⑥青い血管、紅い血液
「女の子って、ミステリーだよな」
「何言ってんだい、このアホは」
ハタキで埃を巻き上げながら、サカノが呆れたように言う。確かに自分でも可笑しなことを言っている自覚はあるが。
お前もちょっとは手伝えよ、と寝ていた長椅子を蹴られて落ちそうになる。奴は俺の抗議の目を見ることもなく、部屋の掃除を続けている。
湿った路地の奥は汚れやすく、また落ちにくい。店までの道も集めたようにゴミが転がってくる。
そのことに気付いた時から目立ったゴミを拾うくらいしかやっていないが、奴は意外にマメでこうして本格的な掃除を突如として始める。やってくれるのはありがたいが、どうせまたすぐ汚れるのにと思いもする。開店時間まではゆっくりしていたい。
「何? ついに女の子に興味持った?」
「別に、そういうわけじゃあねえけど。なんつうか最近色んなのに会ったから」
無粋な問いに答えながら思い浮かべる女子高生達。
桃岡。虎斑。……白河姉は印象は強いがいまいち女の子の枠には入れづらい。
柄にもないことを呟いてしまったのは虎斑を――彼女の答えを思い返していたから。
「桃岡さんと虎斑さん? 確かにインパクトあったね」
「ああ」
「でも、最近桃岡さんは来ないねー。虎斑さんは結局診察受けなかったし。勘だけどありゃセラピーいらないな」
掃除の手をやめないサカノは、低い脚立まで持ってきて今度は本棚の整理を始める。
待っている間の暇潰しにと置いた簡素なそれは、初めは古本屋や廃品回収で安く手に入れたものを空間と共に収めていたが、今では客が持ち寄った書籍で苦しいくらいになっている。ジャンルもテイストもバラバラだ。
奴のボロアパートで転がっていた書籍達も、ここで居場所を見つけたように生き生きと立っている。特に『少年の日の思い出』はよく読まれているようだ。
「……どうして?」
あの時、彼女に問い返したのと同じ疑問が口をつく。
――幸せな夢を見たいとは思わないか?
――いいえ、全く。
そう答えた彼女は強がりでも冗談でもなく、本心から必要ないと答えていた。真っ直ぐ俺に向いた視線が強く、思わず顔を背けていた。
サカノが言うのも、金がないという理由ではないだろう。気持ちいいこと、楽なことは誰だって好きで、ない金を寄せ集めてでも欲しがる人間は大勢居る。皆そうやって今ある苦しみから逃げる方法を探している。……だが彼女は拒んだ。目の前に提示されてもなお。
答えはきいた。聴いたし、効いた。しかしそれがただ音として耳に入ることと意味まで理解することとでは、その間には大きな隔たりがあるのだと俺はこの時初めて知る。
――理想は自力で夢見るから。
そう言う彼女の瞳が、あまりに美しかったことだけが明確だった。
理想の夢を自力で見る。彼女ははっきりと迷いなく答えた。しかしそれは人間にとって、それこそ夢みたいな話だ。
自己暗示さえ上手くできず、苦しみを受ければ堕ちるしかない人間が多いからこそ、この商売が成り立っている。少しでも幸せな夢を。たったひと時のものだとしても、呼吸すら苦しくなる現実を見ないで済むのならと、一種の休息を求めて彼らはやって来る。
だから理想の夢を自力で見られる訳がない。これは天使であっても多くの者ができることではない筈だ。
そこまで考えて気付く。この異能を使うことがもはや当たり前になっていたことに。
……嫌だった。嫌いだった。人間として生きると志した時から、天使である自分を失うとしても異能が消えてしまえばいいのにと何度思ったか。使う度にどこかが痛くて怠いような心地を、投げ捨ててしまいたかった。
なのに。なのに今、それを頼って、誇って、信頼している。まるで自分が特別であるかのように、天使としての力を心の中で誇示している。
いつの間にこんな風になってしまったんだろう。
天使であることを認めるのが悪いことだとは思わない。天使として生まれた限り変わらないし、そうして生まれたからこそ得てきたものもある。自分という存在を認められるようになったのは、この数年間の成長の証しでもあるだろう。
それでも気が付いたこの感情が堪らなく気持ち悪いのはきっと、この異能を求める人間のことが頭を過るからだ。
ひと時の休息を怠惰のための逃げに変え、身を浸していった人間達。出会い、別れ、落ち窪んだ濁った目を見送った日々。人間達が見せたその堕落には自身の選択以外の要因がある、と直接脳に響いてくる気がした。
なら次の夢を求めて店に来る客は、夢を見る内に仕事への意欲を失ったヘアゴムをくれたバイト仲間は、……正夫は、俺が追いつめたのかもしれない。
丸まった背中が。吐かれる溜息が。濃く残った目の下の隈が。
不憫で可哀想だと、見下げて手を差し出したのは俺。そうやって現実から逃げる方法を提示して、打ち寄せる波に立ち向かう勇気も濡れて身体を冷やす覚悟も、失わせたのは……俺?
