ー一向の章11- 信玄からの書状
時は遡って5月。新築された二条の城の大屋敷で、義昭は頭を抱え込んでいた。
「お竹ちゃんが身ごもったのでおじゃる。まだ、式もあげていないと言うのに、困ったことになったのでおじゃる」
「何が困ったっていうのー?義昭ちゃん。まさか、義昭ちゃんは私との子供は嫌だったの!?」
「そう言うことではないでおじゃる。やはり、結婚式が先で、子供はそのあとと思っていただけでおじゃるよ?心配しなくとも、まろはお竹ちゃんとの子供は大歓迎でおじゃる」
義昭の言いに、ほっと胸をなでおろす、お竹である。
「よかったー。まさか、おろせなんて言われるのかと思って、冷や冷やしちゃったよー。ねえ、義昭ちゃん。産まれてくる子供がもし男の子だったら、義昭ちゃんが名前を考えてね?私は女の子だった場合の名前を考えておくからー!」
お竹のにこにことした顔に義昭がにんまりとしただらしない顔付きになる。しかし、頭をぶんぶんと左右に振り、大切なことを思い出す。
「うっほん。武田信玄さまから、義昭さまに書状を届いておるのじゃ。内容を吟味し返事を書くといいのじゃ」
そう、貞勝殿に言われて、信玄からの書状を受け取った義昭である。その内容について、義昭は頭を抱え込むことになったのである。
「義昭ちゃん、どうしたのー?眉間にしわを寄せちゃってー。何かお昼のおかずに気に入らないものでもあったのー?」
「いや、そうではないのでおじゃるよ、お竹ちゃん。信玄殿から書状をもらったので、どんな返事を返すべきかと考えているところでおじゃる」
義昭が信玄からの書状を広げて、その中身を吟味しているわけだが、横からお竹がその書状を読み
「へー。信玄ちゃん、義昭ちゃんに土地を献上するって書いてあるよー?でも、これって、三河の土地って書いてあるねー?三河って家康ちゃんの土地じゃないのー?」
「うっほん。三河の土地と言っても、山奥の信濃との国境付近の村のことを指していると思うのじゃ」
貞勝がそう、お竹に補足説明をする。お竹は、ふーんと思い
「でも、そんなところの土地をもらっても、京の都から遠すぎて、義昭ちゃんには余り得がない気がするのー。あ、でも、夏の避暑地として使ってくれってことなのかなー?」
お竹が呑気に自分の考察を述べている。しかし、義昭は、土地を与えられないよう、御父・信長殿から制限を散々、受けてきた。その信長と同盟国である武田信玄の進言としても、これが通るとは思えないのである。
お竹の言う通り、京の都は暑いので、避暑地としてしか、御父・信長殿からは許しは出ないであろう。
その辺の事情は、京の都から遠く離れた甲斐の信玄と言えども知っているはずだ。なら、なぜ、こんなことを言うために書状を送ってきたのか。その答えは追伸の部分にある。
「あ、信玄ちゃんも京の都に上洛するつもりなんだー。信玄ちゃんが来たら、京の都の安全は確保されたも当然だねー!」
京の都の周りでは、今、一向宗たちが暗躍し、村々の略奪を繰り返していた。その村々を守るために細川藤孝が兵を率いて治安維持に当たっているわけだが、どうにも旗色が悪い。
それを含めての信玄の上洛の意思表示なのかと思いきや、そうでもないのである。追伸の文言は要約すればこうだ。
・信長殿が上洛を促すので、自分も近いうちに上洛するので候。して、この上洛要請には将軍さまも認めたことなのか?
もちろん、義昭は、各大名が上洛するようにとの信長が発した命令に関して、認めてはいる。ただし、追認での形だ。100パーセント、自分の意思でかと言われれば、そうではない。
「まろは信玄殿が上洛してくれれば、嬉しいことは確かなのじゃ」
「じゃあ、いいじゃないー?信玄ちゃんに上洛してもらおうよー」
お竹の言いに義昭がううむと唸る。この書状で信玄が言いたいことは違う気がするのだ。土地うんぬんは通らないのはわかっている。だが、この追伸には違う意味が込められていると。
義昭は、この追伸に潜む、なにやら甘い毒を感じる。
「うっほん。信玄殿は駿河と遠江の土地を手に入れて、安泰な気分なのじゃな。東の北条氏康は敵ではないと思っているのかもなのじゃ。それで、悠遊と上洛する気になったのかもなのじゃ」
貞勝がそう、感想を述べる。だが、義昭の頭からは疑念が晴れない。信玄はきっと、何かを企んでいる。直観が義昭にそう告げるのである。
義昭はもう一度、追伸部分を読む。ひっかかるのは、上洛命令が自分の意思なのかどうかの確認していることだ。では、この書状に対して、義昭自身は納得していなと返事をしたら、どうなるのか?
義昭本人が納得していないなら、信玄は此度の上洛命令を無視すると言う運びになるのか?いや、違うだろう。追伸では、上洛をする意思を示しているのだ。では、何のための信玄の上洛なのか?
