ー大乱の章12- 義昭の笑み
信長は、義昭を殴りたい気持ちになるが、必死に抑える。これでも一応、将軍なのだ。殴れば、あとあと面倒なことになる。仕方ないとばかりに信長は、足から、すね、ひざ、ふともも、腰、背中、肩、そして腕へと回転を加え、義昭へとその回転を伝播させる。
「ちょっと、殿、何をしているのでおじゃる!その御業を出されては、わしまで吹き飛ばされるのでおじゃる」
貞勝は慌てて、義昭をつかんでいた腕をとっさに離す。その一瞬の判断が貞勝の命を救うことになる。義昭はいきなり、宙に舞い、三回転半ひねりで男汁をまき散らしながら畳の上につっぷすことになる。
「ふう。つい、イラッとしたのでやってしまいました。義昭さま、生きていますか?」
「御父・信長殿。ここはどこでおじゃる?まろは至極の快楽を手に入れたのでおじゃる。まろはもう死んでしまってもいいのでおじゃる」
義昭は呆けた顔をしている。引っ張られ、吸い込まれ、さらにはそこに信長の黄金の回転が加わったのである。その快楽のほどといえば、何に例えられるのであろうか。あまりの刺激に義昭は最後の一滴を絞りだされることになったのだ。
義昭は心地よいまどろみの中にいた。まるで極楽にいるような気分である。義昭はふと眼を開け、周りを見ると、湯がはられた風呂につかされていた。
そうか、極楽にも風呂があるのかと義昭は思う。頭に乗った手ぬぐいを右手で取り、それで顔の汗をぬぐう。そして手ぬぐいを折り畳み、再び頭の上に乗せる。
「はあああうううう。良い湯なのでおじゃる。そういえば、お竹ちゃんはいないのでおじゃるか?一緒に極楽にきているものと思っておったのでおじゃるが?」
しかし、風呂場にいるのは、義昭の側付きの男である。彼は正坐をして、義昭が風呂に入っているのを監視している。その男を確認すると、ここは極楽ではなく、戦国時代のひのもとの国で、二条の城にある自分の屋敷の風呂であることに気付く。
「そうか、ここは極楽ではなかったのでおじゃるか。それは残念なことなのでおじゃる」
義昭は身を起こし、風呂桶から洗い場にあがる。そして、小さい椅子に尻をどかっと乗せる。義昭の側付きはそれを確認すると、義昭の背中のほうに回り、その背中を手ぬぐいで洗い始める。
義昭は心地よい背中の刺激に喜びつつ、目の前の湯の入った桶に手ぬぐいをつっこみ、自分の両腕を手ぬぐいでこすり始める。
身体のところどころに白い塊がついていたので、それを丁寧に手ぬぐいで洗いながす。
側付きの者は背中を洗い流した後、桶に入った湯を義昭の背中にざばっとかける。義昭はつい、うほっと声を上げる。続けて、側付きの者は義昭の頭に丸いわっかを乗せる。言わば、シャンプーハットである。
側付きのものは洗髪用の洗い薬の液体を義昭の髪につけ、両手で頭を揉むようにわしゃわしゃと洗い始める。この洗髪用の洗い薬は、曲直瀬が発明したものである。
この液体は髪を洗うには最適なのであるが、眼に入るとすごく染みると言う副作用があるので、シャンプーハットは欠かせないものであった。義昭はシャンプーハットで眼に薬は入らないとわかっているものの、眼を思わず閉じている。
側付きの者が頭を洗い終えると、桶を手にもち、2、3度、義昭の頭に湯をかける。そして、泡が残っているのを確認すると、もう一度、義昭の頭にお湯をざばっとかける。
「おわりましたでございます」
側付きの男の台詞に、義昭は、ふむと息をつく。そして、義昭は椅子から尻を上げ、立ち上がり、胸を張る。側付きの者は手ぬぐいで丁寧に、義昭の身体につく水分を拭きとっていく。
義昭はそのこそばゆい感触に、むふふと声を出してしまう。
「おっと失礼。痛かったでございますか?」
「いいやでおじゃる。こそばゆかったのでつい、声が出てしまっただけでおじゃるよ。気にすることはないのでおじゃる」
側付きの者はそう言われ、再び、義昭の身体を拭き始める。一通り、義昭の身体を拭き終わった側付きは、義昭を脱衣所のほうに誘い出す。
義昭はふむと息をつき、誘われるままに脱衣所に行き、そこでふんどしや、着物を着せられる。
「義昭さま、信長殿が義昭さまの書斎でお待ちです」
側付きの者は、そう義昭に告げる。そう言えば、そうでおじゃったな。今更、御父・信長殿は何用で、まろのところにきたのであろうなのでおじゃるか?そう思う、義昭である。
義昭は屋敷の書斎に向かう。襖を開けるとあぐらで座る、信長と貞勝がいる。
