破綻
1年前、自分の部屋でヘッドホンをつけてギターを弾いていたボビーはドアのノックに気づかなかった。
ロックにだけ没頭していたかった。ギターを弾いている時だけが唯一、心を無にすることができる時間だった。
妹のパティは友達のママと一緒にショッピングモールに出かけていた。最近、勉強よりファッションやメイクに夢中な、生意気だけど兄妹仲は決して悪くない妹だった。
人の気配を感じたボビーはギターを弾く手を止めた。
「ずいぶん上達したな」
笑顔の父親が立っていた。だけどその笑顔は心からのものではなく、その場しのぎの薄っぺらな印象だった。そうボビーは感じた。
「階下に降りてくれないか? おまえに話したいことがある」
ボビーは父親と目を合わさないようにヘッドホンを外すとギターをスタンドに立てかけた。
父親のあとに続いて階段を下りながら父の頭頂部を見た。年齢相応に薄くなりかけていたはずの髪がいつのまにか不自然に豊かになっていた。
リビングでは母親がすでにソファーにかけていた。いつもよりチークがキツいように感じたのは気のせいだろうか。いや、ともすれば蒼白になりそうな顔色を隠すために無意識にチークブラシを重ねてしまったのかもしれない。
「ボビー、お前も気づいていたと思うけど……」
「待って」
父親の言葉をボビーがさえぎった。
「父さん、パティはここにいなくていいの? 彼女にとっても大切な話をするんだろう?」
「いいのよ、ボビー。パティの意志はもう聞いてあるの。パティが今日この場にいたくないって言ったの」
母親のドロシーがふたりの間に割って入った。
「そういうことか」
肩をすくめてボビーは言った。
「僕には事後報告ってことだね」
ボビーのことばに、両親はずいぶん久しぶりに視線を交わした。
もちろんボビーも両親の夫婦としての関係が破綻していることに気づかないほど子供ではなかった。父親には若い恋人がいた。職場の部下だというその若い恋人が妊娠したことで今回の重大な結論を急いで出すことになったらしい。
という話をボビーに教えてくれたのは妹のパティだった。母親と娘というのはどこまで仲良しなんだろう? ふたりはいつもおしゃべりしていた。母親が妹に夫に関するさまざまなことを相談していたように、パティもまた母親に学校でのこと、ボーイフレンドとのことまで詳細に報告していたようだ。ボビーはガールフレンドとのことなんて親に、ましてや母親に話すことはなかった。母親にとって娘という強力な味方がいることで、夫の不倫というつらい現実になんとか耐えられていたのかもしれない。そんな意味では息子というのはあまり役立っていなかったようだ。
「父さんと母さんは正式に離婚することになった」
あらためて父親がボビーに宣言した。
「父さんがこの家を出ていくからお前たちはこのままここで暮らせばいい。親権者は母さんだけど、もちろんこれからも私はおまえとパティの父さんだよ」
父親の言葉はデジャヴのようにボビーの耳を通過していった。いつかこんなシーンに直面することをボビーはずいぶん前から覚悟していた。覚悟するというよりも、いつの頃からか心の中でシュミレーションしていたと言ったほうが適切かもしれない。
離婚が成立して父親が家を出た。父親がいない、ただそれだけでボビーたちの暮らしが大きく変化することはなかった。学校でも母親だけ、父親だけという友人も少なくなかった。
妹は生意気でうるさかったし、母親はもともと陽気な人だった。だけど父親がいなくなった家は、やはりどこか違っていた。
もし父親が不慮の事故や病気で亡くなったのなら、残った家族はもっと積極的に父親の思い出を共有しようとしただろう。リビングやいたるところに写真を飾って在りし日の父に見守られての日々を過ごしたことだろう。
だけど父親は生きている、生きて他の女性と家庭を持ち、子供も生まれた。父親はボビーたちより新しい家族を選んだのだ。