ー猛虎の章 3- 勝頼と松姫
「うるせえ。馬場、そこをどきやがれ。俺は小便がしたいだけだ。厠に行くだけだ!」
「ほほう。厠でござるか。拙者は勝頼さまがもしや、松姫にここでの会話を全て話すつもりかと思っていたのでござる」
「そんなわけがないんだぜ。ただ、小便がしたいだけなんだぜ。厠と松姫は関係ないんだぜ!」
勝頼と馬場は睨み合ったまま、一触即発の状況となっていた。そんな2人を見つめながら、信玄は、ふむと息をつく。そして、ひとりごとを言うかのように
「ああ、松姫が何も知らずに、愛する男の元に向かうと言うのであれば、わしには何もできないのだわい」
その言いにギョッとするのは、馬場である。
「何を言っているのでござるか、信玄さま。機密を知った者を逃がすわけにはいかないのでござる。例え、それが信玄さまの大切な娘と言えども例外はないのでござる!」
「ん?どうかしたのかだわい。わしはただ独り言を言っただけだわい。しかし、おんな1人が旅をするのは難儀なことだわい。信濃と岐阜の国境沿いの城にいる、勝頼の弟・仁科盛信にでも案内をさせるほうが安全だと思うのだわい」
「し、信玄さま!あなたさまは一体、何を言っているのでござるか」
慌てふためく馬場を見て、勝頼はぴーんと来るものを感じる。
「すまねえ、親父、それに馬場。叱責なら後で受ける。俺はちょっくら厠に言ってくるんだぜ!」
馬場の静止を振り切り、勝家が部屋から飛び出していく。そして、そのまま、松姫がいる屋敷にすっ飛んでいくのであった。
「ふう。信玄さま。焚き付けるにしても、言葉を選ぶのでござる。もし、勝頼さまが、松姫殿に全てを話した場合は、2人とも斬らなければならなくなっていたところでござる」
「はっはっは、げふっげふっ。馬場、お前こそ、何を3文芝居をしているのだわい。お前のへたくそな芝居のほうが、見てるこちらとしては肝が冷えたのだわい」
馬場は、ふうやれやれと言った表情でどかりと胡坐をかいて、畳の上に座り込む。
「本当なら情など捨ててしまわねばならぬのが、勝頼さまなのでござる。次期当主としてはいささか、不安なのでござる」
「情はなるべくなら、捨てるのが正しき王者の姿だわい。だが、情を捨てきってしまった王者に付き従う民は、それでは生きにくいのだわい。馬場よ。勝頼が足らぬ部分は、お前が補ってやるのだわい」
「遺言のつもりでござるか、信玄さま。信玄さまにはまだまだ死んでもらうには早すぎるのでござる。その命の全てを使って、信長を討ち取ってもらうのでござる」
「はっはっは、げふっげふっ。本当に人使いの荒い家臣を持ったものだわい。わしに死が訪れるまで、徹底的に使い潰すつもりなのかだわい。これはおちおち、畳の上では死なせてもらえないのだわい」
「信玄さまが死ぬのは、戦場以外には無いのでござる。何をのうのうと畳の上でなとどほざいているのでござる。信玄さまにはやらねばならないことがたくさん残っているのでござる。楽には死なせないのでござる」
馬場の言いにやれやれと言った表情をつくる信玄である。本当にこの馬場と言う男は武田家のためなら、主君の命ですら、将棋の盤上の駒のひとつにしか過ぎないのではないのかとさえ思えてくる。
「わしは良い家臣を持ったものだわい。さて、そろそろ皆を呼んでくれなのだわい。わしの身体が動く間は、仕事をするのだわい」
馬場は、はっと短く返事をし、部屋から退出していく。そして、皆を再び呼び集めるのであった。
一方、松姫の屋敷に向かった勝頼であったが、向かっている最中に存外、頭の中は冷えていた。親父である信玄の言ったことを頭の中で反すうしているうちに、冷静になってきたからだ。
とにかく、松姫を武田領から逃がす。だが、理由を教えてはならない。理由を知られては、松姫の命だけでなく、武田家の存在自体が危ぶまれることになる。
いっそ、松姫を駕籠に無理やり乗せて、何も言わずに織田家へと送るのが一番の手では無いかとさえ思えてくる。
しかし、それではいらぬ詮索を松姫にさせてしまう。ここで自分が良い案を思いつかねばならないのである。誰の手も借りることはできない状況であったのだ、勝頼は。
そうこう考えるうちに、勝頼は松姫が居る部屋の前にまで、やってきていた。考えがまとまらぬままだが、ここまで来て、退き下がることはできない。ここで退き下がれば、馬場の哄笑を受けるのが目に見えている。うぐぐっと口から漏らしながら、部屋の襖を開けるべきか逡巡するのであった。
「だれか、来ているのでございますか?わたくしに用がございますのなら、中にはいってきてくれていいのでございますわよ」
「う、うむ。武田信玄が嫡男・勝頼なのだぞ。松よ。部屋に入らせてもらうのだぞ」
勝頼は意を決して、松姫が居る部屋に入るのであった。
「あらあら、お兄様でございますか。今日は一体、何故、こんなところに足をお運びになられたのでございますかですわ?」
