ー猛虎の章18- 松永久秀の覚醒
久秀は必死に義昭の悪魔のささやきを振り払おうとする。しかし義昭はさらに続ける。
「まろは信玄に信長を討てと命じるつもりでおじゃる。そうなれば、織田家はどうなるか、賢い貴様ならわかるでおじゃるな?」
「なんと!義昭さまは信玄さまにすでに命令を与えたというのでござるか」
久秀は焦る。戦国最強の騎馬軍団を率いる武田信玄が上洛の途上にある織田家を攻める。そうなれば、信長包囲網は完全な状態になる。織田家が今、無事なのは、東からの侵攻がなかったからだ。
「何を言っているのでおじゃる。信玄にまろの意思を伝えに行くのは、久秀、貴様でおじゃる。何しろ、まろの手紙は全て御父・信長殿に握りつぶされるのでおじゃる。賢い貴様なら、まろが何故、貴様をここに呼んだのか、わかったはずでおじゃる」
「義昭さまは、わしゃにメッセンジャーになれと言うのでござるか?何故、信長殿の家臣である、わしゃがそんなことをしなければならないでござるか?」
久秀は額に流れ出る汗もそのままに、義昭に抗おうとする。
「この話は、信長さまに全て、話させてもらうでござる。これは明確な信長さまとの約定違反でござる!」
しかし、対峙する義昭は涼しい顔をしており、余裕しゃくしゃくと言ったところだ。
「まろはひのものとの歴史について、多少なりとも詳しいのでおじゃる」
何を言っているのだ、この男は。久秀はそう思う。自分が信長さまに、義昭が言ったことを告げ口をすれば、この男は全てを失うことになるのだ。それなのに、何が歴史だ。
「歴史と言うものは面白いものなのでおじゃる。ある一つの時代の転換期には英雄と呼ばれる男が必ず現れるのでおじゃる。源頼朝しかり、我が家の祖先、足利尊氏しかりでおじゃる」
「それを言うのであれば、信長さまは今の時代の英雄となられるお方でござる!」
「まあ、聞けなのでおじゃる。しかし、英雄の影には無残に敗れた英傑がいるのでおじゃる。しかも、その英雄と対峙した者もまた天から愛された才を持っていたのでおじゃる」
「何が言いたいのでござるかな?義昭さまは時間稼ぎをしたいのでござるか?」
久秀は、義昭がいきなり話題を変えたことに訝しがる。まさか、話を長引かせ、この書斎の外に義昭子飼いの兵を配置させ、自分を捕らえる気なのではないのかと。
だが、この城を囲んでいるのは、村井貞勝殿の率いる織田家の兵たちである。義昭に買収されているとは考えにくい。ならば、なぜ、この目の前の男は無駄話をしているのか?それが気になってしょうがない。
「時間稼ぎではないでおじゃるよ?別に、書斎の外に兵を伏して、貴様をとらえるように準備しているわけではないでおじゃる」
久秀は、くっと思う。考えていることを当てられたため、少なからず動揺をさせられてしまった。しかし、この男、散々、信長さまに酒と女と金で溺れされられたいたくせに、何故、こうも口が回るのかと。
しかもだ、こいつの言うことは甘言ではない。心をざわつかせるのだ、この男の言葉は。
信長さまの発する声は、聞いていて気持ちが良い。まるで、自分が信長さまと心をひとつにしたかのような陶酔感にひたることができる。だが、義昭は信長さまと真反対なのだ。聞いていて、気分が悪い。心の奥底にしまっていたある感情に直接、手をつっこまれているような気持ち悪さを感じるのである。
「さあ、話を戻そうなのでおじゃる。歴史の転換期には英雄と敗れた英傑がいるのでおじゃる。平清盛、源義経、そして、楠木正成なのでおじゃる」
義昭はとうとうと話を続ける。
「楠木正成は源頼朝の幕府を潰した英傑でおじゃる。だがしかし、我が祖先、足利尊氏に討たれたのでおじゃる。さあ、久秀よ。まろと信長は、どちらが足利尊氏でおじゃるかな?」
義昭は言いながら、ぐひっぐひっといびつな笑い声を漏らす。久秀はごくりと唾を飲みこみ、義昭の次の言葉を待つ。
「聡明な貴様にはわかっているのでおじゃるよな?今、ひのもとの国に一大勢力を築こうとしている男がいることを。そして、それに抗おうとする者たちがいることを。その男に向かって引き金を引く男が、今ここにいることをでおじゃる」
「その引き金を引く男と言うのは義昭さまのことを言っているのでござるか?」
「何を言っているのでおじゃる。貴様こそが信長に鉄槌を喰らわす男でおじゃる。久秀!」
義昭の言いに、久秀が体中に雷が落ちる衝撃を受ける。自分こそが、織田家を潰すきっかけを作る男になれると言う事実を知る。
「まろは兄・義輝を討った貴様を許したわけではないのでおじゃる。だが、そんな小さいことをいつまでも気にしているような器の小さき男ではないのでおじゃる。久秀、貴様はこのひのもとの歴史を動かす最重要人物になりたくないのかでおじゃる」
