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氷喰いの微熱

作者: 小春院流音

 無意識のうちに荒ぶる少女の吐息が、指先で灯りを味なく反射する物体にかかり、その表面はわずかに湿り気を帯びた。

 少女が半開きにした目の先で、冷たい物体は少女の指が触れた部分からその形を変え、徐々に小さくなっていく。

 製氷皿から取り出されたばかりの小さな氷が溶け、ゆっくりと生まれた冷たい水滴が、少女の指、掌、手首と流れていく。完全に無色透明なそれが少女の肌の上を這うと、不思議と赤い鉄の色を呈しているかのように見えた。その水滴が肘に触れたと同時に、少女が小さな口をわずかに開け、閉じた。しかし次の瞬間にはまた、薄桃色の口を、今度はやや大きく開いた。だが、またしても口を閉ざしてしまう。少女の目に躊躇いの色が浮かび、指は徐々に震えを大きくしていく。

口を開けては閉じるその動作を二、三度繰り返すうちにも、少女の指は氷を蝕んでいく。氷の融けた水は少女の指を蝕んでいく。口でそれを食す代わりに、指が水を、あるいは水が指を吸収しているかのように、少女は感じた。果たして指と氷は同化を望んでいると見え、互いの温度を等しくしようと微細な変化を続けている、

 躊躇いの時が過ぎ、氷はやがて少女の顔のすぐ前へと運ばれた。透明でありながら世界を歪める冷たい物体が眼前に来ると、意識としては閉ざしていたはずの少女の口がゆっくりと開いていく。そしてそのことに、少女は自分でも気付いていない。やがて氷の角の一つが、いつの間にか口中から突き出されていた少女の舌に触れる。一瞬の接触で、鋭い冷たさが少女の舌を刺激し、全身を震わせた。禁忌の性交を成す時のように、少女はひどく興奮していた。純潔を捨てる緊張、悶えるような痛みと快感、反射的に引き締まる恥部は僅かに湿り気さえ帯びている。禁断の感覚に対する期待と恐怖、それらに同時に想いを馳せるという、奇妙な二面の感情に少女は揺られていた。ひどく快感で、ひどく不快な感情が入り混じった中、小さく震える少女の舌は、再会を果たした恋人を求めるように、氷の表面を這った。極めて貪欲に、舐めては溶ける氷を、削り行くように少女は舐め回した。

そのうち、感覚が薄れてきた指先が、湿った氷を滑り落としてしまった。氷は少女の舌を伝って、小さな唇に優しく口付けるように僅かに触れた後、少女の口中へと転がり込んで行った。

 少女はその瞬間震撼した。破瓜と絶頂を同時に向かえたかのような、快と不快の波が交差して押し寄せることの面白さ、美しさを完全に理解した。自分が今、この世界で最大の禁忌を犯している最中であるということへの、快感、不快感、緊張感、罪悪感……それらが皆、一度に少女の細い体へと、押し入るように入り込んでいき、そしてそれらが悉く自らの内にあるという強大な満足感……少女の体内には熱が回っていく。頬が朱の色を見せて、力を失った瞼の下から覗く瞳は焦点が合っていない。そのまま腕の力も、脚の力をも失って、少女は白い壁沿いに、生温いフローリングの床にへたり込んだ。口中には、まだ氷が小さな冷気を唾液と絡ませており、それが体内を巡る熱と出会って、気化する。無味無臭の甘い香気が、少女の味蕾を咲かせ上げた。

 蠱惑的で、魅惑的で。

 氷の結晶は、そうして最後の余韻を残して少女の口中から消えた。まだ舌に感じる微妙な冷気が、ゆっくりと少女の喉を舐めて去った。

 頬を上気させ、肩で息をしながら、少女は恋人が自分の中に残したものを想うように、下腹部をそっと撫でた。次の瞬間、こめかみに何か冷たいもの――それは氷とは違う――が触れたように感じる。

 ……自分の隣で、死神が笑っている。

 ぼろぼろの黒衣を纏い、虚ろな眼窩を向ける骸骨。冷たい骨の指先が、少女の側頭部に触れている。

『お前に大鎌の一撃をくれてやるのはもったいない』

 そんな意味を邪推させる、指先だけの接触。死を連想させない死。ただ、全ては少女の空想であり、幻覚であった。

(私、また……食べてしまったの……?)

 ここに至ってようやく、少女は自分がしたことをはっきりと意識できた。水に濡れた指が妖しく光を反射する。全身に震えが走り、膣が収縮した気がした。

 傍らの死神が話しかけてくる。

『お前はまた食ってしまった。何度誓いを破るのか、お前は』

 氷を食べない。そういう誓い。こんな奇行に走ってはならない。そんなことはわかっている。わかっていたから誓ったのに……!

(私……なんで……?)

 なんで? どうして?

 少女はわからない。そもそもどうして氷なぞ食べれば落ち着きを取り戻せるのかさえも、少女は理解していなかった。ただ落ち着けるから、その理屈は気にしない。煙草でも吸うかのような感覚。気付けば手を伸ばしていて、その理由は本人にも上手く説明できない。

 少女は床へ無造作に倒れ込んだ。体内に残っていた熱が、今度は一気に頭の中へと押し寄せる。

(来ないで……来ないで……)

 しかし少女の頭の中で、熱はぐるぐると回り続ける。途端、冷たい思考が脳内を過ぎった。少女は背筋が気持ちの悪い寒気に震えるのを感じ取り、目を見開いた。感情は恐怖に支配されている。かちかちと震える歯の音がする。体にはまるで力が入らない。されども恐怖は少女の中へ中へと容赦なく迫る。

「あ、あ、あ…………」

 震える口から声が出てしまった。少女の脳は必死に理性を保とうと回転している。しかし、そんな理性的な命令の伝達は少女を支配する恐怖に追い付けず、打ち勝つことなどは尚更だった。

 少女は腕を上げる。力の入らない状態で、それでもなお生きたいと願って、誰かの手がそこにあって、そして自分を救ってくれるのだと、そう信じることしか、今の少女にはできそうもない。自力では這い上がれない。這い上がりたくても、体が拒絶してしまう。自分は床で震えていなければならないのだとでも言うかのように、少女の体は再び立つことを拒絶し続ける。

 そんな少女の手を取ったのは、開け放たれたままの冷凍庫から漏れ出す冷気の欠片で、その先にある結晶を、涙さえ浮かべた少女の目が捉えるまでに、そう時間は掛からなかった。

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