「ああ、松の顔が見たくなったのだぞ。近頃は大変、美しくなったものだな。やはり、惚れた男がいると女は変わると言ったところか?」
「いやだ、お兄様。それはもしかして、信忠さまのことを言っているのですか?例え、兄弟と言えども、いらぬ詮索をしてほしくないものですわ」
「いやいや。信忠と仲良くしているというのであれば、俺は別段、文句はないのだぞ?そう言えば、親父が多忙ゆえになかなかに式の日取りが決まらぬことに、すまぬだわいと言っていたのだぞ」
「まあまあまあ。父上が本当にそんなことを言っていたのですか?半ば信じられないのですわ。本当なら、昨年には信忠さまと式を挙げる予定だったのに、織田家自体が大変なことになっているからと、おざなりにされていますのですわ」
松姫はほおを膨らませて、ぷんぷんと父・信玄に対して愚痴をこぼす。勝頼がまあまあと言いながら、その愚痴を抑え、うっほんとひとつ咳払いをする。
「松よ。もし、お前が良いのであれば、式は後にして、先に信忠の元に行くことは可能なのだぞ?」
「え?お兄様、それはどう言う意味なのですか?」
「織田家は今、畿内で敵に囲まれている故、武田家と織田家共同の開催で信忠と松の結婚式を挙げることは難しい状況なのだ。だが、信忠の元に松が輿入れをする話自体は、すでに約束されていることなのはわかっているよな?」
「はい。信長さまの娘をお兄様の嫁にもらう代わりに、わたくしが信忠さまの元に嫁ぐと言う話ですわ。お兄様はすでに信長さまの娘をもらっているから、あとは私が織田家に向かうだけなのですわ」
「そういうことだ。どうだ、松。信忠の元へ行きたくはないか?」
「はい。行きたくないと言えば嘘になりますのですわ。わたくしは信忠さまの元へと今すぐにでも行きたいのですわ」
「そう言うと思って、俺は、さっき親父と話をつけてきたのだぞ。そしたら、親父は正式な結婚式が後になってしまうのは惜しいが、愛し合う2人がいつまでも一緒になれないことのほうが、心が痛いのだわいと言っていたのだぞ」
「まあ、本当ですか!では、わたくしは、信忠さまの元へ向かってもいいのでございますか?」
「ああ、細かいことは、俺がやっておくのだぞ。親父は俺に一任してくれたのだぞ。松よ。1週間後に出立になるゆえ、簡単な準備と、連れていく女中の2、3人は決めておくのだぞ」
「1週間後ですか?それはいささか、急な話ではないですか?もっとのんびりでも良い気がしますのですわ?」
「それはだな。親父が徳川家と喧嘩をしてしまって、東海道は通れないのだぞ。まったく、あの親父は。娘に信濃の山奥を通って岐阜に行けとは少々、難儀なのだぞ。松よ。1週間もすれば10月に入ってしまうのだぞ。女の足で甲斐から信濃を通って岐阜に向かうとなれば、冬が到来してしまうのだぞ」
勝頼にそう言われ、松姫は得心がいく。
「そうですわね。冬になってしまえば、また、春まで信忠さまに会いにいく機会が無くなってしまうと言うことなのですわね。さすが、お兄様なのです。わたくしのためにそこまで考えていてくれたのですわね」
だが、勝頼の考えは松姫とは全くもって違っていた。これから10月にはいれば農閑期になり、親父は北条との決着をつけて、来年の春には、織田家に対して、何かしらの行動をとる可能性が高くなる。
そうなれば、妹の松姫が、信忠の元に嫁げる可能性は限りなくゼロになるのだ。松姫が織田家に向かえるのは、今、この時しかないのである。しかし、この武田家の内情を松姫に言うことはできない。さらには悟られてもいけないのである。
「ああ。俺は松のことを大層、大事に思っているからな。ああ、信忠に松を取られてしまうと思うと、歯がゆい思いであるなあ!」
「ふふふっ、何を言っているのですか、お兄様は。信忠さまはお兄様と同様、とても、わたくしのことを大事に思っているのですわ。お兄様は焼きもちを焼かないようにしてほしいのですわ」
「はははっ。すまぬ、すまぬ。松よ。しかし、信忠は幸せな奴だな。もし、松をいじめるようなことがあれば、俺は織田家と1戦、構えなければいけなくなるのだぞ」
「嫌ですわ、お兄様。わたくしが信忠さまに嫁げば、信忠さまはお兄様の義弟になるのですわ。義兄弟での喧嘩を止める役をするはめになるのは、わたくし、いやなのですわ」
「はははっ。そうであるな。これは、なるべく織田家とは仲良くできるように親父にも注意を促しておかなければならないのだな。さあ、松よ。ぐずぐずしていてはすぐに冬が来てしまうのだぞ。ささっと準備をしてしまうのだぞ」
「わかりましたわ、お兄様。でも、松ひとりでは1週間で準備はできないのですわ。お兄様も手伝ってくださいまし?」
松姫は兄である勝頼の助言通り、1週間後には父親の信玄に挨拶を済ませ、甲斐から出発して、信濃を経由しての旅路につくのであった。それが、松姫にとって、父・信玄と兄・勝頼との永遠の別れとなることは、このときはまだ、知らなかったのである。