クリスの苦悩 2
演奏が始まった。しかしボーカルのクリスが珍しく出遅れた。
「すまない。もう一度たのむ」
演奏を中止したメンバーにクリスは謝った。ジョーイとレイクは思わず視線を交わした。昨日の秘書からの電話の一件をまだ引きずっているのか。
再び演奏がスタートした。今回はクリスも乗り遅れることなく年齢を感じさせない声量で歌いだした。しかし曲がクライマックスに差し掛かった時、クリスの声が止まった。
「すまない」
「ボビーにいいところ見せようと張り切りすぎたんじゃないのか? ちょっと休憩しようぜ」
キーボードのアルフレッドが笑いながら言った。
「すまない」
申し訳なさそうに苦笑しながら謝るクリスの目はしかし、笑ってはいなかった。
スタジオ内の椅子に腰掛けたクリスの隣にコーヒーを二つ持ったジョーイがやってきて無言で差し出した。
「ありがとう」
コーヒーを受け取ったクリスの横顔に刻まれた年齢相応の皺がいつもより深いようにジョーイは感じた。
ジョーイは黙って隣に腰かけた。クリスの目は孫のボビーに注がれていた。
レイクにまとわりついてギターを触らせてもらっているボビーはまだまだあどけなさが残っていた。
「いい子だな。家庭や結婚に縁がなかった僕にはうらやましいよ」
「僕も一度は棄てた家族だった。今こうやって娘や孫にめぐりあえて実際どうしようもないほど舞い上がっている」
「ふうには見えないけどね」
ふーう、とクリスは重いため息をついた。
「ボビーは……黙って家を出てきたらしい。娘から連絡があったんだ」
「家出ってこと?」
クリスは黙ってうなずいた。
「こっちにいると言ったら娘は少し安心したみたいだったが。ボビーはまっすぐ育っていると思っていたんだ。勝手な願望だけどな」
「そんなに悪くは見えないけど」
ジョーイはボビーに視線を移した。ボビーはスタジオに持ち込んだ、というより常に背負っているギターを抱えてレイクに手ほどきを受けているようだった。
「僕は子育てなんてほとんどしたことなかったし家庭人としては失格だった。ボビーにどう接していいかわからないんだよ」
大物プロデューサーとしての顔をすっかりなくしたクリスがため息まじりにつぶやいた。
「僕もそっちは専門外だしな。でも子育てをこなした男を僕は知ってる。しかも男手一つでね」
ジョーイは小さくウィンクして彼のパートナーを見た。ボビーに熱心にギターを教えているパートナーのレイクは妻を灰色熊による食害被害で亡くしたあと二人の息子を男手一つで育て上げた。
「レイク……そうだったな。イーサンもエヴァンも本当にすばらしい息子だったよ」
「それにボビーはレイクになついているみたいだし」
クリスとジョーイの視線に気づいたのかボビーが振り向いた。
「おじいちゃん、すごいよ! レイクさんに教えてもらえるなんて」
ボビーの笑顔にクリスも親指を立てて笑顔を返した。
「あとでレイクに事情を話すよ。いいね」
クリスはうなずいた。ジョーイに話したことでいくぶん気が楽になったのかその後のクリスは普段通りの歌声を取り戻した。そしてその姿は孫のボビーを喜ばせた。
「そうか、ボビーは家出したってことか」
郊外に建つジョーイの家。レイクはパートナーのジョーイからクリスの苦悩の真相を聞いた。
「そうなんだよ。あのクリスが仕事以外の問題で悩む姿なんて最近見たことなかったよな。大物プロデューサー、クリス・スペンサーも祖父業はど素人ってことだ」
「誰だって初めての孫なんてどう接していいかわからないよ。僕だってそうだった」
「だけど今はせっせとビデオレターを送っているだろ? かわいいおじいちゃん」
ジョーイがレイクをからかった。レイクはジョーイの胸に軽くパンチを食らわした。
「それでさ、クリスがキミに祖父としてのご指導ご鞭撻を賜りたいって」
言葉こそ冗談っぽいが、ジョーイの顔はいたって真面目だった。
「そんな大げさな。人を指導できるほど上等なじいさんじゃないよ」
「いや、キミは父親としても祖父としても最高だよ。もちろん僕のパートナーとしてもね」
ジョーイはレイクにキスをした。
「わかったよ。僕にできることは限られているけどやってみるよ」
「ボビーは一緒じゃないほうがいいかな? 僕がボビーを連れ出そうか?」
「いや。ボビーともいっしょに話すよ。ボビーの問題でもあるんだから」
「オーケイ、そうだな。クリスに電話しとくよ」
ジョーイはウィンクしながらスマホを取り出すとクリスの番号をコールした。