ー猛虎の章 2- 信玄の意思
「信玄さま。本願寺顕如からの書状が届いているのでござる。眼を通してほしいのでござる」
「馬場信春か。顕如から何の書状だわい。わしは多忙の身だわい。いちいち、書状を読まねばならぬのだわい」
「しかし、無視をするわけにはいかないでござる。まあ、中身は読まずとも大体わかるといったところでござるがな」
馬場信春が顕如からの書状をずいっと信玄に突き出す。信玄はうろんそうな目つきでその書状を受け取り、ガバッと長机の上に広げるのである。
「ふむふむ。本願寺と友好を深めて、同盟を結んでほしいとって言うことだわい。こいつは何を言っているんだわい。そんなことをしたら、武田家は織田家との関係をご破算しなければならなくなるんだわい」
「ふむ。これは機が到来としたと言うのでござる。天の時、地の利、人の和がまさにそろったと言うことでござるな」
「何を言っているんだわい。何故、顕如の言いに従う必要があるんだわい。あいつは何かを勘違いしている節があるんだわい」
信玄の言いに、ふふふっと笑いだす馬場である。
「これは失敬したでござる。これに乗るのは、信玄さまが顕如の下につけと言うことでござったな。信玄さまが従うのは、将軍さまだけでござる」
「わかっておりながら、何を言いだしているのやらだわい。武家が従うのは将軍さまであって、腐れ坊主ども相手ではないのだわい」
「しかし、惜しい話ではあると思うのでござる。その肝心の将軍さまからは未だに返事がないのでござる。果たして、三河の土地は気に入らないと思えるのでござる。いっそ、尾張や岐阜の土地を献上すると書状に書いておけば良かったのでござる」
「はっはっは。げふっげふっ!ああ、馬場が変なことを言うから咳き込んんでしまったのだわい。そんな直接なことを書けるわけがないのだわい。それに、信長が育てた豊穣の地を将軍さまに渡すのは惜しいと思わないのかだわい」
「信玄さま。咳が少々、気になるのでござるが、大丈夫なのでござるか?やはり医者にちゃんと見てもらったほうが良いのではござらぬか?」
馬場が心配そうに信玄の顔を見つめている。近頃の信玄さまの顔色が若干、生気を失っているような気がしてならないのである。
「はっはっは。何を心配しているのだわい。ちょっとした風邪なのだわい。2,3日もすれば、治るんだわい」
「それなら良いのですが、北条氏康めが病で床に臥せているのでござる。もしや、信玄さまにも何か持病があるのではないかと疑いたくなるのでござる」
「氏康の奴は、今までの悪行が祟ってのことだわい。奴に殺された者たちの怨念が、氏康を苦しめているのだわい。その点、わしは品行方正で、死霊どもにまとわりつかれる理由はないのだわい」
信玄の減らず口に馬場が気をもむことになる。
「信玄さま。大事なことを話たいのでござる。ひと払いをお願いするのでござる」
馬場の言いに、信玄の元に集まる諸将たちが怪訝な顔つきになる。しかし、武田四天王である馬場信春の発言力は強く、他の内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信が居ない以上、逆らえる者などいないように見えた。
「おいおい、俺まで追い出されるわけじゃないよな?俺は父・信玄の嫡男・勝頼だぜ?馬場。もしかして、お前まで俺を追い出そうと言うわけなのだぜ!」
馬場はふうううと長いため息をつく。そう言えば、勝頼さまが居た。さすがに他の諸将は部屋から退出させることはできても、嫡男まで追い出すわけにはいかない。
「わかったのでござる。勝頼さまも残ってほしいのでござる。ささ、信玄さま。ひと払いをお願いするのでござる」
「ふむ、わかったのだわい。おい、馬場と勝頼を置いて、他の者は退出するのだわい。なあに、あとでお前たちにも話をしてやるのだわい。不服そうな顔をするのは止めるのだわい」
信玄に促されることにより、馬場と勝頼以外は部屋から退出を始める。不満気な顔をしている者もいるが、馬場は気にした風もない。
3人以外が部屋から退出するのを確認した馬場が口を開く。
「で、信玄さま。信玄さまの命はいつまでもつのでござるか?」
馬場の直球な疑問に、勝頼が驚いた表情になる。
「おい、馬場。お前、何を言ってやがるんだぜ!うちの親父が死ぬって言うのかよ」
勝頼が激昂して、馬場にきつく言い、喰いかかるような視線を送る。しかし、馬場の顔は真剣そのものであり、逆に勝頼のほうが身をたじろぐことになる。
「はっはっは、げふっげふっ。馬場はわしのことを良く見ているのだわい。馬場には嘘は通じぬと見たのだわい。心配してくれるのが高坂なら、わしもフル勃起ものだったと言うのに。お前は、そのひげ面をどうにかしろだわい」
「冗談を言って、煙に巻こうとするのはお止めになってほしいのでござる。これは、武田家の一大事でござる。信玄さま、本当のことを教えてほしいのでござる」