久秀は心がざわつき、かきむしられる想いである。信長さまに仕えてから封印してきた想い、いや野望という獣が目を覚ますのを感じ取る。その野望という獣は鎖でがんじがらめにされており、その眼は全てを焼き尽くさんとばかりにぎらぎらと輝かせている。
久秀は思わず、自分の心臓の鼓動を抑えるかのように胸に両手を当てて、ぎゅっと力を込める。しかし、それでも心のざわつきを止めることができないのである。
「まろは買い被りすぎたのでおじゃる。久秀と言う男は、ただの飼いならされた狼なのでおじゃる。それはもう、狼とは呼べぬでおじゃる。ただの犬でおじゃる。わんわんと鳴き、信長の側を尻尾を振りながらぐるぐると地べたをはいずり回る、哀れな畜生でおじゃる」
「くっ、言わせておけば、この男は!」
「なーにが違うのでおじゃる。せっかくまろが親切にも、狼に戻れるように助言をしているのでおじゃる。しかもでおじゃる。信長めを殺せば、機会さえあれば、まろですら噛み殺せると言うのを教えてあげているのでおじゃる。これでも動かぬ男と言うのであれば、犬畜生と呼ばずになんと呼べばいいかでおじゃる、わんわん!」
ああ、心がざわつく、かきむしられる。野望と言う獣が目の前の男に噛みつけ、砕け、殺せと命じてくる。久しく忘れていた感情だ。
「解き放つのでおじゃる。その心の奥底に眠っていた野望を。獣を。自分が欲するもののために、全てを破壊してきた松永久秀と言う男を、信長の手から取り戻すでおじゃる。ひのもとの人間が仕える相手は信長ではないのでおじゃる!」
バキッメキッメキョッ!久秀は確かに聞いた。心に住む野望と言う獣が、鎖を咥え、引きちぎる音をだ。
「ふはははっ!わしゃはすっかり牙を抜かれていたでござる。信長めの首級をわしゃの手で引きちぎってくれようでござる」
久秀の顔は豹変していた。眉毛と両目がつり上がり、口端を歪ませ、はあはあと荒い吐息を吐きだしていた。
「見事、自分が狼だと言うことを思い出したようでおじゃるな。して、まろの頼みを聞いてくれるでおじゃるか?」
「ふはははっ!良いでござるぞ?ただし、わしゃが義昭さまの首級も狙っていることは忘れないようにするでござる」
「ほっほっほ。それはそれは楽しみでおじゃる。上洛せし信玄を倒し、浅井長政を倒し、そして、まろの首級を求めて、かかってくるが良いのでおじゃる」
義昭は書斎の机の上から書状をその手に掴む。
「この書状は、まろ直筆の上洛命令書でおじゃる。これを信玄に渡し、信玄に信長を討つという大義名分を与えてくるでおじゃる」
義昭は手に持つ書状を久秀に手渡す。それを受け取った久秀は中身を確認しようと、書状をばっと広げ、文言を読む。
「【天下静謐のために上洛を命ずる】でござるか。ふはははっ。世を乱す信長を討てと言うことでござるな。しかし、本当に天下を乱しているのはどちらなのかでござるかなあ?」
「将軍の名において天下を治めることこそが第一なのでおじゃる。将軍をないがしろにする者がのさばる世の中が正しいわけがないのでおじゃる。それと、貴様がその書状を信玄に送ったあと、まろたちがやることは理解しておるのでおじゃるよな?」
「ふはははっ。当然でござる。信玄が上洛へと挙兵したと同時に、義昭さまは京の都で、そして、わしゃが奈良で挙兵するのでござるな?」
久秀の言いに、義昭がうんうんと頷く。
「まさにこれこそ、第2次・信長包囲網でおじゃる。前回の包囲網は、信長の奸計に陥って、まろ自身が潰してしまったのでおじゃるが、今度のは、まろが総大将として包囲網を築くのでおじゃる。しかも、完全包囲でおじゃる。信長だけでなく、奴の血を受け継ぐもの、そして、奴に付き従う兵たち全てを殺し尽くしてくれるのでおじゃる!」
「ふはははっ!その引き金を引くのが、わしゃでござる。なあに報酬は、義昭さまの首級で良いでござるぞ?」
「ひひっひひっ。やってみれば良いのでおじゃる。ただし、報酬を貴様に与えるのは信長の息の根を止めた後でおじゃる。まあ、すんなりと首級を取らせてやるつもりはないでおじゃるがな?」
義昭は、ひひっひひっと声を漏らす。対して久秀は、ふひゃっふひゃっと歪んだ笑いを作り出す。
信長は知らぬまに絶体絶命の危機へと追い込まれていたのである。その頃の信長と言えば小谷城を遠巻きに見ながら
「さて、今年中には北近江の主要な砦と支城は全部、この手に入りますね。家康くんを呼んで小谷城を包囲させれば、再び越前攻めの軍を起こせるでしょう」
「浅井・朝倉の反乱もやっと終わるのかあ。時間はかかったけど、なんとかなりそうだなあ」
「のぶもりもり、またのんびり越前攻めをしようものなら、わかっていますよね?今度は叱責だけじゃなくて、光秀くんに調教してもらいますから」
「ええっ!俺が変な性癖に目覚めたら、殿、責任取ってくれるのかよ!」
信盛が抗議をするが、信長はただ、ふふっと笑うだけであったのだった。