理想の夢が見られる。そんな方法があるのなら。
――違いますよ。理想を、夢見る方法。
記憶の中で、もう一度彼女が否定する。
理想の夢を見る、理想を夢見る。どこがどう、またどのくらい違うのだろう。俺が理解できないだけか、それとも彼女にしか理解できないのか。それすら分からず、混乱する。
分からない、ということがこれほど胸を掻き毟りたい衝動に駆らせるとは思いもしなかった。今まで気にもしなかったのが不思議なくらい後から後から沸き上がっては、身体の中を染める不安の影。しこりのように固まって上手く酸素が回らない。
「どうしてって、ねえ。だから、勘だってば」
「……勘かよ」
「おうよ。だがただの願望ってわけじゃあないぞ。なんとなく、そうじゃねえかなーっていう確信がある」
その確信の部分を知りたいのに。理不尽な責めの気持ちで更に問う。
「じゃあなんで言えねえの?」
「そりゃあわからないからね。オレぁソロバンは得意だが、作文は昔から苦手なんだ。高校ん時の面接もそれで落とした。自分の考えの根拠を形にするのができない。なんかヤだな、イイな、多分こうなんだろうな。そこで終わり。短絡的で単純なんだ」
そう言っていかにも可笑しそうに、奴は目尻に皺を寄せた。
短絡的で、単純?
掃除もまめで金勘定も得意で、親しみやすく聞き上手。そんな長所を抱え込んだサカノという人間を、思いを明確にできない感情の人だと思う者が居るだろうか。俺は一度も思ったことがない。どちらかといえば目指すべき人の姿だと思っている。
短絡的で、単純。そう聞いて思い浮かぶのは幾らかの客達だ。
実際の人間性は知らない。俺の目で見て解釈したものがとりあえずのその人の形でいい、そう思ってきた。しかし見るべき本質は違うのだろうか。
記憶にやたら残る人間を挙げてみる。
全てに悲観して、すぐ得られる喜びだけを求めて夢の世界に堕ちた正夫。
過去を夢に見て、犯した罪の重さを見ようとしない女子高生達。
恋と勘違いして、収集欲を満たそうと俺に手を伸ばした桃岡。
正夫は人間自体に興味を持つ前に死んでしまって、もう知ることも叶わない。女子高生達は白河姉への感情が忙しすぎて、見ようとしてもそこまで届かない。
桃岡……。思い出すのも億劫になる。そもそもあれこそ、短絡的で単純。見るまでもなく分かることだ。
サカノは床掃除に移行している。膝をついたり、隙間に頭を突っ込んだりしながら。……やっぱり違うと思うんだけど。
身体を反転させて壁に額を付ける。その冷たさに感覚が少しずつ無くなっていくのを感じながら目を瞑った。
無理矢理デートとやらに連れ出されたあの日から、一度も顔を見せなくなった。騒がしいのが居ないと終業の疲れの度合いが違う。
ひとつの出来事が終わってそれが過去になると、感情的に取った行動や咄嗟に出た言葉の意味を考えるようになる。冷静になって振り返られる、らしい。
実際そういう状況になったのも初めてだからか。たっぷり時間はあったのに、あの後のことは何が正しかったのかも他に取れたかもしれない行動も、何も思い付かないでいる。
気持ち悪い、と言った。厚い化粧も、巻いた髪も、歪んだ口も、強請る目も。振り払った筈の手が触れたのも、全部全部気持ち悪くて、浮かんだままに言葉にした。だが、それだけで黙って離れてくれるような物分かりの良い奴じゃない。
一瞬だけ空気が凍る。動きが止まって、その顔からひび割れるような音が聞こえた気がした。ぼろぼろに崩れて素顔が露わになったなら、見下ろすこともしたかもしれない。勿論、好奇心として。
――うそ、何言ってんの? 超ウケル。そういうの笑えないよー、ヒッドーイ、サイテー!
