ー大乱の章17- 義昭の慟哭 そして停戦へ
貞勝はいやいやする、お竹を抱きかかえ、屋敷の外に向かって走り出す。義昭はすでに理性を失っており、拳を振るって部屋を破壊し始めていたのだ。一刻も早く、この屋敷から逃げ出さねばならぬと貞勝は後ろを振り向かずに逃げ出すのであった。
二条の城の大屋敷は大きく揺れる。義昭が拳を振るうたびに、屋根を支える柱が折れるのである。30分後、ついには屋根を支えることに耐えきれなくなった壁にヒビが入り、ガラガラガラッと崩れ始めるのである。
「義昭ちゃん、義昭ちゃーーーーん!」
屋敷は大きな破壊音と共に、ゴゴゴゴゴと潰れていく。義昭を巻き込んで崩壊するのであった。
かつて屋敷であった残骸にお竹はおそるおそる近づいていく。そして、がっくりと両ひざを地面につき、がれきの山を呆然と見つめるのであった。
しかし、がれきの山が震えだし、突然、爆発を起こし、残骸が宙に乱舞する。
吹き飛んだがれきの山の中心に義昭が立っていた。身体のそこら中から血を流している。屋敷が崩壊したときにできた擦傷からである。
「義昭ちゃん、無事だったのね!」
お竹は義昭に走って近づいていく。だが、貞勝は義昭の身を括目する。
「お竹殿、ダメなのじゃ!まだ、義昭さまは正気を取り戻してないのじゃ」
え?とお竹は思う。義昭の身体はいつものようにだらしなく腹が出た中年男のそれだ。しかし、眼が違う。いつもの優しい眼ではないのだ。すべてを破壊しつくさねばならぬというような業火をまとった眼なのである。
「すべてをはかいするのでおじゃる。こんなせんらんのよはおわらせねばならぬでおじゃる」
義昭は呻くように言葉を発する。そして、一歩ずつ、足を踏み出し、お竹のほうへと向かって行く。
「お竹殿、危ないのじゃ!逃げるのじゃ」
だが、お竹は貞勝の言いに従わず、ただ両腕を広げ、義昭が向かってくるのを受け止める。
「おまえはだれなのでおじゃる。まろのじゃまをするというのなら、はかいするのでおじゃる」
「義昭ちゃん、眼を覚まして!元の優しい義昭ちゃんに戻って」
「もどる?もどるとはなんなのでおじゃる?ああ、にくい、すべてがにくいのでおじゃる」
「義昭ちゃんはそんな人じゃない!憎しみに心を支配される義昭ちゃんじゃないよ」
お竹は義昭を抱きしめ、必死に呼びかける。
「義昭ちゃんは、楽しい時には笑って、悲しいときには涙を流す人間なんだよ!」
「わらう?なみだをながす?」
「そうだよ。義昭ちゃんは、惟政ちゃんが亡くなって、涙を流せるひとなんだよ!思い出して、義昭ちゃん」
「これまさ?これまさ?」
「義昭ちゃんは、惟政ちゃんが命をかけて守ろうとした誇りある将軍なんだよ!」
「しょうぐん?まろがしょうぐん?」
義昭は回らぬ頭を必死に回し、惟政と将軍である自分のことを思い出そうとした。だが、激しい頭痛が襲い、大きく身をよじる。
だが、お竹は離してなるものかと、必死に義昭に抱き着く。
「義昭ちゃんは、私に優しくしてくれた!お竹に愛を教えてくれたんだよ」
お竹は涙を流し、義昭にしがみつく。その涙が義昭の胸を濡らす。それと同時に義昭がガクガクと震えだす。
「おたけ、おたけ、おたけちゃんーーーーー!」
「義昭ちゃーーーーん!」
義昭の身体から急激に力が抜けていく。そして、お竹に寄りかかるように身を崩していく。お竹は何度も義昭の名を呼び続けるのである。
「お竹ちゃん。まろは何をしていたのでおじゃる?記憶が無いのでおじゃる」
義昭は気を失ってから10分後、眼を覚ますのである。そのころにはすっかり正気を取り戻していた。
「義昭ちゃんは、惟政ちゃんが亡くなった悲しみで、ちょっとだけ、暴れちゃっただけだよ」
お竹はよしよしと、義昭の頭を撫でる。義昭は急に悲しみが胸に去来し、大粒の涙をぼろぼろ流し始めるのであった。
「義昭ちゃん。いっぱい泣いていいんだよ?お竹はここにいるよ?」
義昭は力一杯、お竹を抱きしめ、まるで生まれたばかりの赤子のように泣きじゃくるのであった。
貞勝は義昭が正気に戻ったことに、ほっと安堵する。そして、元は屋敷であったがれきの山を見つめ
「いささか予定が早まってしまったようなのじゃ。これは、早急に義昭さまとお竹殿の新居を作らなければならなくなってしまったのじゃ」
「まあ、いいじゃないー?遅かれ早かれ、義昭ちゃんとの愛の巣が欲しいと思ってたもんー。壊す手間が省けたと思えば、儲けものだと思ったほうがいいよー?」
お竹の言いに貞勝はやれやれと言った表情だ。城づくりや施設づくりに定評がある丹羽を京の都に呼び出さねばなるまいと思うのである。あちらは南近江と岐阜で暴れていた一向宗たちとは決着が付いたと聞いている。
なら、秀吉はともかくとして、丹羽を呼び出すくらいなら、殿も許してくれるであろうとそう思うのであった。
事の顛末を書状にしたため、貞勝は信長に文を送る。そして3日後には信長は最前線の宇佐山城から、京の都に舞い戻ることになったのだ。
「やれやれ。曲直瀬くんの薬の効果は確かだったことは、この破壊状況からはわかりますね。で、肝心の仕事のほうはどうなんですか?貞勝くん」
