ー一向の章 4- 筋肉の次のステージ
「え?殿、今、何したの?湯飲みの中にあった、酒が消えちまったんだけど!」
「信長さま。私たちの眼を盗んで、いつの間にやら、飲み干しちまったのかい?」
信盛と小春が、そう信長に尋ねる。だが、エレナだけは感想が違った。
「信盛サマ。小春サン。違いマス。よく、鼻を使ってクダサイ。この辺りに充満する匂いはお酒デス。信長さまは、お酒を見えない粒にしてしまったのデス!」
エレナの言いに、信盛と小春がそんな馬鹿なと言う顔付きになる。だが、この匂いは濁り酒特有のものだ。まさか、本当に信長さまは、湯飲みを割らずに、中身の酒だけを綺麗に吹き飛ばしたことになる。
「エレナさんの言う通りですね。先生は、筋肉の回転をほんの一瞬の間に、湯飲みを通じ、お酒へと伝えたのですよ。その一瞬の膨大な力がお酒に加わったため、お酒はその姿を保つことができずに、霧散してしまったわけです」
信盛と小春は、ぽかーーーんとした顔つきになる。一体、信長さまはどれほどの鍛錬を積んでいるのかと、小春は理解が到底、及ばない。
「これを戦で応用すれば、鎧を通して、相手の肉体に直接、ダメージを与えることができるのですよ。乱戦では重宝すると思うので、信盛くんも会得してみるつもりはありませんか?」
「いやいやいや。そんなの絶対、無理だぜ!そもそも、何をどうしたら、殿みたいなことを出来るのか理解すらできないんだしさ」
信盛の言いに信長がふむと息をつく。
「残念ですねえ。まあ、それは置いといて、勝家くんは、この奥義を会得するための第1段階にまで来ています。柔らかい筋肉を作るのは、瞬発力を強めるためには必須と言って過言ではありません」
信長は戦っている勝家の方を見る。勝家は今、一鉄の身をその筋肉で包み込んでいる。以前とは違い、力があふれんばかりに抱擁しているのではない。優しく、ただ優しく、包み込んでいるのである。
勝家は集中していた。力を入れる瞬間、その際を見定めようとしていた。
一鉄は包みつぶされてはなるものかと、必死にもがこうとする。勝家は、ここぞとばかりに全身の筋肉に固まれと命じる。その瞬間、ベキベキボキバキッ!との音が宴会の会場中に響き渡る。
「ああ、これは一鉄さん、死んでしまったッスね」
利家は不謹慎、この上ないことを言いだす始末である。
勝家は、動かなくなった一鉄をそっと、床に置く。そして、両腕を天に突きあげ、そこから、両肘を折り曲げ、ガッツポーズを繰り出すのであった。
鼓を打っていた、秀吉と光秀が、鼓を放り投げ、急いで一鉄の元へと駆け寄る。そして、一鉄の息があることにホッと安堵し、胸をなでおろすのであった。
「ふひっ。勝家さま。強くなられましたのでございます。しかもご丁寧なことに、肩、肘、股関節、ひざの脱臼だけで済ませるとは、なかなかの技術なのでございます」
「ガハハッ。力のしめ具合に難儀したのでもうすよ。まだまだ殿には及ばぬでもうす。殿なら腕を捕まえた時点で、その腕を脱臼させているに違いないでもうす」
「そんなことありませんよ。戦と言うものは水の流れに似ています。戦と言うものは形がありません。それの全てに対応して技を繰り出せるほど、先生だって、達観できているわけではありませんからね?」
「ふひっ。ならば、僕にも戦いようによっては勝ち目が残されているということでございますね?それは良いことを聞いたのでございます」
「光秀、お主、殿と戦う前に、まずは、我輩を超えねばならないでもうすよ?浅井長政さまばかりに眼を奪われてはいけないでもうす」
「それは手痛い発言でございますね。まあ、長政さま相手と言えども、日々の鍛錬をおろそかにするつもりはございません。近頃は勝家さまに相撲で負けっぱなしですが、すぐにでも追いついて見せるのでございます」
「その意気や良し!では、長政さまとの決着がついた時には、光秀とまた、相撲で勝負をするのでもうす。殿、早う、長政さまとの再戦を希望するのでもうす」
「まあ、待ってください。2人とも。今は形上、停戦をしているのですよ、お忘れですか?仕掛けるにしても、それなりの準備っていうものが必要なのですよ」
「準備でもうすか。うーむ。光秀よ、しばらく勝負はお預けでもうすな。残念、この上ないでもうす」
「ふひっ。僕も残念なのでございます。今年中に再戦はおぼつかないかもしれないのでございますな」
勝家と光秀は残念そうな顔付きになる。まあ、この2人の勝負となれば、生死をかけた戦いになる。今、怪我をされたら困るのは、織田家の皆から見れば、一目瞭然だ。せめて、この包囲網の決着がついてからではないと困るのである。
