ー花嵐の章 4- 松平元康 出立
松平元康は夢を見ていた。遠き日々、織田家で人質生活を送っていたころの夢だ。
「吉法師さまは、いまごろ、どうしているでござろうか」
日はまだ昇ったばかり。まどろみの中、元康は二度寝にはいろうか、悩んでいた。織田家の人質であったが、あのころは楽しかった。友がいたからであった。その友は今、どこにいるのか。
「殿、朝でござる。出立の準備をお願いします」
襖越しに声をかけられる。この声は、酒井忠次だ。俺にとって一番の忠臣であると思っている。しかし、元康は夢の中に戻りたかった。正確にはあのころにだ。
「うむ。やはり行かねばならぬか」
「松平の家、すでに進退きわまっておりますゆえ」
忠次はただ、淡々と返す。ふむと元康は布団のなかで自問する。なぜ、俺は戦国の世に生まれたのかと。松平の後継者として生まれたのかと。生まれたからにはきっと意味があるのだろう。そう言い聞かせ、布団からでる。少し肌寒い。部屋の暖が少し弱いのか。今は1562年1月。正月を少し過ぎたばかりである。
それから、数刻のあと、元康の出立の準備が終わった。今年は雪も少なく、清州までの道のりは易しいものであろう。これからの松平家の運命を決める会合が、清州城で行われるのである。
「忠次。お前はやはり来てくれぬのか」
「はっ。やることがございますので」
「なにかはわからぬが、死ぬでないぞ。お前は、松平の柱。生きてかえってくるのでござる」
忠次は、はっと短く言葉を切り深々と、元康に対して礼をする。忠次はこれから、駿河に向かうそうだ。元康とは反対方向だ。だが、忠次は大切な使命があると言っていた。その忠次は、元康の後ろに控える者に声をかける。
「半蔵。殿をしっかり守るのだぞ」
「ああ、任せといてくれ。なにかあったときは、逆に信長の首級を取って見せる」
半蔵と言われた男は、豪胆なことを言いのける。だが、この男ならひょっとするとやるかもしれない。服部半蔵。代々、松平に仕える忍びの一族の長である。
「ははは、そんな事態にはならないよう祈るか」
元康は笑う。半蔵がいてくれるのは心強い。もし何かあっても、この者なら頼りになりそうだ。ふさぎこんでいた心が少しかは軽くなる。
「では、そろそろ行くでござるか。信長殿がまっておられるからな」
ゆっくり歩を進めても、1両日中には着くであろう。まあ、慌てることはない。松平が滅すというのなら、最後の旅路として楽しんでいくのも悪くなかろうと。
松平一行は、鳴海城、那古野の町を通り、清州城へ向かう予定である。途中、鳴海城にて、城代・佐久間信盛とその奥方に見送りしてもらい、警護の兵をつけてもらった。その時の事
「やあやあ、よくぞこられました。松平さま。道中、困ったことはなかった?」
「ちょっと、あんた。お殿さまにそんな口のきき方したらだめだろ?すまないね、うちの馬鹿が馴れ馴れしくて」
どっちもあまり変わらないような気もするがと、元康は思ったが、変に気を使われるよりかは気が楽だと思ってしまう。
「え、でも、これから仲良くしていくんだし、別にいいだろ。なあ、松平のお殿さま?」
「もう、あんたったら。ほんと、だれにでも変わらないんだから」
夫婦漫才とはこのことか。そういえば、我が嫁の瀬名姫は元気にしているのだろうか、しばらく会っていなかったな。
「ははは、仲良くしてもらえるなら、よいのでござるがな」
「大丈夫だとおもうぞ。織田家の殿は、敵には厳しいが、味方にはめちゃくちゃ親切」
「わたしも信長さまにはよくしてもらっているし、そう悪いことにはならないと思うよ、安心しなよ」
