くもりガラスの向こう側
ボビーとパティ兄妹にとって救いだったのは母親がほとんど落ち込んでいるようには見えなかったことだ。子供たちが両親の不仲に気づくずっと前から、母親はじゅうぶん苦しんでいたはずだった。ボビーたちが父親の不倫を知る頃には母親の中ではすでに夫婦関係を精算するという結論が出ていたのかもしれない。
ドロシーが夫婦関係に悩んでいた頃に届いたのが「LAUTREC-One-Night Live」の招待状だった。娘夫婦が危機的状況であることを知ったリタが、娘と孫のために譲ってくれたのだろうか。
近い将来他人になる夫と、ずっと他人だった実の父親。ドロシーは無性に父親であるクリスに会ってみたくなった。顔を見たら再び新鮮な憎しみが生まれるかもしれない、それよりも父親の方が面会を拒む可能性もある。
だけど、近く父親を失うことになる息子とともにライブに出かける決心をした。実の父親と会うことと夫と別れることは全く別のことだけど、ドロシーには離婚に向けての重要なステップのひとつだと思えた。
「LAUTREC-One-Night Live」のステージに立つクリスを見て、ドロシーは不思議な感覚を覚えた。ネットで父親のライブ動画は何度も見てきた。その時は父親という実感は芽生えなかった。数多いロックスターのひとりにすぎなかった。
だけど実際、ステージに立つ父親を見てなぜか胸が苦しくなった。ときどきドロシーの中に現れるおぼろげな記憶。くもりガラスの向こう側の、思い出せそうで思い出せない遠い記憶。誰かの膝の上に抱かれて童謡を歌っている自分の髪とその大人の男の長い髪がいっしょになって揺れていた。それはてっきり母が再婚した相手の記憶だと思っていた。だけどむかしの写真を見ても新しい父は一度だって髪を伸ばしたことなんてない。
あれは誰? いつの記憶? 夢の中でのこと?
ステージでの「父親」はネットで見た若い頃の父親の面影はあったが、すっかり歳をとっていた。音域もかなり狭くなったようだが、その歌声は同じだった。
そしてその声は、ドロシーの記憶のくもりガラスの一部分をすぅーっと指で拭い去った。
鮮明になったガラスの向こう側に見えた髪の長い男は「パパだわ!」ドロシーは確信した。
ライブ終了後、いてもたってもいられなくなったドロシーは息子をともなって楽屋に父を訪ねた。成長した娘と孫の突然の訪問にクリスはひどく驚いた。化石のように固まったクリスだったが、永遠に抱きしめることなどできないと思っていた娘と孫を強く抱きしめた瞬間、凍土に覆われていた心がゆっくりと氷解していく暖かさを感じた。
その時初めて会った孫のボビーが旅行と偽って実は家出してきたというのだ。子育てなどしたことがないクリスは古い友人でもあるバンドメンバーのレイク・ギルバートにアドバイスを求めたのだった。
いつものスタジオにレイクはジョーイとやって来た。ここでボビーにギターレッスンをすることになっていた。クリスの頼みとはいえ、ボビーを騙して呼び出して説教する意図など初めからなかった。
かつて亡きボビー・ターナーから手ほどきを受けたように、レイクはこれまで誰かにギターを教えたことはなかった。ふたりの息子たちも音楽には悲しいほど興味を示さなかった。というよりロートレックに所属していたことすら積極的に誰かに話すようなことではないと思っていたレイクだった。
だけど先日、このスタジオでほんの戯れでボビーにギターの手ほどきをした時、レイク自身とても楽しかった。いつか成長した孫たちが望んだら真剣にギターを教えてもいいかなと、ちょっと愉快な気持ちになった。
ほどなくクリスとボビーがやって来た。いつものようにギターケースを背負ったボビーの顔は期待で輝いていた。
「レイクさん、今日はありがとうございます! よろしくお願いします!」
「オーケイ、ボビー。短い時間だけど楽しもうね」
「はい!」
ボビーは愛用のギターを取り出してチューニングを始めた。
「ねえボビー、この前思ったんだけどキミ、ロートレックの曲のいくつか完璧じゃない?」
「おじいちゃんがロートレックのボーカルだって知ってから必死にコピーしました」
レイクの問いかけにボビーはちょっと顔を赤らめて、ちょっと誇らしげに答えた。
「じゃあ決まった」
親指を立てたレイクはスタジオの隅にいるクリスとジョーイに呼びかけた。
「ヘイ、クリス! ジョーイ! そんなところでまったりコーヒーなんて飲んでないでこっちで一緒に演ろうぜ! ぼーっとしてたらすぐにジジィになっちゃうよ」
レイクの呼びかけにクリスとジョーイは肩をすくめて、だけど笑顔で立ち上がった。
ドラムとボーカルとツインギターだけという即興ロートレックの演奏が始まった。
レイクと並んでギターを弾いているボビーの表情は真剣だった。レイクのギターに、曲に遅れないように汗を浮かべてついてきていた。
間奏のギターソロのところでレイクは息を飲んだ。レイクのみならずジョーイも祖父のクリスもボビーの、子供とは思えないそのギターテクニックに驚きを隠せなかった。
試しにレイクはギターを弾く指を止めてみた。ほんの一瞬、あれ? という表情を見せたボビーだがすぐに演奏の世界に戻って行った。
レイクは演奏を止めたままボビーを見ていた。遠い昔、裏方としてステージの袖から憧れて見ていたあの天才ボビー・ターナーの姿と目の前のボビー少年の姿がかぶった。一瞬、亡くなったボビーがよみがえってきたのかと思った。それはジョーイ、クリスの目にも同じだった。
ギターソロ部分が終わり、レイクは再び演奏に加わった。
枯れ始めた3人のおっさんと、その孫の少年の即興バンドはその後もロートレックのナンバーを数曲こなした。