラウマをもっているなのだ!」
「ひとの嫁をなじるのはやめるのでござる!大体、瀬名はイボイボでもなければ切れてもないでござる」
家康は大声を張り上げて、瀬名の尻の事情について否定をする。
「では、ますます、殿が男を寄り付かせない理由がわからないのでござる。正信、お前、殿に抱かれたことはあるのでござるか?」
「でゅふ。忠次殿。お恥ずかしながら、未だに家康さまに寝所へ呼ばれたことがないのでもうす。しかし、今夜こそは今夜こそはと、毎日、お風呂で身体は清めてあるのでもうす」
「うーむ。正信ほど、殿と仲が良い男は、徳川家には居ないのでござる。それなのに、殿は正信を抱いていないというのでもうすか。なんで、正信は殿の家臣などやっているのでござる?」
「でゅふ。余りにも家康さまが自分を抱いてくれないので、一度、謀反を起こしたのでもうす。でも、謀反を起こした自分を何の罰も与えずに徳川家へ再び仕えさせてくれたのでもうす。それだけで、自分はビクンビクン!と感じてしまったのでもうす」
「あー、殿が本証寺をとっちめた時に起きた、あの謀反の時なのだぎゃ?あの時は大変だっただぎゃ。徳川家の家臣がまっぷたつに割れて、敵味方で殴り合ったあの事件だぎゃ。正信が居ないと思っていたら、お前、敵側にいたのだぎゃか」
「でゅふ。何度も家康さまの眉間に鉄砲の標準を合わせたのでもうすが、引き金を引くことはできなかったのでもうす。家康さまへの愛が自分の指を静止させたのでもうす」
正信の言いに家康が驚きを隠せない。
「ええ?正信、お前、俺の命を狙っていたのでござるか?そんなの初耳なのでござる。それを知ってたら、俺は正信を再仕官させることなんてなかったのにでござる!」
「何を言っているのでござる。正信が徳川家に戻ってきてなかったら、三河の経済が立ち直ることは無かったでござるぞ?三河者は腕っぷしはいいが、頭の中はからっぽでござる。殿は少しは正信の有能さを認識するべきでござる」
そう忠次が家康に諫言する。しかし、家康は言い足らぬとばかりに
「今川義元がぼろぼろにした三河を立て直してくれたのは、正信の功績が大きいことは認めるところでござる。だが、それでも主に弓引くのは如何でござる」
「そもそも、正信が謀反を起こしたのは、殿が正信を抱かなかったのが原因なのだぎゃ。そんなに手元に置いて、大事にしておきたいなら、尻のひとつやふたつ、掘ってやれば良かったのだぎゃ!」
榊原も反論する家康に対して諫言を行うのである。
「し、しかしでござる。正信は竹馬の友でござる。その友の尻を掘ることなど、俺には到底できぬでござるよ」
「竹馬の友と言う自覚があるのなら、尻を掘ってやることが殿ができる最大のご恩なのだぎゃ。わかったら、さっさと寝所に行って、正信の尻を掘ってくるのだぎゃ!」
榊原の怒気のはらんだ言葉に家康がうううと口ごもる。
「でゅふ。家康さま。痛いのは最初だけでもうす。自分が家康さまをリードするゆえ、何も心配しないでいいでもうす」
正信が頬を紅く染めながら、家康の顔をじっと見つめるのである。家康はどうにかして、この場から逃げ出せないものかと思案する。しかし、たまりかねた忠次と榊原がむくっと立ち上がり、家康の両脇に立ち
「殿、ご無礼、御免なのでござる!おい、榊原、そっちのほうを持て。無理やりにでも寝所に連れて行くぞ」
「わかったのだぎゃ。殿、少しの辛抱なのだぎゃ。なあに、これで一生裏切らない家臣が生まれると思えば安いのだぎゃ!」
忠次と榊原は両の腕で、家康の左右の腕を抱えこみ、無理やり寝所へと連れていくのであった。
「あれえええええええ。やめてくれなのでござるううううう。俺、正信に汚されちゃうでござるううううう!」
「殿、安心するなのだ。殿が正信を掘ると同時に、おいらが殿を掘るなのだ!」
「前門の正信に、肛門の蜻蛉切でござるうううう!俺、今ほど、生きていることを後悔したことはないのでござるううううう!」
「いい加減、尻を掘ることに話を振るのをやめるのだわい。まったく、武田家は、隙を見せれば話が脱線するのだわい」
「最初に尻、尻、尻と言い出したのは、殿で候。で、家康に尻を掘ってもらうのではなければ、どうするので候」
「山県。確かに、浜松城に籠るであろう家康にこちらが尻を向けるとは言ったのだわい。しかし、本当に言いたいことは、こちらが尻を見せることによって、家康が城から飛び出てくることだわい」