清州に近づくにつれ、重くなっていた心は幾分か軽くなるのがわかる。この夫婦のなせる技なのか、それとも尾張の風土がそうさせるのか。元康は口を開く
「この俺でも信長殿は仲良くしてくれるでござろうか」
「ああ、あんた、良いひとそうだし、きっと大丈夫だよ」
奥方から励ましをもらう。ちょっと自信がでてきた。しかし、佐久間信盛殿と比べると、相当、奥方は若い。
「失礼を承知で聞きます。奥方殿は、若くみえますが、何歳でござる?」
「あー、今年で22だね。ちなみにこっちの旦那は36。若くみえるけど、けっこう、おっさんだぞ」
14歳下とはうらやましい。心底うらやましい。うちは逆に、嫁が自分より10歳、年上だ。うーん、噂に聞く合婚の成果なのだろうか、俺も出たいなあああ。
「うっほん、合婚とやらは、三河の兵でも参加可能なのでござるか?」
「あー、どうなんだろ。まあ、同盟ってことになれば、参加可能になるんじゃないか?」
信盛は自信なさげに答える。合婚は、兵農分離あってこその政策だし、三河ですぐとはいかないだろうと思うが、将来的にはありえるし。うーん、と信盛は考え込む。そこに奥方の小春がはははと笑う
「松平のお殿さま。眉間のしわが減ってきたじゃないか」
言われてみれば、そのとおりだ。元康は、眉間をさする。
「りらっくす、りらっくす。いつも通りで、信長さまに会いにいきなよ。きっといいことがあるさ」
本当に、この夫婦ときたら。こっちの気が緩んで仕方ない。
「ありがとうでござる。おかげで、りらっくすできたでござる」
「そりゃよかった。眉間にしわ寄せて謁見されちゃ、殿もつられて不機嫌になっちまう」
信盛が笑う。そして忘れてたとばかりに
「そうだ、織田家からも護衛を出そう。おーい、丹羽ーーー!」
丹羽長秀が屋敷の奥から、そそくさとやってくる。
「はーい、にわちゃん。呼ばれて参上なのです」
「話をしていた、松平のお殿さまだ。護衛の任、よろしく頼むぞ」
「にわちゃんは、しっかり松平のお殿さまをお守りするのです」
なんだろう。このひとからは嫌な予感がする。元康は言い知れない悪寒を感じる。
「にわちゃんは、三河の兵にお世話になっているのです」
あれ、なんかしたっけ。俺。
「にわちゃんは、そんな松平のお殿さまが気に入る企画を考えているのです」
「おーい。丹羽。免疫ないひとに変なことしたら駄目だぞ」
信盛殿がなにかおかしなことを言っている。免疫があったら変なことをしていいのだろうか、織田家では。
「あ、あの。企画とは、どんなものでござる?」
「織田家に逆らったものがどんな生き地獄を味わうか、実際に見てもらう企画なのです」
元康は猛烈に、冷や汗が湧いて出てくる。
「身代金を払ってもらえない捕虜は、永楽通宝の焼き印を押して、奴隷市に流すのです」
これは危険だ。危険人物だ。俺の人生、おわったかもしれない。信盛殿、護衛のひとを替えてほしいでござる。元康は冷や汗をふきつつ言う
「ははは、織田家の方は冗談がうまいでござるな」
「にわちゃんはいつでも真面目なのです!」
「おーい、丹羽。いくら三河の兵に痛い目見たからって、今日は駄目だぞ」
今日じゃなかったらいいのでござろうか、などと元康が思っていると
「さて、あまり殿を待たせると、面倒なことになっちまう。行った行った」
信盛があっけらかんと言い放つ。
「松平のお殿さま、行きましょうなのです!」
「お、お手柔らかに頼むでござる…」
松平元康は、丹羽長秀の護衛がつき、万全の守りで清州城へ向かい出発する。しかし元康自身はこれからの道中に再び不安を抱えるのであった。