まかさ、これは千載一遇の機会なのでは!と義昭は思った。
「まろは少し、厠に行ってくるのでおじゃる。ちょっと、戻りが遅くなるかもしれないから、お竹ちゃんと貞勝殿はゆっくりしていてほしいのでおじゃる」
「義昭ちゃん、大のほうなの?義昭ちゃんが使ったあとは、すっごく臭いから、しばらく厠は使えないねー」
「うっほん。お竹殿、汚い話はやめるのじゃ。将軍さまの食生活は、自分が管理しておるのじゃ。そうそう、臭うことはないと思うのじゃ」
「そう思うでしょー?でも、これがそうでもないんだよねー。本当、義昭ちゃんのは、鼻が曲がりそうになるくらい、悶絶しちゃうもんー」
「まろの大便の話はやめるのでおじゃる。まろの大便はフローラルな香りがするのでおじゃる。現に大便をしている、まろの鼻が曲がっておらぬのじゃから、お竹ちゃんの鼻が曲がることはないのでおじゃる」
「えー?義昭ちゃんの体臭は好きだけど、大便の方は無理かなー?あー、いっそのこと、厠を義昭ちゃんと私の用で、ふたつ準備してもらえば、良かったよー」
「そんなに嫌がるほど、まろの大便の匂いは臭いのでおじゃるのか?うーん、お竹ちゃんと食べてるものは、それほど違わないはずなのでおじゃるがなあ」
「うっほん、腹の中に虫を飼っているのではないのかじゃ?虫が巣くうと、匂いがきつくなると言われておるのじゃ。なんなら、曲直瀬殿に虫くだしの薬を処方してもらおうかなのじゃ」
「やめてほしいのでおじゃる!曲直瀬の薬を飲んだら、虫が出ると一緒に、大腸まで出てくるに決まっておるのじゃ。そんな危険なものをまろに処方するのは、やめるのじゃ」
「曲直瀬ちゃんの薬なら、もっと違うものが出てきそうだよねー。きっと赤味噌が出てくるんじゃないー?」
「そこまで危険なものは出てこないとは思うのじゃが、曲直瀬殿の薬じゃから、否定できない一面もあるのじゃ」
お竹と貞勝が、曲直瀬の薬の副作用で尻から何が出るのか、議論をかわすのであった。それを聞いていると、思わず尻の穴がきゅっとする思いの義昭である。
「おっほん。何が出るかはわからないでおじゃるが、貞勝殿、くれぐれも曲直瀬の薬を持ってこないように注意しておいてほしいのでおじゃる。では、しばし、行ってくるのでおじゃる」
義昭はそう2人に告げると、部屋を出る。そして、厠には向かわずに、自分の書斎の方に向かっていくのであった。1人で落ち着いて、考えをまとめたかったのである、義昭は。
書斎に入った義昭は、まず、紙と筆を用意する。紙の真ん中に信長と書き、左には京の都・将軍と書く。続けて、紙の右のほうには信玄と書いた。
そして、信玄と書いたそこから、まっすぐ左へ線を描く。その線は信長と書かれた文字を貫き、京の都の部分まで引っ張る。
「信玄が上洛すると言うことは、必ず、御父・信長殿の領地に入ると言うことなのじゃ。何食わぬ顔で武田家の軍団を織田家の領地に入れることなのじゃ。ここから導き出されることは」
義昭は続けて紙に描いたのは、信長という字に大きくバツ印を描いたのである。
「おっほっほ。まろの推測が正しければ、信玄は上洛と偽り、御父・信長殿を討つ軍を立ち上げると言うことなのでおじゃる。しかも、信玄は御父・信長殿と同盟関係を崩す気はなさそうなのでおじゃる。これは、大胆な奇襲作戦となるのでおじゃる」
義昭は、紙を見つめながら、愉悦の表情へと変わっていく。
「信玄が土地を献上すると言っているのは、まろを奉る気があると言う隠喩なのでおじゃるな?そして、上洛命令は、まろが認可したものかと聞いているのは、御父・信長殿の独断専行と言うことで、将軍に逆らっているという大義名分を手にいれろと言っているのでおじゃるわけか」
義昭はあごを右手でさすりながら、ふむふむと頷く。
「さすが智将としても名高い、信玄なのでおじゃる。武田家が御父・信長殿の包囲網に参加すれば、さすがの織田家と言えども、滅亡は確定と言って良いのでおじゃる」
義昭は思わず、ふふっ、ふふふふっと笑いが込み上がってくるのが抑えられなくなってしまうのである。
「信玄の奴め。御父・信長殿の業績を総て、手にいれるつもりなのでおじゃるな。まあ、良いのでおじゃる。信玄が上洛した暁には、まろは信玄の庇護の下、天下をこの手に取り戻すのでおじゃる。しかし、手綱を握るのは、まろなのでおじゃる」
義昭は思う。信玄が上洛を果たせば、武田家に文句を言える勢力は無くなる。まあ、浅井長政あたりは文句のひとつも言ってくるであろうが、信玄が足利の幕府で専横を極めようとするのならば、また焚き付けて、今度は武田包囲網を作れば良いと。
「信玄の上洛と併せて、まろも挙兵するしかないでおじゃるな。しかし、御父・信長殿と懇意にしている藤孝は使えぬ。惟政が亡くなってしまったのは手痛い損失なのでおじゃる。京極高吉辺りを出世させ、軍の取りまとめ役となってもらおうなのでおじゃる」
御父・信長殿から独立を果たすため、義昭はひとり考えを巡らせるのであった。




