ー花嵐の章 3- 友
今川家に従属している松平元康と和睦する。それが織田信長の案であった。
会合に集まっている武将たちは、ついに殿が狂ったかとか、馬鹿の中の王になったかとか、心のなかで呟いていた。
実際、信長さまラブの利家ですら
「の、信長さま?なに言ってるんッスか?季節の変わり目だから、風邪でもひいておかしくなったッスか?」
という始末である。そして畳みかけるように河尻秀隆が言う
「松平とは、信長さまの父上からの因縁の相手。ましてや、今現在、殺し合いをしている真っ最中ではないか!」
信長の父親、織田信秀は、機会があるごとに、三河の地を飲み込もうと松平、そして今川に従属後の三河兵と散々戦ってきている。先の桶狭間の大戦でも、三河兵により鷲津砦などが落とされたのは記憶に新しい。それに今秋も、その三河の兵たちが、織田領土へ収奪をしに繰り返しやってきている。
「そうですのじゃ。よしんば松平が首を縦に振っても、織田家の兵たちが納得しませんのじゃ」
村井貞勝も反対意見だ。長年、殺し、殺されあってきたということは、深い怨恨があるということだ。それをなしにして松平と組むと信長はいうのである。
信長は、すっと立ち上がり、右手の扇子を広げ、右腕を前に伸ばし
「人間。五十年。下天の内をくらぶれば」
幸若舞「敦盛」の一節である。信長は皆の前で舞い始める。
「夢幻の如くなり」
柴田勝家は、どこからか取り出した鼓を叩きだす
「一度生を得て」
いよおおと、勝家は合わせる
「滅せぬ者のあるべきか」
会合の場は水を打ったかのように、静まり返る。信長は右足を地面にドンと踏み鳴らし言う
「ワシは父、信秀が行った愚策、東攻めは行わぬ!ワシの行き先は天下であり、このひのもとの国に平和をもたらすことじゃ!」
信長が激昂している。家臣に対し、乱世に対し、天下に対し、激昂している。
「もう一度言う。松平と手を結び、京への道を開く。これが天下への道ぞ!」
信長は扇子を閉じ、どかっと座布団に座る。つい激昂してしまった自分を諫めるかのように、信長は押し黙っている。
会合の場は、凍てつく氷のように静まり返っている。その静寂を平然と打ち破るかのようにこの男は言いのける
「ガハハ!さすがわが殿でもうす。この勝家、殿の目の前の敵を屠ってやるでもうす!」
「そ、そうッス!俺も信長さまを信じてついて行くッス。生意気言って、すいませんッス!」
ここで言わねばとばかりに、前田利家が叫ぶ、そして村井貞勝も
「わたしも口が過ぎたのじゃ。殿の言うこと、まことに天下のため、民のためなのじゃ。感服つかまつるのじゃ」
だが、と河尻秀隆は言う
「どういった策で、松平を取り込むのだ。大体、今は、今川家の従属の身。やすやすとはこちらにはなびかぬぞ」
憎まれ役を買ってでるのも親衛隊の務めとばかりに、河尻は言いのける。理想はあってもそれを実現する策がなければなにもならない。想いだけでは天下は取れぬのだ。
信長は、扇子の先で頭をかく。そしておもむろに口を開き
「書状を2通用意するだけです。これで松平は、こちらの味方になるでしょう」
信長は、熱くなった身を冷やすかのように、大きく息を長く吐き出す
「一通は、松平」
策を弄する時は、冷静沈着でなければならない。そう言い聞かせるように信長は、先ほどとは真逆に冷静に、落ち着いて次の言葉を放つ
「もう一通は、今川氏真にです」
秀吉は、信長の真意を探るために、頭の中を猛スピードで回転させる。なぜ2通なのか。手紙は2通じゃないとだめなのか。その真意を自らに問いかける。そして、閃いたかのように、目を見開き、信長の眼をまっすぐに見る。
「猿、気付きましたか?」
「は、はい!わ、わたしの推測が、た、ただしければ!」
桶狭間の大戦のときの進言といい、なかなか聡いですね、猿は。
「ま、松平には同盟の打診。い、今川には、松平離反を教える、な、内容ですね!」
「はい、正解です。そんな猿には、すたんぷ3個です」
猿は満面の笑みを浮かべて、集印帳にすたんぷを押してもらう。これで計11個だ。茶器まであと39個、がんばるぞ、と秀吉は意気込む。