馬場が正座からの平伏状態で、顔だけは信玄のほうを見ながら、真剣なまなざしでそう問うのである。信玄はそのまなざしを受けながら、右手であごをさする。
「もって3年。早ければ1年半と言ったところであろうだわい。医者の見立てではそうと言っているんだわい。まったく、氏康はひとりで逝く気はなさそうだわい。わしを道連れにしようという魂胆みたいだわい」
「くっ。もって3年でござるか。原因はその咳にあると言うのでござるか?」
馬場はらしくなく動揺をする。信玄の嫡男である勝頼はもっと激しく動揺するのである。
「どういうことだよ、親父!ただの風邪だって言ってたじゃねえか。ヤブ医者の言っていたことだろ?気にすることはないんだぜ」
「はっはっは、げふっげふっ。わしつきの信頼できる医者だわい。ただの風邪ではないようではないんだわい。労咳の疑いがあると言われておるのだわい。咳に少し血が混じっているのだわい。まあ、今は症状が軽いため、風邪とも違いがわからないのだわい」
「そういうことかよ。でも、安静にしてれば治るんだろ?ほら、最近は堺に南蛮船が来てるんだ。南蛮人たちの医者に診てもらえばなんとかなるんじゃないのかだぜ!信長の奴に南蛮人の医者を紹介してもうらおうなのだぜ」
「いや、できぬでござる。信玄さまは信長を攻めるつもりでござる。その信玄さまの容態を信長に知られてはいけないのでござる」
勝頼は馬場の言いに驚きの表情をつくる。
「な、何を言ってやがるんだぜ?信長を攻めるっていうのは初耳なんだぜ。松姫と信忠の結婚のことはどうするんだぜ!妹の松姫は信忠の結婚が楽しみで、毎日、書状のやりとりをしているくらいだぜ。信忠さまから贈り物をもらったって、嬉しそうに俺に報告してくれるんだぜ?親父は松姫のことをどうするつもりなんだぜ!」
「松姫か、ううむ忘れていたのだわい。こんな戦乱の時代に生まれなければ、あの娘にも苦労はかけなかったと言うのに、すまないことをしたと思うのだわい」
「すまないと思っているのなら、信長と同盟を破棄するのはやめるんだぜ。親父は幸せそうに嫁いでいく、自分の娘の姿が見たくないのかだぜ!」
勝頼はわめきちらすかのように、信玄に言い放つ。それをさえぎるように馬場は勝家に言う。
「勝頼さま。信玄さまの天下への道筋がつこうとしている今なのでござる。将軍さまが信玄さまに大義をお与えになるだけで、信玄さまは京の都へ上る絶好の機会を得れるのござる。女ひとりのために、信玄さまが邪魔をされるわけにはいかないのでござる」
馬場の言いに勝頼が、くっと口から漏らす。松姫はいつも笑顔で信忠のことを自分に言ってくれていた。できるなら、妹には幸せになってほしい。こんな世の中だからこそだ。
「言わせてもらうぜ、親父。松姫は武田家と織田家の争いには関係ないんだぜ。今から結婚式のことを考えれば、親父が考えている上洛の時期には間に合わねえかも知れないんだぜ。それなら、花嫁修業として理由をつけるでもして、松姫だけを信長に託すんだぜ!」
「はっはっは、げふっげふっ。そんなことをすれば、松姫の命は余計に危うくなるではないかだわい。元来、他国に嫁いでいく女性と言うものは裏切られたときに犠牲になるものが多いのだわい。我らが織田家に攻め込めば、松姫の命がないと言って、過言ではないのだわい。わしに松姫を殺せと言うのだわい」
結局のところ、解決策など何もないのではないだと、逆に叱責を喰らう勝頼である。勝頼は、ぐぬぬと唸る。どうにかして、松姫を信忠の元に届ける方法はないのかと、思案にくれるのである。
その思いを知ってか知らずか、信玄はふむと息をつく。
「勝頼。わしが逝けば、次の武田家の当主は、お前になるのだわい。非情になれ。お前は信濃、甲斐、駿河の王となるのだわい。わしの命が無くなる前に、信長を討てれば、尾張、岐阜まで、お前の領土になるのだわい。女ひとりのために王道を踏み外してはいけないのだわい。これはわしの遺言なのだわい」
「なにが、遺言だわいだぜ。まだまだ、元気じゃないかだぜ。3年と言わずに10年、20年、生きやがれだぜ!」
「10年、20年、わしが生きれれば、松姫には違った生き方をさせられたかもしれなかったのだわい。勝頼よ。松姫のことを頼んだのだわい。信忠の死が松姫に知れれば、あいつは髪を剃り、寺にはいるかもしれないのだわい。そうなったら、お前が面倒をみるのだわい」
信玄の言いに勝頼の頭の中で紐がぶちっと切れる音がした。勝頼は真っ赤な顔をして、立ち上がり、どかどかと部屋の外に出て行こうとする。
「勝頼さま。どこに行かれると言うのでござるか。返答次第では、勝頼さまを斬らなければならなくなるのでござる」
馬場も立ち上がり、勝頼を引き留めようとするのであった。