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「ではきっと、二人だけの特別な呼び名があったのかもしれませんね。そういえば、女性はなんと仰るのでしょう。もしかしたら、名前から私達に思い当たることがあるかもしれませんわ。ねぇルシオン」
「そうだね。画家の女性に思い当たることはなくても、どこかで名前だけなら聞いているかも」
「お姉さんの名前、いつも絵が完成すると右下にさらさらと筆を滑らせていたのに。名前は必ず大好きな色で書くって言って、空色の絵の具を握りしめていたんだ。どうしてだろう、文字は覚えているのに、読めないんです」
ルシオンは大げさに首を傾げた。
「覚えているのに読めないというと、崩し文字になっていてということですか」
「俺もそう思っていました。けど何か違う。全く違う言語のように見えるんです。当時は幼いから知識不足で読めないんだと思っていましたが、今でも分からないんです」
「もしよろしければ、その文字を書いていただけませんか」
ルシオンは手帳と筆を差し出した。
「そうですね、旅をしているお二人ならどこかで見たことのある文字かも。絵は書けなくても、文字の形を真似するくらいなら何とかなります」
ネフィラは記憶を探りながら、彼にとって文字とか言えない記号を書き出した。それを見て、二人は確信する。遠い過去、戦乱の時代に広い地域で使用されていた言語であると。点と丸を組み合わせた特徴的な形が、二人にとっては親近感すら沸いた。
「この文字を私達は見たことがあります。ですがその前に、一つ確認させてください」
神妙な雰囲気にルシオンに、ネフィラはたじろぎつつも答えた。
「な、何でしょうか」
「女性の記憶を“思い出した”のは、ネフィラさんがいくつの頃ですか?」
これほどまでに鮮明な記憶なのに、思い出すという表現には違和感がある。その理由を、二人は知っている。
「ええ、思い出したも何も、幼少期からずっと俺の大事な思い出で……」
「お願いします、教えてください。きっとどこかの瞬間に、思い出したはずです。でなければ、なぜネフィラさんにとっての女性の記憶は、その幼少期しかないのでしょうか。女性のことだけを忘れてしまったと仰いましたが、本当にそうでしょうか。歳の差はあれど、あなたと女性は共に成長したはずですよね」
「それは……ああ! もしかしてお姉さんは他所の街の人だったのかも。それなら今までのことも全て納得がいく」
無理やり幼少期のみの記憶をこじつけようとする姿は痛々しくもあった。先ほどは近所に住むお姉さんと言っていたのに、それだけ記憶を自分のものだと信じて疑っていないのだろう。
ルシオンはやむ終えず畳みかける。
「では、その女性と、ネフィラさん以外の街の人が一緒にいる記憶はありますか? 絵を描いていたという草原は、ネフィラさんの街にありましたか?」
「草原なんていくらでも……」
「本当に、記憶の草原と一致していますか?」
ネフィラはついに黙ってしまった。ロベリアとルシオンは互いに顔を見合わせ、目の前に残った飲み物を全て注ぎ込んだ。一呼吸おいて、ロベリアが口を開く。
「ごめんなさい、たくさん聞いてしまって。今日は疲れたでしょうからもうゆっくり休んでください。明日、私達は朝から歴史博物館に向かいます。戦後一人の男性が、その記憶を遺しておくために作り上げたのが始まりだと聞いています。美術品も多く飾られているとか。もしかしたら何か手がかりになる絵画があるかも。もしよろしければ、ご一緒しましょう」
「お待ちしております」
ルシオンは一言付け加えるだけで、それ以上は何も言わず席を立った。心苦しくて、何も言えなかった。ネフィラには、どこまで聞こえていただろう。それでも、二人は聞く必要があったし、言う必要があった。
「いつだって、現実とは過酷なものだね」
「ですが、向き合えば拓ける未来もあります。今は明日来てくださることを祈りましょう。おやすみなさい、ワイス」
「お休み、フリージア」
二人は部屋につくと、僅かに言葉を交わすのみで、明日に備えて眠りについた。