信長と貞勝が、義昭の姿を確認すると、身を起こそうとする。義昭はそのままで良いとばかりに、右手で静止させる。そして、義昭は自分の座布団の上にどかっと座り込むのであった。
「お待たせしてすまないないのでおじゃる。御父・信長殿。まろに火急の件とはなんなのでおじゃる?」
信長は、ははっと言い、頭を下げる。
「将軍さまにやってほしいことができましたので、やってきました」
信長の言いに、はて?と義昭は思う。
「まろにやってほしいことなのでおじゃるか?そうは言うても、年明けに、御父・信長殿は、まろの裁可がなくても全て、そちのほうでやって良いと、まろが認可したのでおじゃる。今更、まろが率先してやることなど、ないのではないかでおじゃる」
義昭の言っていることは、殿中御掟のことだ。その追加の条で、信長が幕府のことは全て、将軍・義昭を差し置いて、なんでも決めてよいとの取り決めを交わしたのである。
その理屈から言えば、信長はなんでも自分で決めていいのである。今更、自分にやれることはないと、義昭はそう思っていた。
「将軍さまにしかできないことを頼みにきたのですよ」
「まろにしか出来ぬこと?それは一体、何なのでおじゃる?」
「帝を動かし、浅井・朝倉と織田家との停戦を宣言させてほしいのですよ」
「な、なんじゃと!それは確かにまろにしかできないことでおじゃるが、ううん」
義昭は、信長が自分に頼み込むと言うことは、それほど織田家が追い詰められていると言う証拠であると気づく。
自分が働きをかけたのは、浅井家のみであるが、信長に反感を持つものたちが大挙して、襲い掛かっているのであろう。一体、今、世の中はどうなっているのか?どうしても情報がほしい。
「今年の4月に浅井家が織田家を裏切って、越前攻めは失敗しました。まあ、これはさすがに聞き及んでいることでしょう」
「そうでおじゃるな。何故、浅井家は足利家、ならびに織田家に盾突くような真似をしたのでおじゃるかなあ」
信長の言いに義昭がすとっぼける。信長もまた気にした体もなく話を続ける。
「次に7月に入り、織田家では裏切った浅井を制裁するために小谷城へと攻め上がったのですよ。そして、浅井・朝倉連合に勝利をおさめ、もう少しで小谷城を落とせると言うところで、南近江で六角義賢が蜂起し、それは叶いませんでした」
「なんと、六角家までが蜂起したと言うのでおじゃるか!それは僥倖、んんっごほんごほん。それは危機でおじゃるな」
思わず僥倖と言ってしまった義昭は、慌てて言い直す。
「しかし、六角家はすでに滅んだ身。少々の反攻程度では、足利の幕府の屋台骨はゆらがないのではおじゃろうか?」
「そうですね。これだけならばですね。ですが、問題はまだあります」
義昭はさすがに驚きを隠せない。浅井・朝倉だけでなく、六角家までもが参戦している。そこにまだ信長殿には敵がいるということに。
「六角家と対峙しているときに、本願寺家が信徒どもを煽り、京の都を急襲しようとしました。すんでのところでこれは防ぎましたが、予断は許されない状況です」
「なんと、なんと、なんと!本願寺顕如じゃと?あやつは御父・信長殿に好意的ではなかったでおじゃるか?何故、信長殿を襲うような真似をしたのでおじゃる?」
さすがに、本願寺顕如の急襲は知らなかった、義昭である。それなら、織田家は追い詰められたと言って過言ではない。
義昭は思う。このまま、この事態を放って置けば、織田家は必ず滅びる。そして、京の都に残るのは将軍である、自分自身だけだ。浅井・朝倉は手なずけて、官位でも与えておけばよい。
そして、足利家は本願寺とは何の確執もない。織田家が滅びれば、また、安穏と元の鞘に収まるであろう。まあ、こちらにも何かしら便宜を図ることになるかもしれぬが、仕方がない。
「おっほん。これはこれは、足利の幕府の危機でおじゃるな。信長殿、足利家の盾になってくれること、期待しておるのでおじゃる」
義昭は、さきほど、信長に浅井・朝倉と織田家の停戦を信長に要請されたが、のらりくらりとかわしていれば良いとさえ、この時点では思っていたのであった。
「さて、浅井・朝倉と織田家の停戦の話でおじゃるか。うーん、帝は年末も近いうえ、年始にむけての行事が山ほど予定で埋まっていたはずでおじゃるなあ。これでは、まろが朝廷に出向いたところで色よい返事は期待できぬのでおじゃる」
義昭は申し訳なさそうな顔を作ろうとするが、どうしても笑みが顔からこぼれてしまう。つい、口の端がつり上がってしまうのを止めようがないのである。
「年明けには、帝もお暇が出来ようなのでおじゃる。それまで、信長殿。辛抱してほしいのでおじゃる」