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ー猛虎の章14- 信玄と馬場

「信玄さま。ご気分いかがでござるか?寒くなってきたので、部屋は充分に暖めておくのでござる」


 馬場信春ばばのぶはるが信玄が住む屋敷にやってきて、そう信玄に聞くのである。


「おう、馬場か。なんだか身体がぽかぽかするのだわい。信長殿から贈られてきた薬を試してみたのだが、これがなかなかに効くのだわい」


 信玄は暑いのか、上半身の着物を脱ぎ、団扇でぱたぱたとおあいでいるのである。


「ちょっとやめるのでござる!見てるこっちが寒くなるのでござる。風邪と聞いて心配してやってきてみたら、一体、何をしているのでござるか」


「暑いものはしょうがないのだわい。信長殿の添え書きには、薬の作用として汗が大量に出るとは書いてあるのだが、これがまたすごい量なのだわい。身体を拭いても拭いても、後から汗が出るのだわい」


 信長が信玄に贈った風邪薬は、曲直瀬まなせ作である。長年、改良を加え、おしっこが噴水のように飛び出すのから、汗が大量に吹き出す方向に変わったものである。


「まあ、風邪を引いたら、汗をかくためにも水分をとるのが一番だと言うでござるが、少々、出過ぎでござらぬか?出した分はしっかり塩分と水分を補給するでござるぞ?」


「わかっておるのだわい。しかし、塩と言えば、昔、謙信から塩を贈られてきたのには驚いたのだわい。今川氏真いまがわうじざねをちょっと小突いたら、奴め、こちらとの塩取引を全面的に禁止しおったのだわい。いやあ、あの時はさすがに死ぬかと思ったのだわい」


 信玄が今川氏真いまがわうじざねが治める駿河を攻めた際に、北条氏康ほうじょううじやすの手により、防がれた。しかし、その後がいけなかった。怒った氏真うじざねが甲斐と駿河の塩取引を全面的に禁止したからである。


 人間、塩がなければ段々と衰弱していき、ついには命の危険にさらされることになる。


 信玄には海に面した領地がこのときはなかった。だから、塩をどうしても他国から輸入せざる負えないのである。今川義元と戦っていた時期はあったが、その時は今川義元も、信玄はともかくとして、そこに住む民のことを想い、塩の禁輸はしなかったのである。だが、氏真うじざね氏康うじやすと共謀し、駿河侵攻の罰とばかりに甲斐から南の塩の輸出を禁止したのである。


「いくら、みかどみことのりで謙信との停戦協定が結ばれたと言ったからと言って、謙信はあほなのでござるか?敵に塩を送るとは一体全体、何を考えているのでござるか?」


 馬場がそう疑問を呈する。


「知らんのだわい。そもそも、あいつが信濃に攻めてくる理由自体が意味不明なのだわい。村上吉清むらかみよしきよに土地を返せと言ってきたのが川中島の戦いの発端であったが、あいつは何を他人のためにいくさをしているのか、戦わされてるこっちが迷惑だったのだわい」


 ちなみに【敵に塩を送る】と言うことわざはこの謙信と信玄とのやりとりから生まれた言葉である。


「で、相模の獅子は今、どのような状態なのだわい。うちの忍者衆を大量に送っていると聞いているのだわい」


「はっ。そのことについてでござるが、氏康うじやすめは死の床にあると言う話でござる。今では政務を執り行うこともできない状態だと忍者衆から報告が上がっているのでござる」


「やっと、長年の敵が死んでくれるかだわい。あいつにはとことん苦しめられたのだわい。これで、しばらく関東は混乱に陥るのはずだわい」


「ようやく信玄さまが上洛するための準備がひとつ終わったところでござるな。しかし、関東の混乱に乗じて、東に進出するのも悪くはないと思うのでござるが」


 馬場の言いにふむと信玄が息をつく。


「確かに、関東は魅力的な土地だわい。だが、そこの攻略にかまけていては、武田家が京に上る機会を失ってしまうのだわい」


 そう言った瞬間、信玄はごほっごほっと咳き込むのである。


「くっ。この身体がまともであれば、こんな苦労もなかったのだわい。それが口惜しくてならんのだわい。武田家のためにも、そして、勝頼かつよりのためにも、京への道を開拓せねばならないのだわい」


「心中、御察しするのでござる。勝頼かつよりさまが信玄さまほどの器量があれば、信玄さまも心痛める必要はなかったと言うのにでござる」


 馬場はそう言いながら、悔しそうな顔をする。馬場にはわかっていたのだ。主君である信玄さまが風邪を引いているのは、他の病が原因であることを。


「ごほっほごっ。まあ、人間、生きていればままならぬことはあるのだわい。やれる限りやるしかないのだわい」


 信玄は咳き込みながらも、気丈に振る舞うのであった。


「ところで、娘の松のやつはどうしておるのだわい。なにやら、聞いた話、ここ甲斐から出立して2カ月ほども経ちながら、物見遊山にふけって、なかなか岐阜に辿り着いてないと報告が上がっているのだわい」


