ー猛虎の章17- 義昭の甘言
光陰矢の如し。時間は一気に進んでいく。今は1572年3月となる。
1月終わりには北条家と武田家の同盟がなり、武田家のこれからの動向に信長は気をもんだが、信玄からの書状でこれからも末永く武田家と同盟を結んでほしいと書かれており、安堵するのである。
それから3月に入り、信長は浅井家に対して攻勢に入る。農繁期を狙って北近江へと侵攻するのであった。だが、朝倉が少なからず援軍を送ってきたため、小谷城の完全包囲とはならず、遠巻きに小谷城を目の前にして長期戦へと移行していくのであった。
「なあ、殿。家康殿は連れてこれなかったわけ?そしたら、昨年のように、徳川家が朝倉家を抑えて、俺らは小谷城を完全包囲できるってのによお」
「うーん、家康くんが武田家を全然、信用してないんですよね。俺が遠江から動けば必ず信玄の野郎は遠江を総て奪うつもりでござる!って言ってですね。何が彼をそれほどまでに武田憎しに走らせるんでしょうねえ?」
「そういうことかあ。じゃあ、しばらく家康殿の加勢は期待できないわけ?」
「信玄くん自体は徳川家と仲良くしたいみたいですよ?でも、家康くんはそんな気がさらさらないようです。まったく。織田家が困っているときに家康くんが動けないのは手痛いですねえ。しょうがないので、長政くんとこの支城や砦をのんびり潰しながら、家康くんの本格参加を待っているわけです」
「朝倉も大変だなあ。あっちも田植えだろうに、長政さまの救援にこなきゃならんのだしな。まあ、俺らに付き合ってくれるってこと自体が大切なわけだろ、殿?」
「そうです。3月から戦を起こされれば秋の収穫に大きな損害が出ます。今回の戦いは次の戦いへの布石なわけです。というわけで、北近江の農民たちが畑仕事に出れないように威嚇をしておいてくださいね?」
信長の言いに信盛がアイアイサーと応え、陣幕から出ていくのである。信長はひとり、春先の晴れ渡った空を見上げるのであった。
そしてさらに時は進み、5月に入ると、二条の城に軟禁されている義昭はとある人物を屋敷に招き入れていた。
「ふはははっ。義昭さまから呼び出されるとは思わなかったのでござる。わしゃを呼んだと言うことは、さぞかし面白い話をしてくれるのでござるかな?」
「くっ。相変わらず口数が減らぬ男なのでおじゃる。しかし、織田家の中で、まろが頼れるであろう可能性が高いのは久秀、お前しかいないのでおじゃる」
義昭は苦虫をかみつぶした顔で、まるで嫌なものを見るように松永久秀の顔をじろりと見つめるのである。だが、久秀は禿げあがった頭を右手でさすりながら、対して気にもしてない様子である。
義昭は書斎で久秀と2人っきりで面会していた。幸い、お竹は産まれた娘にかかりっきりであり、今日は義昭とは別行動であったのだ。
「わしゃの口数が多いのは産まれながらござるからなあ。今更、黙れと言われても、尻のほうから言葉が漏れ出してくるでござるよ」
「尻のほうから出てくるのは、おならでおじゃる。お前は、おならでひとと会話ができるのかでおじゃるか!」
義昭の言いに久秀がおならをブブッブブブブ、ブッボオオオオン!と鳴らす。
「貴様!将軍に対して、おならをかますとは不遜な奴でおじゃる」
「今のおならは【コンニチワ。ゴキゲンイカガデスカ?】でござる。義昭さまがおならで会話をしろと言うから実践しただけでござる」
「お前はアホでおじゃるか。気分は最低でおじゃる。本当におならで会話をしてどうするかでおじゃるか!」
義昭は、おならを目の前でされたことに怒り心頭である。だが、久秀は相変わらず、禿げ上がった頭を右手でさするだけである。
これではらちが明かぬとばかりに義昭は本題に入ることにする。義昭は以前、信玄から送られてきた書状をぽいっと下手投げで久秀に放り投げる。
「ふむ。これはなんでござるかな?わしゃに愛の告白をするために義昭さまが文にしたためてくれたのでござるかな?」
久秀の軽口に、くっと唸る義昭であるが、彼のペースにはまらぬように平静を装うのである。
「違うのでおじゃる。まろが去年、信玄からもらった書状でおじゃる。貴様にそれを読んでもらって感想を聞かせてもらいたいのでおじゃる」
義昭の言いに、久秀がふうむと思う。とりあえず、中身を確認してからでござるなと思いながら、手渡されたその信玄からの書状を読むのである。
「何々。信玄さまは義昭さまに三河の土地を献上すると言う話が書かれているのござる。これがどうかしたのかでござるか?今更、義昭さまは土地が欲しくなったのでござるか?」
「問題はそこの部分ではないでおじゃる。追伸の部分を読むのでおじゃる」