「で、殿。次の戦はどうするんだ?停戦が効いている間に、こちらは畿内の安定を図ることになると思うんだけど?」
信盛はそう、信長に問いかける。
「まあ、畿内には、秀吉くん、光秀くん、丹羽くん、藤孝くん、それに村井貞勝くんを送っておけば、当分の平和は確保できるでしょう。そうしているうちに、伊勢と尾張の道を塞いでいる長島の一向宗どもを黙らせる必要がありますね」
「ガハハッ。ならば、次の戦場は伊勢の長島でもうすか。先鋒の任、この勝家にお任せいただきたいでもうす!」
「何を言ってるッスか。うちの赤母衣衆に出番を寄越せッス。勝家さまが出張ったら、俺の出番が無くなるじゃないッスか!」
「ん…。黒母衣衆にも出番がほしい。勝家さま、少しは自重して?」
「うむ。自分としても手柄がほしいところだ。殿、よろしいか?」
利家、佐々、そして河尻がそう信長に訴える。信長はあごに手をやり、思考する。
「そうですねえ。赤母衣、黒母衣衆には、長島の支城を取ってきてもらいましょうか。確か、2、3城ほど取られていましたよね?将を射るにはまず馬を射よといいますし、支城を落としてから、本城を攻めていきましょう」
信長の提案したのは常道の策であった。まず、外堀を埋めて、城を囲む。まさに盤石の攻めである。
「丹羽ちゃんが小荷駄隊から離れることになるのですが、信長さま、大丈夫なのです?」
大軍を運用する際に、丹羽はその大軍を維持するための要となる小荷駄隊を任されることが多かった。だが、今回は北近江と南近江の国境沿いの佐和山城での防衛任務となる。気がかりと言えば、気がかりなのであった。
「そうですね。金森長近くんに任せてみようと思っているのですよね。丹羽くんには功稼ぎをしてもらいたいですし、それと、利家くん、金森くんをお借りしていいですか?」
金森は赤母衣衆の一員であった。そのため、その筆頭である利家に確認をとるために信長が聞いたのだ。
「ん?金森ッスか?別に好きに使ってくれて良いッスよ?でも、そつなく仕事はこなす能力はあっても、丹羽殿のような働きを期待しちゃダメッスよ?」
「そうですか。うーん、ではもう一人、小荷駄を任せられる人物が欲しいところですね。あ、そうだ。河尻くん。塙直政くんを貸してもらっていいです?」
「塙であるか。やつはそこそこの指揮能力があるため、後方に下がらせるのはもったいない気もするのだが。まあ、殿がそうおっしゃると言うのであれば、自分は反対しない」
「では、赤母衣・黒母衣衆の小荷駄は塙くんで、勝家くんと先生の本隊の小荷駄は金森くんに任せることにしますかね。これで、支城・本城を同時に攻めることができます」
信長はふむと息をつく。進軍計画については概ね、話は整いつつあった。あとはそれに向けて、準備をするだけだ。
「さて、いつ頃、長島を攻めるかですね、次は。のぶもりもり、勝家くん、利家くん、河尻くん。それぞれの兵たちの状況はどうですか?」
「うーん。昨年は年末ぎりぎりまで戦続きだったからなあ。こちらも損害は少なからず出ているし、一か月ほど休養がほしいとこかな?あと、新兵の訓練もやらなきゃならん。畿内での募兵は、秀吉、光秀、丹羽に任せるとしても、岐阜の募兵分は俺がやらなきゃならないしなあ」
信盛の言いに、信長がうんうんと頷く。
「我輩の兵も去年は戦い続けていたでもうすから、こちらも休養がほしいところでもうす。いくら鬼柴田が率いる兵と言えども、休みなしの連戦は、きついでもうす」
「そうですか。織田家の2枚看板は疲弊していますか。仕方ありませんね。明日にでも出兵しようと思っていましたが、1か月、待つことにしますかね。でも、日々の訓練は欠かさずやっておいてください。休養で腑抜けられても困りますからね」
「そこは安心してほしいでもうす。休養は多めに挟むかも知れぬが、訓練自体はしっかりとこなしてもらうつもりでもうす」
「まあ、4日に1度は休む程度でお願いしますね。無理をさせすぎてもダメですし、その辺の加減はしっかりお願いします。のぶもりもり?2日に1度でいいじゃんとか言いださないように」
「ええ?なんで、俺の心を読むかなあ?」
「きみは怠け癖がありますからね。あと、一向宗の戦いは根切りとなりますので、新兵の皆さんには、精神的に強くなれるよう、留意してもらえますか?」
「うーん?精神修養をしろってこと?罪人の死体でも斬りきざまさせときゃいいのか?」
「そうですね、それでお願いします。ひとの身体を実際に斬ることを身体に体感させておいてください。そうすれば、実際の戦においても少しはましになるんじゃないですか?ついでに、新作の刀の試し切りも行っておいてください。一石二鳥でしょ?」