Dear Bobby 1
「本当にいいお天気ね。風が気持ちいいわ」
深呼吸しながらリタが言った。
「そうですね」
と答えたクリスもこれだけは偽りではなかった。
ビーチ沿いの遊歩道を散歩するなど、ここ何十年もなかったクリスだった。本当にビジネスだけに明け暮れていた。自然と融和することほど不似合いなことはないと言っても過言ではなかった。
「えっと、お名前はなんでしたっけ?」
リタが聞いた。
「マーカスですよ」
「そう、マーカスさん。あなたはクリスのお友達だったわね」
名前は忘れてもクリスの友人であることは憶えているらしい。
「はい、そうです」
「だったらボビーともお友達だったのかしら? ボビー・ターナーよ。ロートレックのギタリストの」
不意打ちだった。リタと再会する前にクリスはアルツハイマー型認知症のことをネットや書物で学習してきた。直前のことは忘れても過去の記憶は比較的残っていることが多いと書いてあった。
「ボビー・ターナーも友人でした」
「じゃあボビーのお墓はご存知?」
「はい、ときどき彼に会いに行きます」
「そう……」
リタは遥か水平線を眺めながら沈黙した。クリスも車椅子を押す手を止めた。
「私ね、ボビーにずっと謝りたいと思っていたの」
「……」
「私をボビーのお墓に連れて行ってくれないかしら?」
「え?」
「ごめんなさい。無理よね。こんな車椅子じゃあ」
クリスは返事に窮した。散歩ならともかく、ボビーの墓地はここからははるか遠い。クリスも飛行機で半日かけてやってきたのだ。
「マーカスさん、冗談よ。ごめんなさい。でもひとつだけお願いがあるの」
「はい……」
「これをボビーに渡して欲しいの」
リタはひざ掛けを少しめくってガウンのポケットからくたびれた感じの一通の封書を取り出した。
「この手紙をボビーのお墓に置いてきて欲しいの。急がないから」
「わかりました」
クリスは笑顔を作ってリタの手から手紙を受け取った。
「ありがとう、クリス」
リタはふたたび遠くの水平線に視線を移した。
『Dear Bobby
あなたに手紙を書く事にしたのは、ずっとあなたに謝りたいと思っていたからです。でもずるい私はそれから目を背けていました。
なぜ急いで手紙を書く事になったかということから話しましょう。ここ数年、私はとても忘れん坊になりました。ずっと毎日繰り返していた家事の手順すら忘れてしまうことがあります。テレビのチャンネルリモコンの操作、携帯の操作もときどきわからなくなります。車を運転していて帰り道がわからなくなったこともありました。でもいつもじゃありません。鮮明な時もあるのです。そんな時はこれまで通り、家事もこなせるしパソコンだって使えます。パソコンを使えるうちにこうやってあなたに謝罪の手紙を書く事にしました。
家族にすすめられ病院に行き、いろいろ検査を受けました。結果は私には知らされませんでした。私もあまり診断には興味がありませんでした。なんだかどんどんすべてのことに関心がなくなってきたのです。世の中のこと、家族のこと、自分自身のことさえも。
ある日のこと、久しぶりに鮮明な日のことです。夫の書斎に数冊の本を見つけました。不自然に隠されていたそれらの本はすべて「アルツハイマー型認知症」に関わる本でした。どうやら私がそのアルツハイマー型認知症らしいのです。
ああ、私はアルツハイマー型認知症なんだ。最近の自分自身の変化、家族の自分への接し方にようやく納得できる病名を見つけた気がしました。
二回の結婚と愛する家族、優しい夫と子供たち。かわいい孫の成長もずっと見守って行けると思っていました。
だけど近い将来、私はリタ・クーパーとしての歴史を忘れてしまうことでしょう。思い残すことがないといえば嘘になります。
ボビー・ターナー。あなたは私を許してくれないでしょうね。
あなたが亡くなった日から、私は重い罪を背負って生きてきました。そしてそれは心の中だけに固く封印して墓場まで持っていくつもりでした。
でも近い将来、私の記憶の足あとはどんどん風に吹き消されるでしょう。あなたへの罪の意識も消えてしまうのです。でもそれではあまりに虫が良すぎます。
初めての孫にあなたと同じ名前をつけました。あなたは知らないでしょうが、ボビーはあなたの孫なのです。ドロシーはあなたの娘です。
40数年前のあの夜のことを、私は心のいちばん奥に閉じ込めて生きてきました』