「まあ、信玄さまのお尻は値千金でございますからね。追っかけたくなる気持ちもわからないでもないのでございます」
高坂がうんうんと頷く。だが、信玄は真面目な顔をしたまま、話を続けることにする。
「ほら、簡単な話なのだわい。これで、家康が籠城をすることはなくなったのだわい」
「ああ、なるほどなので候。さすがは殿で候。これで、こちらは得意な野戦を行うことができるので候」
山県は信玄の提示する策の見事さに思わず、感嘆の声をあげることになる。
「ううむ。よもや、殿にそれほどまでの軍才があることに驚きなのでござる。長年、仕えてきたが、今日が一番冴えていると言っても過言ではないのでござる!」
「ああ?馬場よ。もう一度、言ってみるのだわい。わしは軍才においては、ひのもとの国1番なのだわい。伊達に孫子の兵法を学んできたわけではないのだわい!」
しかし、信玄の言いに、馬場、内藤が、えっ?と言う顔付きになる。
「おい、内藤。殿がおかしなことを言い出したでござるぞ?ひのもとの国1番とか言い出したのでござる」
「うむ。ちゃんちゃらおかしいのでごじゃる。多分、11月に入ろうかと言う時期ゆえに風邪でも引いたのでごじゃる」
「お前ら、わしが信濃と上野を手に入れた時のことを忘れたのかだわい!」
信玄が怒り顔で馬場と内藤を睨みつける。だが、2人は、やれやれと言った表情で
「殿が馬鹿の一つ覚えに力攻めを行った信濃の戦でござるか?いやあ、あのときは参ったでござる。山城を何が何でも落とせと言われた時は、後ろから殿を斬り殺そうかと思ったものでござる」
「おお、馬場もそう思っていたのでごじゃるか。奇遇でごじゃる。あのまま、力攻めを敢行しつづけるつもりであったら、信繁さまを次の武田家の当主にしようと思ったものでごじゃる」
「力攻めの話はやめるのだわい!あの後、反省して、策によって信濃を手に入れたのだわい。まったく、わしの都合の悪いことばかりを覚えているのは嫌なことだわい」
「殿が力攻めをやめて策を重要視するようになったのは評価に値するでござる。しかし、なんで、上野の国を落とすときには、力攻めをまた行ったのでござるか?しかも、長野業正には2度も負けたのでござるぞ?殿の脳味噌はところてんか何かでござるか?」
馬場の言いに信玄がぐぬぬと唸る。
「結局、どちらも真田に頼ったのでごじゃる。そのせいで、真田の奴は、最近、ぼくちんに対して、強気な態度なのでごじゃる。新参者は新参者らしく、捨扶持で満足しておけば良いのでごじゃる!」
「まあまあ、内藤。真田は殿に厚遇されていると言っても、たかだか足軽300人隊長でござる。それほど目くじらを立てなくてもいいのではないかでござる」
馬場が内藤をそうなだめるのである。だが、内藤は怒り収まらずとばかりに
「大体、殿は新参者を武田家に入れようとするところがダメなことろでごじゃる。もし、裏切ったらどうするつもでごじゃる。譜代からの家臣をしっかり優遇すべきでごじゃる!」
「そうは言っても、有能な者を家臣にするのは悪いことではないはずだわい。別に譜代の家臣である、お前らが無能だと言っているわけではないのだわい」
信玄がそう言うが、内藤は噛みつくのをやめず
「何を殿は甘いことを言っているでごじゃる。謙信との4度目の川中島の戦いで啄木鳥戦法などと進言して、それを殿が採用した結果、どうなったか忘れたのでごじゃるか!」
「むむむ。別に勘助は悪気があって、わしにそう進言したわけではないのだわい。それに奴だって、策が失敗したと分かった時には、奴の命を持ってして、わしを守ってくれたのだわい」
「何を甘いことを言ってるのでごじゃる。そもそも、殿の御身を危険に晒す策を提示する時点で、勘助は間違っているのでごじゃる。結果的に殿を守れただけでごじゃる。謙信が殿に一太刀浴びせようと一騎駆けしてきたと聞いたときは目の前が真っ暗になってしまったのでごじゃる!」
「ああ、あれかだわい。まったく、わしの軍配が鉄製のものでなかったら、あの時、謙信に一刀両断されていたのだわい。あの日の前日にたまたま、木製の軍配がぽきりと折れてしまい、替えの鉄製のものを手に持っていたことに、割りと本気で神仏に感謝をしたものだわい」