義昭に促され、久秀はさらに書状を読み進める。そこには信玄が上洛すると言う旨と、この度の上洛命令は将軍さまの意向かと書かれているのである。
「これは良いことでござらぬか?何か、問題でもあるのでござるか?信玄さまが上洛したいと言うだけでござろう?」
久秀は不可解な顔で義昭に問いかけるのである。
「そなたほどの男でも、信玄の真意には気付かないでおじゃるか。それなら、御父・信長殿が気づかないのも仕方がないでおじゃるな」
義昭の言いにますます、不可解な顔つきになる久秀である。
「この書状には何か謎かけが含まれているのでござるか?一見、ただの信玄の口約束にしか読めないでござるぞ?」
久秀の問いかけに義昭は、ふむと息をつく。
「まあ、下賤の者にはこの謎かけは解けないでおじゃるのかもな。高貴な生まれである、信玄とまろにしかわからないのでおじゃるな」
義昭は言いながら、うんうんと頷くのである。久秀は少し、カチンとくるがその素振りを見せぬように義昭と話を続ける。
「まあ、信玄さまは正統なる清和源氏の家筋でござるからなあ。尊き足利家の本家筋を受け継ぐ、足利義昭さまとしか通じ合えないものがあるのでござるなあ」
久秀は少し嫌味たらしく言うが、そもそも尊き血筋である義昭にはこの手の嫌味は逆効果であった。
「良いかでおじゃる。この書状には信玄が上洛についてのことが書かれているのでおじゃる」
「そんなの読めばわかるのでござる。そこに何の意味があるのかと聞いているのでござる」
義昭の上から目線に少々いらつきながら久秀が尋ねる。
「まだわからぬでおじゃるか。本当、下賤の出の者は理解が遅いのでおじゃる。信玄はまろに、この度の上洛命令は、まろの命令なのかと聞いているのでおじゃる。そんなわけがないのは誰の眼から見てもあきらかなのでおじゃる」
「そんなことでござるか。義昭さまは信長さまに全てを一任すると約束をしたのではないかでござる。何でござるか?義昭さまは信長さまとの約束を反故する気でござるか?」
久秀の言いに義昭がぐふふと笑い、言葉を続ける。
「その通りなのでおじゃる。まろは御父・信長殿との約束は越権行為と考えているのでおじゃる。だから、まろは信玄に上洛命令を与えるのでおじゃる」
久秀がごくりと唾を飲みこむ。ようやく義昭が言いたいことを理解できるようになってきたからだ。
「それは謀反と言うのではないかでござるか?信長さまの上洛命令をなかったことにして、義昭さまが直接、信玄さまに上洛命令を出すということでござるよな?それはつまり、信長さまとたもとを分かつと言うことでござるよな?」
久秀は言葉を選びながら、慎重に義昭にそう質問をする。
「何が謀反でおじゃるか。そもそも、御父・信長殿のほうが身分ははるか格下なのでおじゃる。謀反を起こしているのは、まろの権力を縛っている、御父・信長殿なのでおじゃる!それを正す時が来たのでおじゃる」
久秀は汗が額に一筋流れてくるのを感じる。それを右の手のひらでぬぐい、床にふり飛ばす。
「義昭さまは何故、わしゃなんかにその話をするのでござる。わしゃがこの話を信長さまに報告しないとでも思っているのでござるか?」
久秀の問いに対して、義昭が右手に持つ扇子を開き、それで口元を抑えて笑う。
「まろは知っているのでおじゃる。下賤の身の貴様には人に逆らうしかない獣の血が流れていることをでおじゃる。貴様は機を探していたのでおじゃる。御父・信長殿を出し抜くことを。あわよくば、天下を自由にしたいと思う、その野望を!」
義昭の言葉に久秀は激しく動揺する。
「わしゃは信長さまを天下に君臨してもらうことが夢でござる。何を言われれようがそれは変わらぬでござる!」
久秀は動揺している心を鼓舞しながら、必死に義昭の言いに逆らおうとする。
「何が信長を天下に君臨させる夢なのでおじゃる。貴様には誰よりも深い闇を抱えているのでおじゃる。その貴様が信長などの下で甘んじるわけがないのでおじゃる。自分に素直になるのでおじゃる。本当に叶えたい夢を思い出すのでおじゃる!」
久秀は思う。信長の語る夢は甘い砂糖菓子のように心地よい。だが、義昭のささやく夢は心をざわつかせるものだ。この男は危うい。久秀の直観がそう告げるのである。
「久秀。本当に叶えたい夢は何でおじゃる?信長の下でただの1家臣として潰えるのが貴様の夢でおじゃるか?そうではないでおじゃろう。貴様には名誉を欲する心があるでおじゃる。高き頂きに登るためなら、まろをも殺す狼でおじゃる。鎖につながれた狼なぞ、存在価値はないのでおじゃる!」
「くっ。わしゃは惑わされぬでござる。義昭さま。わしゃはあなたと一緒に死ぬ気はないでござる!」