笑えるのか笑えないのか、どっちなんだ。思いはしても面倒だから口にしない。下品な口を大きく開けて結局笑い出した。
よくそんな簡単に相手の言葉を否定できる。自分の言動を振り返ろうともしない、正しいのはいつだって自分だけだから。だから自分の思いと反するものは何もかも――好きだと言った相手でさえ――容易に刃を向ける。
別に。とりあえずそれだけ答えておいた。返事をしないと騒ぐから。
どっちでもいい、とは言わなかった。言ってしまっても騒ぐから。そしてまた聞きたくもない主張を聞かされて、応えるかどうかを考える。そのループ。
桃岡はまるで。
化粧で本当の自分を覆い隠した、物語にも出られないお姫様。作った顔を本物と勘違いして完璧な美女なんだと胸を張る。褒めて甘やかしてくれる家臣を従えて、否定的な者は即刻排除。輝く自分が世界の全てで、それ以外は引き立てる飾りでしかないと本気で思っている。
その中に付け加えたいのはとっておきの王子様。軽い言葉で自分を喜ばせて、自分の思いを叶えてくれる、誰より自分を輝かせてくれる存在。
いつか自身が言ったように、そういう存在をコレクションしたいんだろう。
もしも誰かが桃岡を美しいと称賛しても、俺はこれ以上近付きたくない。金を落としていくのはありがたいが、蟻地獄に自分から捕まりに行くような行為は絶対にしたくない。
桃岡が着飾るものも求めるものも、あくまで桃岡が、求めるものだ。俺とは価値観がまるで違う。
しかし、不本意でも認めざるを得ないのは、ある意味で似た者同士であるということ。
桃岡がハリボテのお姫様であるように、俺もハリボテの“人間”。天使と人間の境界線の上で大きく揺れる起き上がり小法師みたいに、どちらにもなれない中途半端。――今の俺は、結局何者なんだろう。
そんな俺に完璧な王子様を求めたのが間違いだった。他でやってくれたら同情の目で傍観できたのに。
人を見下してただのパーツとしか見ていないことに吐き気がする。許せないと苛立つ以上に、面倒臭い。こういう手合いは一度隙を見せたら、もっともっとと要求が高くなる。自分に甘く、他人に厳しく。そこに完全に取り込まれた自分……想像するだけでおぞましい。
――真木さんッてばッ!
遠ざかる耳に微かに届いていた声が、金属みたいな絶叫に変わる。それさえ無視してただ足を進めれば、地を踏みつける音が聞こえる。玩具を買ってもらえない子供みたいで、みっともない。
振り返らない。自分の主張は全て聞き入れてもらえるとでも? 大概にしろ。
――ふざんけんじゃねえッこのキモ男ッ! 女子高校生だぞ、誘われてその態度かよ調子に乗んなマジキモいんですけど! 超キモ! あり得ない! 死ね、クズ、バーカ、キモ過ぎ!
馬鹿さ加減を露呈するような幼稚な罵倒。薄っぺらくて安っぽい。サカノが言ったとしたら多少は棘になり得る思いであっても、桃岡が言えばただの単語で、少しのストレスが溜まるだけ。
傷が付けられそうな言葉を知っている限り並べたのに、重複するのは語彙の無さ。せめて巧みに言葉が使えたなら、拍手くらいは送ってやった。
最後の返答は、あっそ、にしておいた。別にわざわざ否定する内容じゃない。桃岡にとって俺はそういう奴なんだろうから。
店へと帰りながら、女子高生に罵倒されながら好奇の目に晒されている俺はさぞ滑稽だろう、と思った。同時に桃岡も、下品に罵り続ける様を見られているのだからそれはそれで心地良かった。上位にいると信じていながら傷付けられることに敏感なのは、世間知らずのお姫様の証拠だ。
そうやっていつか気付けばいいのに。今の自分の生き方ではやがて身動きができなくなると。自分を喜ばせるための選択がそのまま首を絞める結果になることに。
そう考えてやれるくらいには冷静になったのだと思う。改めて考えてみても、やっぱりあれ以外の行動は思いつかないし、あれで良かったとも思う。あの程度の荒療治で足りるかどうかは不明だが。
起きた過去の出来事を並べて、考えて、結局分からない。そんな繰り返しが、最近続いている。
セラピーの勉強の方がただ学んでいくだけで簡単だった。知らないことは入れればいい。隙間の空いている脳内に知識を詰め込めば十分事足りた。
今しているのはそれとは違う。もっと内面的で感情的で、これまでの蓄積が必要になる。だが人として構築してきた思考や感情が正しいかさえ不安になるような行為でもある。明確な答えがあるかも分からない疑問をひたすら思い悩むのは疲労が溜まっていくだけなのに、それでも考えることをやめにはしてしまえない。
それは多分その答えの先に、見るべき“俺”があるような気がしているから。
悲しみではなく怒りを爆発させた桃岡――不鮮明な愛や恋の感情のベクトルは、一体どこに向かっているのだろう。
幸福だけの夢の中を居場所にした正夫――夢の住人にはなれないと分かった上で、現実を捨てたのはどうしてだろう。
死んでもなお人の心に沁みついた白河――人の間で上手く生きる術を理解した上で、自らを捨てたのはどうしてだろう。
理想は自力で夢見るからと答えた虎斑――簡単に見られる方法も機会もあるのに、夢を見たがらないのは何故だろう。
理想の夢を見せられる異能を持った俺――どんな夢だって思いのままに操れるのに、夢を見られないのは何故だろう。
世界が、皆が……俺が。本当に望むことは何だろう。
誰とも混ざらない血が巡る血管を持って今ここに存在する理由は、その意味は、何なのだろう。
天使って、人間って、一体何だ――――?
END
原作はこちら!
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