「はあ。今日には岐阜の城に到着するのではないかと言う、忍者衆の話でござる。何故、信玄さまの娘でありながら、あんな性格に育ってしまったのか、謎なのでござる」


「うーむ?男どもとは違って、娘どもは乳母に任せっきりだったのだわい。少し、自由奔放に育ちすぎたのかだわい」


「こう言ってはアレですが、信玄さまは子育てをしっかりするべきだったと思うのでござる。反乱を企てるような義信さまみたいなひとに勝頼かつよりさまが育っていたら、どうする気だったのでござるか」


「まあ、義信は女が絡んでいたから、ああなったのだわい。男は女が絡めば、気が狂うものもいるものだわい。嫁に心奪われるような男では大名の跡継ぎは任せられないのだわい」


「信玄さまは少し女性に冷たすぎる気がするのでござる。諏訪姫などが良い例なのでござる。せっかく苦労して諏訪に圧力をかけてまで手に入れたと思えば、子供を産ませたら、用済みとばかりに寝室に呼んでいないようなのでござる」


「そりゃあ、大層な美人だと思って、手に入れてみたはいいが、夜の営みについてはまるで丘に上がったマグロみたいなのだわい。いくら、わしの上に乗れと言っても、いやだいやだと言われ続ければ、こっちも嫌になるのだわい」


 信玄の言いに、はああああと深いため息をつく馬場信春ばばのぶはるである。


「しかし、今頃、松は幸せになれているのかだわい。戦国乱世の時代と言えども、好いた男の元に嫁げるのはきっと幸せなことだわい。散々、ひとから奪うかのように嫁を作ってきた、わしが言うことではないかもしれぬのかだわい」


 信玄は部屋の天井を見上げながらそう呟くのである。




 一方、その松姫たちと言えば、岐阜の城で信忠のぶただとの面会をしていた。だが、信忠のぶただは松との約束を守るためにあることをしていたのである。


「自分は死にませええええええ!だって、松姫が好きだからあああああ!」


 なんと、信忠のぶただはあろうことか、屋敷の屋根に上り、岐阜の中心で愛を叫んでいるのである。


「聞こえませええええん!もう一度、お願いしますでございますわあああああ!」


 松姫がにこにこと嬉しそうな顔をしながら信忠のぶただにリテイクを要求する。信忠のぶただは、くっと呻き、もう一度、叫び出す。


「松姫えええええ!俺はお前が好きだあああああああああ!お前がほしいいいいいいい!」


「では、そこから飛び降りて、わたくしを抱きしめてくださいでございますわあああああ!」


 松姫の言いに、ええっ?という顔付きになる信忠のぶただである。


「あ、あの。今、鎧姿でござる。この格好で屋根から飛び降りたら、下手したら死んでしまうでござる」


「なんですってでございますわあああ?聞こえませんのですわああああ!」


 信忠のぶただは、くっと再び呻きをあげる。


「飛び降りて、私に飛びつき、抱き上げてほしいのでございますわあああ!そうしたら、わたくしはあなたが信忠のぶたださまだと信じられますのでございますわああああ」


 信忠のぶただは屋敷の屋根の上から下を見、ごくりと唾を飲みこむ。自分は父上のような、強靭な筋肉を持っているわけではない。下手をしなくても、足の1本くらい折れそうな気がしてならないのである。


 屋根の上の信忠のぶただを見かねて、信忠のぶただの側付きの者が地面に布団を用意する。よくやった、あの者、あとで褒美をやらねばならぬな!と思う、信忠のぶただである。


「あらら?布団を用意されたのですかでございますわ。ふーん、まあ、怪我をされたら大変ですし、しょうがないのでございますわ。でも、それではせっかくの感動の場面が台無しなのですわ」


 松姫は少し残念な顔をしたが、何かを思いついたのか、パンっと手を叩き、屋敷の入り口にあるかがり火からひとつ、火のついた薪を取り出し、あろうことか地面に敷いた布団にそれをポイッと投げ込むではないか。


 布団はメラメラと燃えはじめ、もうもうと煙を立ち昇らせるのである。


「ちょっと、何をしているでござる。これでは自分、火だるまになってしまうでござる!」


信忠のぶたださまは手紙で、松姫のためなら例え火の中、水の中であろうがやってくると書かれていましたのでございまわあ。あなたが信忠のぶたださまなら、火の着いた布団などに恐れをなすことはないのでございますわあああ!」


 信忠のぶただは松姫との手紙のやりとりで、松姫が夢見る乙女のような感じを受け取ってはいたが、まさかこれほどまでかと恐れを抱く。正直、布団に火をつける行為よりも、そんな発想に辿り着く松姫の思考回路に驚きを隠せない。


 しかし、火の中、水の中、屋根の上、そんなことがどうと言うのであろうか。惚れた女性とかわした約束のひとつやふたつ、守れなくて何が男だと言うのだ。


 信忠のぶただは意を決する。屋根の上から火がついた布団に飛び降り、松姫を抱きかかえ、自分の女にするのだと。信忠のぶただがまさに、屋根の上から飛び降りようとした瞬間、信忠のぶただは松姫を見た。


「火の勢いがあまり強くないのでございますわ。そうだ、火に油を注ぐと言うのでございますわ!」


 松姫はどこからか取り出した、油の入ったとっくりの蓋を外し、どばどばと火のついた布団にぶちまけるのであった。


 信忠のぶただはその行為に眼を剥いたが、勢いを止められぬまま、その業火の中に身を投げ出すのである。

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