「では、具体的に策の説明をしますが、皆さん、筆記の準備はいいですか?今後の調略の参考にしてください」
「まずは、松平に送る書状の内容ですが、仲良くしましょう、金500に兵糧5000あげます、と送ります」
金500と言えば、松平の半年分の国家予算に匹敵する。そして、兵糧5000は、兵5000人を1年食わせられる量だ。これで松平はいやおうなしに潤う。松平が織田領に収奪しにくる理由の半分は、今川家からの命令だが、もう半分は、松平自身が食っていけないからだ。
「まあ、この破格の条件を蹴るとしたら、今川家に従属しているというものだけでしょう」
「に、2通目の書状が、い、今川氏真からの独立を促すんですね」
信長は、猿の発言に、にこりと笑って応える
「はい、そうです。今川氏真は、父親の仇である、この信長を討ち取りにくる気配すら、ここ1年ありません。こんな馬鹿に口先だけで動かされる松平としては、たまったもんじゃないでしょう」
ですが、と信長は続ける
「それでもまだまだ、今川自身の兵は精強です。松平は渋々、従うしかありません」
「そ、そこで、今川氏真自身から、松平に疑いありと、さ、させるのですね」
「はい、そうです。一度、疑いをもってしまった主君というものは、その家臣を信頼しません。自滅してくれるよう追い込んでいくでしょう」
そして、と信長は続ける
「忠勤を認められない家臣が一体どうなるかは、この戦国の世では、分かり切っています。謀反が起きます」
なるほどと、河尻は、大きく頷く
「松平を独立させ、今川と共食いさせるのですな。さすが殿」
「いいえ、少し違います。最初は、松平復興のため、織田家で支援はしますが、後々は織田家の友として、松平には自立してもらいます」
「それでは、みすみす隣り合う敵を育てることになろうが」
河尻は疑問する。なぜ、そんなに松平に肩入れするのかと
「再三言いますが、松平は敵ではありません。織田家の友です。友と手を携えて天下を取りに行きます」
河尻は、はっと思いつく。そういえば、幼少のころ、松平元康は人質として、織田家にやってきていた。その折に、信長さまは元康とよしみを通じていたのではないかと。だが、これは推測だ。しかし、確信ほどでもないにしろ、予感めいたものが信長さまにあるはずだ。そう思う河尻は
「殿は、松平となにかあるのでござるかな?」
「それは秘密です」
ただ、と信長は言う
「覚えてくれていればいいのですがね」
ここより遠き日。ここより近い場所。20年前のあの日、那古野城で、確かに2人は出会っていた。
1人は織田信秀の嫡男として育てられ、もうひとりは、家臣に裏切られ織田にやってきた人質である。
「ねえ、きみ、なんでそんなとこに閉じ込められてるの?」
信秀の嫡男、吉法師は、少年としてはさらに幼い、子供に問いかける
「わたしは人質でござる。それゆえ、ここから出ていけないということでござる」
子供にしては口調が大人びているというか、寂びている。諦めといったものであろうか
「ねえ、そんなとこにいないで、一緒に外であそぼうよ!」
「そうは言われても、ここから出てはいけないと思うのでござる」
「外は広いんだ。そんなとこにいたらもったいないよ。さあ、外にでよう!」
「わたしは人質でござる。わたしに構っていては、あなたに迷惑がかかる」
「迷惑なんてかからないよ。だって、ここはワシの城だよ」
囚われの身の子供は、え、と疑問符をつける
「あなたさまは一体」
「ワシ?ワシはね。吉法師。きみの名は?」
「わ、わたしの名は、たけ、竹千代」
「竹千代かー。うん、竹千代。おぼえたよ!さあ、外にでよう、竹千代!」
竹千代は、物怖じしない、この吉法師が不思議でたまらない。竹千代は吉法師につられて、障子を開ける。そこは確かに世界が広がっていた。どこまでも続く青空が目に映る
「やっとでてきたね、竹千代。さあ、遊ぼう!馬の稽古、水練、相撲、なんでもいいよ、さあ、行こう」
「は、はい。吉法師さま!」
少年たちは、夏の晴れた空のもと、元気にはしりだしていた。彼らはすでにこの時から、いっしょに走りだしていたのだった。