ー猛虎の章 1- 本願寺顕如の怒り
「くああああああああああああ!あの羽虫、便所虫があああああ。調子こきおってからに、ふざけるんやないやで」
「顕如さま、落ち着いてくださいでございます。たかだか、比叡山を焼き討ちされただけでございます。何、戦力に関して、問題はないのでございます」
比叡山の焼き討ちに憤慨し、その怒りを物に当たりまくる本願寺顕如をなだめるかのように下間頼廉が言葉を発する。
顕如はお経を書くための長机を右足でガンっと蹴り上げ、破壊する。机の上に乗っていた巻物や書物、そして墨が散乱する。その墨が床にぶちまけられ、畳を真っ黒に染め上げるのである。
「顕如さま。何をそれほどまでに怒っておいでなのでございますか?一向宗の砦を丸焼きにされたわけではございませぬ。ライバル関係である比叡山を信長が焼いてくれたと思えば、逆に、本願寺にとっては良いことだったと思うのでございます」
頼廉が顕如を後ろから羽交い絞めにし、必死にこれ以上、顕如が暴れないように、彼の身を拘束するのであった。
顕如は肩でハアハアと息をしながら、首をぎょろりと後ろに回し、頼廉の顔を睨みつける。
「頼廉んんん?なんで、わてが怒り狂っているのか、いまいちわかってないやろ、お前。信長の羽虫は、わてらに降伏せいと言ってきているんや。それが頼廉にはわからんと言うのか、あああん?」
頼廉は蛇に睨まれた蛙のような居心地になる。頼廉は羽交い絞めをしていた両腕を顕如の脇から外し、畳の上に平伏する。
「す、すいませんでございます。何故、比叡山を焼くことと、我らが本願寺への降伏勧告へとつながるのかが、わからないのでございます」
「頼廉んんん。信長の羽虫が比叡山を攻撃した日が何の日か覚えてへんのか?それがわかれば、おのずと答えがわかるはずやあ」
頼廉は平伏したまま、信長が比叡山を攻撃した日、つまり9月12日について考える。顕如さまの誕生日ではない。ましてや、自分の誕生日でもない。まさか!
「顕如さまの奥方さまの誕生日でございますか!」
頼廉がそう言った瞬間、腹に激痛を感じ、畳の上でもんどりかえることとなる。顕如が思いっきり、頼廉の腹を蹴ったからだ。
「お前も信長と同じく、羽虫か便所虫の類かなんかなんかいな?ふざけたことぬかしおって。思わず蹴ってしもたやないか」
頼廉はゲホッゲホッと嘔吐物をまき散らしながら、またもや平伏の姿勢へと戻る。
「す、すいませんでございます。自分には9月12日が何の日か、さっぱりわかりませんでございます」
「これやから、ざあこおは使えんのや。まあ、ええわ。耳かっぽじって、よおく聞きい?9月12日は、去年、わてらが信長の羽虫に一斉蜂起した記念日や。信長の羽虫は、それを知ってて、わざとその日を比叡山攻撃の日に選んだんや」
「な、なんと。信長めは、我らが本願寺が比叡山と同じ末路になると言いたいのでございますか!おのれ、不遜にもほどがあるのでございます」
「やあっと、ざあこおの頼廉にもわかったっちゅうことか。これやから、ざあこおと話すのは疲れるんや。で、頼廉。この信長の挑発、どう受ける気や?」
「か、各地の一向宗たちに号令をかけ、信長の領地を荒れ果てさせましょうでございます!信長の奴は比叡山との勝利で浮かれているはずでございます。その隙をつけば、勝利は我ら本願寺のものとなるかと思うのでございます」
「あほか、お前は。わてらだけでどないするつもりや。今、わてらだけが動けば、信長の羽虫は喜々として、わてらを潰しにくるに決まっとろうが。瓦解した包囲網を再び形成することが1番や。各個撃破の機会をわざわざ向こうに与えてはダメにきまっとろうが!」
顕如はそう言いながら、もう一度、頼廉の腹を蹴り上げる。またしても、頼廉は畳の上に吐しゃ物をまき散らしながら、もんどり返ることになる。
そして、顕如はつづけて、ひざを折り、頼廉の襟元をぐいっと掴み、ぐわっと自分の顔へと頼廉の顔を近づけ、そのギラギラした眼で睨みつける。
「三好三人衆は言うに及ばず、浅井・朝倉、そして六角に書状を送れ、頼廉。各地の信長に反目するやつらを一斉蜂起させるんや」
「し、しかし、それだけでは足らぬような気がしますのでございます。もっと、信長の敵を増やした方がいいと思うのでございます。例えば、波多野をこちらに引き込むように画策するのはいかがでございますか?」
「はーたーの?波多野かあ。それはちょっと、不可能ではないが、パンチ力としては弱いんやなあ。確かに、京の北西に位置する丹波から侵攻すれば、信長の羽虫が慌てふためるのはわかる。でも、軍事力として考えれば、波多野はそれほどでもないんやなあ」
