-桶狭間の章 2- のき佐久間たるゆえん
時は進み、19日午前10時半。善照寺砦よりさらに1km東に位置する中島砦を守る織田方の兵は250名であった。その中島砦を包囲する今川方は約1500名である。
今や砦は陥落寸前であり、ここ中島砦を落とされると、桶狭間山に直行しづらくなる。さらに悪い報せが信長本隊2千の元に届いたのであった。
桶狭間山で監視を続けていたであろう、汗だくの物見が息も整えず言うには
「いまだ、桶狭間山に、今川義元、現れず!」
河尻は物見に言い放つ
「大義であった。奥で休むがよい」
物見は呼吸を整え終わり、こう答える
「いいえ、まだまだ休んでいられません!引き続き桶狭間山へと出立します!」
信長はそのやりとりを見
「で、あるか。そなたら物見の報せは今戦の要。よろしく頼みます」
物見は、信長さまの腰の低さに驚きを隠せず、つい上ずりながら
「は、はい!任せてください!必ず、ここ一番の報せを持ってまいります!」
信長たち諸将は物見の背中を見送りながら、ひとつ嘆息した。まずいですねと。ここより南方3kmに位置する丸根・鷲津両砦は1時間前ほどにすでに陥落していた。
余勢をかって、ここ中島砦に殺到するかもしれない状況である。さりとて、急ごうにも今川本隊は未だ桶狭間山に到着していない。手詰まり感が諸将たちに伝播していったのである。
「殿。兵たちを遊ばせておくのも勿体ないですし、ここは中島砦の包囲網を斬り崩しましょうよ?」
そう進言したのは、のき佐久間こと、佐久間信盛であった。士気が否応にでも上がり切っている兵士たちではあるが、まだ初戦を経験していない者もいる。こころの温度に身体もついてこさせようとの配慮からであった。
ふむと3度、信長は繰り返し、その後
「では、のぶもりもりに500名、貸すんで、ぱっぱと包囲網の一角を崩してもらいましょうか」
あ、でもと続き
「ここで全力を出し切らないように調整してくださいね?さらにいつでも転進できるように配慮すること。得意でしょ、そういう戦い方」
数多くの殿軍を務めてきた、のき佐久間にとって、正にうってつけの戦場であった。
通常、殿軍というものは、撤退時に全力で襲い掛かる敵を味方本隊に喰いつかせないように、相手を遅滞せしめ、さらには自分たち殿軍は極力、被害を抑えるといった至難の戦運びが必要となってくる。信盛は、はっと一言、短く切り、兵士たちのほうを向き
「今から前哨戦を行う!槍働きをしたいもの、500名ほど名乗りでよ!ただし、これは本戦にあらず!無駄に命散らすことあたわず!」
我もわれもと挙手が続き、最終的には、予定よりも200名多い、700名が手を挙げた。それほど士気が高いことのあらわれであろう。さすがの信盛も、この多さには驚きを隠せず、ついぞ、信長に確認したところ、彼は頭を右手で軽くかきつつ
「あー、まあ、そうなりますよね」
信長は、うんと2度うなづき
「再度、言いますが、やりすぎ注意です。手綱をしっかり握ること。きみのいう通り、これはただの前哨戦ですからね」
かくして1300名は、善照寺砦に引き続き残り、のき佐久間は手勢700名を率い、中島砦の包囲を切り崩しに行ったのである。時は19日午前11時であった。
矢、撃ち放て!号令一閃、矢の雨が中島砦を取り囲む敵兵たちの一角に降り注いだ。
今川方の500名を率いる足軽隊将・関口氏広は後方からのまさかの矢の雨に驚きを隠せずにいた。さりとて、さすがは今川家名門の出である。すぐさま、踵を返し反攻戦へと打って出たのある。関口は吼えた
「槍構え!前進!敵を押し返せ!」
佐久間信盛は兵たちの装備を弓から槍に持ち替えさせ、その場で構えさせた。
「こちらも退くな。交戦開始せよ!」
緒戦の混乱状態にあった関口軍は、徐々に統制を取り戻し、今や500で、信盛軍700を押し返しはじめたのである。信盛は堪らず
「先陣さがれ、さがれ!交代せよ」
後方より第2矢を放ち、交代の援護をおこなう。たまらず関口軍は距離を開け、突撃への機会を覗うことにした。そして再び信盛軍は再度、槍を構え、応戦の姿勢を見せた。
このやりとりを5度ほど繰り返したのち、関口は、ある疑念に囚われた。いくら三河の強兵相手といえども、織田軍の勢いが弱いのだ。何か策があるやも知れぬと思いつつも6度目の槍合わせとなったとき、気付いた。深く追い過ぎたと。
林の入り口あたりまで、信盛軍を追い詰めたと思いきや、信盛軍は一斉に林の中に引いた。釣られた関口軍の半数250が静止を聞かず、林へと踏み込もうとした。まさにそのとき、悪夢は空から舞い降りた。300を超える矢の雨が頭上から降り注いだのである。
関口軍500は、その半数をたった一度の攻撃で失い、潰走しかけていた。だが信盛軍は深追いせず、一定の距離を保ちつづけていた。なぜだ、なぜここで攻めてこない!関口の頭は混乱状態に陥っていた。関口は必死の形相で、潰走しかけた軍の立て直しを図り、中島砦の包囲網をつづけている1千の兵へ援軍要請をおこなった。
時は19日正午を過ぎて半ばに届くころ、このとき、戦場に風が吹いた。戦の流れが変わることを告げる風であった。
「今川義元、桶狭間山に到着!陣を構えました!」
先ほどの物見が善照寺砦に再び現れたのである。物見は乱れた呼吸そのままに、さらに続けた
「かねてより伏せていた農民による歓待を今川本陣は快く、受けております!」
信長は椅子から立ち上がり
「その一報、待っていました。全軍、桶狭間山ふもとへ進軍開始!」
信長は黒母衣衆の伝令役に命令した
「信盛軍にも合流せよと使いを出しなさい!敵は桶狭間にありと!」
関口軍と信盛軍はいくどかの槍合わせを行いつつ、睨み合っていた。戦線は完全に膠着しており、どちらも機会を覗っていた。先に動いたのは信盛軍であった。大きく退いたのである。
しかし、先ほどの痛いしっぺ返しを喰らっていた以上、関口は動けずにいた。みすみす、信盛軍を見逃してしまったのだ。彼のこの失態がこのあとの事変を大きく左右していくのであった。