「うっほん。そちらのほうは、明日にでも帝から停戦の詔が出る予定なのじゃ。義昭さまも体調が元通りになったようなので、仕事のほうは心配しなくても良いのじゃ」
「で、義昭くんは今どこに?」
信長がそう貞勝に尋ねる。貞勝は仮の住まいとして急きょ作らせた、ほったて小屋のほうを指さす。
「あちらに住んでもらっているのじゃが、今は止めておいた方がいいのじゃ。仕事に目処がついたので、お竹殿とまた、しっぽり子作りを励んでいるようなのじゃ」
「義昭さまには、ほったて小屋で充分なのです。本当なら、ウサギ小屋でもよかったのです」
そう言うのは丹羽である。義昭の大屋敷が潰れたとのことで、急きょ、佐和山城から貞勝に呼び出されて、少々、不機嫌な顔である。
「あれ?丹羽くんじゃないですか。きみも二条の城に来ていたのですか?」
「南近江のほうがやっと落ち着いたと思ったら、義昭さまの大屋敷が潰れたとかなんとかで、貞勝さまに呼ばれたのです。丹羽ちゃんは、わんちゃんたちとゆっくりしていたかったのです」
「それは災難でしたね。それで、このがれきの山の撤去と、将軍さまの新居ですが、どれくらいで出来そうですか?」
「1カ月もあれば再建はできるのです。でも、やりたくないのです。丹羽ちゃんは槍働きが久しぶりにできるというのに、のんきに屋敷づくりなんてしたくないのです」
丹羽は軍の指揮に関しても才は充分に持っている。だが、城づくりや施設づくりの才も長けているため、そちらの方面でひっぱりだこなのだ。そのため、どうしても槍働きから遠ざかってしまう。武将なら槍働きをしてこそなんぼと言う面もあり、それが要因で、丹羽の出世が遅れているのであった。
「まあまあ。丹羽くん。槍働きの機会なぞ、これから先、いくらでもありますよ。ぱぱっ作ってしまって、また前線に復帰をおねがいしますね?」
信長は丹羽の心情を知ってか、なだめの言葉を送る。その言葉を聞いた丹羽は気を良くしたのか
「では、今度、戦があるときは先鋒を任せてほしいのです。信盛さまや勝家さまばかりに槍働きを持っていかれるのは、不満なのです。丹羽ちゃんが戦もできるところを信長さまに見てもらいたいのです」
「丹羽くんが戦も得意なのは先生は充分わかっていますよ。いいでしょう。今度、なにかありましたら、先鋒を任せます。丹羽くんと先生の約束です」
「やったのです!言質は取ったのです。信長さま、約束はしっかり守ってもらうのです」
「その時に頼みたいことがあるのですが、先生の嫡男、信忠くんを丹羽くんの指揮下に置いてくれますか?そろそろ初陣を飾るには調度、良い時期にさしかかりましたし。先生としては丹羽くんから多くを学んでほしいと思っているのですよね」
「信忠さまですか?いいのですよ。丹羽ちゃんが信忠さまの初陣をぷろでゅーすするのです!」
丹羽の快諾に信長はうんうんと頷き、ふと、義昭の仮の住まいである、ほったて小屋をみる。その小屋は細かくギシギシと音を立てている。外からも義昭とお竹の盛況ぶりがうかがいしれるのであった。
「さて、先生も自分の屋敷に帰りますかね。帝から停戦の詔が出れば、しばしの平和が訪れるはずです。休めるうちに休むのも、仕事の一環ですからね」
「うっほん。停戦のあかつきには浅井長政と朝倉義景との会談を執り行ったほうがいいのではないかじゃ」
「そんなもの要りませんよ。どうせ、比叡山から兵を引き上げさせれば、またすぐにでも再戦なのです。会談を開くだけ無駄ってもんです。そんな無駄なことに時間を取られるくらいなら、皆さんにもゆっくり休んでもらいましょう」
明けて11月30日、義昭は朝廷に参上し、帝から織田家と浅井家、朝倉家との停戦の詔を出させることに成功する。その詔はすぐに比叡山に籠る、浅井・朝倉にも通達される。これに歯がみするのは、浅井長政である。
「まさか、義昭さまが浅井を裏切り、帝から停戦の詔を引き出させるとは思っていなのかったのだぞ!これでは、兵を退かざるおえないのだぞ。ええい、何がどうなっているのだぞ」
長政は怒り心頭である。だが、盟友である朝倉義景は違った。降り積もる雪を心配していたからだ。これ以上、近江の地に居座るわけにはいかなかったからだ。越前に帰るための道が閉ざされてしまう。一刻も早く本国に戻る必要があったからだ。
「長政殿。これは事実上の信長の降伏宣言で候。これでしばらく、畿内は落ち着くので候。何を心配する必要があるので候」
義景の言いに長政は文句のひとつも言いたい気分だが、それを必死に抑える。長政にもわかっていたのだ、朝倉軍が1度、越前に帰らなければならない事態であることを。この冬の雪は予想外に降り積もっていたからだ。
「春の田植え時期が終われば、また、義兄・信長との決戦なのだぞ。義景殿。ゆめゆめ、忘れぬことだぞ!」
長政は目の前にぶら下がっている天下を手に入れることに失敗した。だが、まだだ、まだ機会はいくらでもある。そう思い、比叡山から小谷に向け、兵を進めるのであった。