顕如は右手であごをしゃくりあげ、東の方を見る。
「せやなあ。甲斐の虎を動かすっちゅうんはどないやのう。あいつが動けば、東からの挟撃が可能になるやで」
「し、しかし、武田信玄は信長と同盟関係でございます。わざわざ信義を捨ててまで、織田と敵対するとは思えないのでございます」
「信義いいいい?今、信義と言うたんか、頼廉。そんな、吹けば飛ぶようなもん、だれが大層、大事にしていると言うんや。それを言うなら、浅井長政は何故、信長の羽虫に逆らったんや。信義なんて言葉、捨ててしまえや、頼廉。だれも、そんなもんで動いてるわけがないんや!」
顕如の言いに頼廉がうむむと唸る。
「ですが、浅井長政にはまだ将軍・足利義昭との約束を守ると言う大義が存在していたのでございます。信玄には大義がどこにもございませぬ」
「そうや、そこや。頼廉、分かっているやないか。まさに信義なんつうもんは大義の前では便所の紙切れと同意や。信玄に大義を与えればいいだけの話や」
「は、はあ。大義でございますか。しかし、信玄が同盟破りを行っていいと言う大義なぞ、一体どこから手に入れればいいのでございますか。顕如さまからの命令と言えども、それは大義になりえないと思うのでございます」
「何を言うとるんや、きみ。さっき、自分で言ってたやないか。浅井長政は将軍との約束で織田家に反旗をひるがえしたと。武田信玄も同じ手を使えば、ことが運ぶっちゅうもんや」
「確かに自分で言いましたでございますが、長政の裏切りから、信長は将軍・義昭を軟禁状態に置いているのでございます。書状はもちろんのこと、医者を使っての言付けも、今や至難の業となっているのでございます」
「せやったなあ。足利義栄が死んでから、三好三人衆は動く気を失くしつつあるんや。だからこそ、足利義昭の身を、この本願寺で身請けしようとおもっとったが、まず、義昭に接触すること自体が難しいときたもんや。新たな御輿を準備しないことには、この包囲網の存在自体が危ぶまれることになるやでえ」
「新たな御輿でございますか。うむむ。その役目は足利義昭が1番と思うとございますが、如何せん、手だてが思いつかないのでございます。それほど、信長の義昭軟禁は、度が過ぎているのでございます」
「朝廷におもむくような用がないとき以外は一切、二条の城からは出られないようにしているみたいやからなあ。しかし、義昭の奴は自分から信長の羽虫から独立しようという気はあるんでっか?将軍の権力を奪われて、もう1年は経つと言うのに、義昭は何かの行動を取っている気配は感じられないんやで?」
「自分の調査結果から言わせてもらえば、和田惟政の後任に、京極高吉という人物を幕府の軍事顧問に置いたという話でございます」
「京極高吉いいい?どういうことや?そこは細川藤孝を使うところちゃうんか?」
「はあ。自分にもよくわからないのでございます。細川は信長と懇意だと言う噂があるのでございますが、その幕府の実力者である細川を排除してまで、京極高吉を使う理由がよくわからないのでございます」
頼廉の言いに顕如がふむと息をつく。
「なあああんか、怪しいと思わへんか?義昭は信長の羽虫の息がかかっているであろう細川を使わないんや。実績のほとんどない京極高吉を使うと言うことは、こりゃあ、何か裏があるんやで」
「裏でございますか。ううむ。義昭はもしかして、信長からの独立を考えている理由の一端になるのではございませんか?」
「そうやな。頼廉、お前の言う通りや。確かに義昭は信長の羽虫によって、将軍の権力を封じられてはいるが、幕府内の人事権については、義昭が握っているはずや。それは唯一、義昭が自由にできることと言って過言ではないんや。これはひょっとすると」
そこまで言うと、顕如は黙り、思案に入る。義昭には信長に知られてはいけない何かを持っている。その何かとは、よっぽど重要なことであるはずだ。顕如の直観がささやきかける。これは信長を追い詰める一手になるのかもしれないと。
「頼廉。わての直観がささやいているんやで。義昭が何か企んでいることは確かやで。それは、義昭の脱・信長につながっていると思うんやわ」
「はあ。直観でございますか。しかし、顕如さまの直観は良く当たりますから、もしかするともしかするのかも知れないのでございますね」
「そうや。直観にすぎんかもしれへんが、これは神仏からの啓示と言ってもいいかもしれんのやがな。頼廉、信玄に友好を結びたいと言う、書状を送るんやで。もしかしたらとしか言えんが、信玄が動く可能性があるんやで!」