クリスの苦悩 1
その時、クリスのスマホが鳴った。秘書からだった。
「ちょっと失礼。仕事の電話みたいだ」
スマホを手に席を立ったクリスは足早にドアの向こうに消えた。
「おじいちゃん、忙しそうだね。僕が来たから無理しちゃったのかな?」
ボビーが心配そうにつぶやいた。
「そんなことボビーは心配しなくていいよ。クリスはこれまで仕事の鬼だったんだ。キミが現れてからのクリスは本当にうれしそうだった。生き生きしていたよ。それは歌声にも変化をもたらしたくらいなんだよ」
ボビーの不安を拭おうとしたジョーイの言葉には嘘はなかった。ロートレックを存続させることにしたクリスは本気でボイストレーニングを再開した。声だけではなく時間を作ってはジムに通って体も鍛え始めた。もう何年もやっていなかった水泳も再開した。
「孫にダサいじいさんだと思われたくないからな」
ウィンクしながら言うクリスは、まるで恋を始めたばかりの小さな男の子みたいに照れていた。
秘書からの電話を済ませて戻ってくるクリスの姿にレイクは目を止めた。その顔にはさっきまでの上機嫌はかけらも残っていなくて、かわりに深い苦悩の色が刻まれていた。クリスはレイクと目が合うと無理に笑顔を作ってみせたが、その表情は背中を向けたかたちのボビーとジョーイには見えなかった。
「What’s wrong? 」
クリスが席に着く前にレイクは唇の動きだけでたずねた。
クリスは笑顔のままでちょっと肩をすくめると何事もなかったように席に戻った。
レイクもクリスの意志を尊重してそのまま食事を楽しむふりを続けた。
「どうした? 何かあった?」
帰りの車の中でジョーイがレイクにたずねた。
「え? あ、やっぱり気づいてた?」
「パートナーをなめないで欲しいね。クリス、何かあったのかな?」
「たぶん秘書からの電話が原因だと思う。でも彼から何か言ってくるまでこっちからは聞かないよ。仕事のことだったら僕たちより先に弁護士に相談するだろうし」
「そうだな。会社をここまで大きくするまでにクリスもいろんな問題や訴訟をクリアして来たんだから。どうせ明日、バンドの練習の時には会うんだし」
レイクはクリスには深く感謝していた。今こうやってジョーイとよりを戻せたのもクリスのおかげだった。バンドを再結成させることでレイクとジョーイを40年前の忌まわしい呪縛から救い出してくれたのがクリスだった。
次の日、いつものスタジオにメンバーは集まった。リーダー・クリスのわがままなスケジュール変更も、今回だけは誰ひとり文句を言わず笑顔で受け入れた。
「やあボビー」
「よく来たね」
メンバーに次々に声をかけられたボビーはすっかり萎縮していた。レストランでジョーイとレイクとはすでに会っていたが、その時は祖父の友人としての対面だった。
だけど今回、それぞれ楽器を前にした男たちはまぎれもなく幻のロックバンド「ロートレック」のメンバーだった。最盛期の閃光にも似た眩しさこそ失っていたが、今の男たちはいぶし銀の重厚な輝きを静かに放っていた。昨日いっしょに食事したジョーイもレイクも、そして祖父のクリスさえボビーには別人に見えた。
音合わせに続いて演奏が始まった。ボビーの期待と興奮はマックスになった。
物心ついたころから両親のそろったごく普通の家庭で育ったボビーだった。父方の祖父母はすでに他界していたが、母方の祖父母は健在で孫のボビーたちに惜しみない愛情を注いでくれた。
ところが先日、母親から「もうひとりの祖父」の存在を知らされた。母には育ての父と実の父がいるというのだ。
幼い頃からかわいがってくれたおじいちゃんの他におじいちゃんなんて要らない。どうせ身寄りのない老いぼれが、生活に困って母にコンタクトしてきたんだろう。おばあちゃんと母親を捨てたろくでなしになんて興味も関心もない。なぜ今さらそんなことカミングアウトするんだ! ボビーは不愉快だった。
でも母親が開いたPCに映し出された動画を見てボビーは驚いた。それはボビーも知っている往年のロックバンド「ロートレック」のライブ動画だった。
「このボーカルのクリス・スペンサーが私の実の父親で、あなたのもうひとりのおじいさんよ」
ボビーはまばたきを忘れて動画に見入った。長い髪を振り乱してステージ中央で歌うこの人がおじいさん? 古い動画だったがその歌声もバンドの演奏も古臭さを感じさせないほど洗練されていた。
「この人が僕のおじいさん? マジ?」
ボビーはPCを見つめたままつぶやいた。
「そう。私も3歳の時に別れたきりだからあまり記憶にはないけど。実の父がいることは知っていたわ。これ見て」
母親のドロシーが差し出したのは一通の封筒だった。すでに開封されているその中には招待状と2枚のチケットが入っていた。
LAUTREC-One-Night Live
「おばあちゃんのところに届いたんだけど、私とあなたに行きなさいって。おじいちゃん、ってもちろん今のおじいちゃんだけど、彼もぜひ行きなさいって」
「ママは? 会いたい?」
「会ってみたいわね。私もあなたくらいの年齢の時は父をとても憎んでいたけど、この歳になるといろいろ気持ちは変わるのよ」
「……」
「もちろん気が進まなかったらいいのよ。無理強いすることじゃないし。でも私は行くつもり」
「会いたいよ! なんて言ったらいいのかわかんないけどすごいよ! 僕もロックやってるわけだし、おじいちゃんがロートレックのメンバーだったなんて、すごく興奮してるよ」
「じゃあ決定! あなたの宿題よ、ライブまでにロートレックをしっかり学びなさい。なんてママが言わなくてもあなたはそうするでしょうけど」
ドロシーは最近めっきり笑顔と口数の減った思春期の息子をちょっと乱暴にハグした。
その日がボビーのロートレック漬けの日々の始まりになった。
PCでロートレックの動画を貪るように見続けた。最初、嫌悪感を覚えた祖父だというクリスのボーカルに、いつしか心奪われていた。そして同じギター弾きとして自分と同じ名前のボビーのテクニックに憧れた。
学校でバンドを組んでいる仲間にロートレックのボーカルの正体を告げた時の彼らの羨望の目といったら!
それはその頃ボビーを悩ませていた重い問題から少しだけ目をそらす手伝いをしてくれた。