6.迫る漆黒と切り裂く黄色
見開いた瞳に電球が映る。押し寄せるような闇が身体中を巣食って、光が僕まで届かない。
心臓が壊れそうなほどに脈打って、胸が軋む。足りない肺を満たそうと幾ら吸い込んでも、喉が鳴るだけで少しも入ってこない。
飛び出しそうな心臓を抑えて、荒い呼吸のまま身体を起こす。内臓が潰れるような痛みに声が漏れる。
「大丈夫ですか。落ち着いて呼吸をしてください」
彼の声がして、背中を撫でる感触がある。その温もりに急く身体を押し留めて、ゆっくり息を吐き出した。
その速度のまま吸っては吐いてを繰り返せば、動機もやがて収まってくる。瞼を閉じると頬に涙が伝う。
「そんなに怖い夢だったのかい?」
「いえ、……いえ、はい」
一度否定して、やはり答え直す。どうせ彼女にはばれてしまう。開いた目に彼女を捉えれば、背中を擦る手が彼女のだと気が付いた。
……恐ろしかった。ひどく、ひどく。
「嫌な夢、でした」
佑が少女にしたこと。あれはきっと事実だ、僕の妄想ではなく。
どうしてあんなものが見えたのかと傍に立つ彼を見上げると、澄ました顔で、企業秘密です、と突き放された。
「ああ、例のあの子の夢かな。それは虎斑が頼んだんだ」
「虎斑さんが?」
「彼女もここに来ているらしくてね。催眠術で割り込ませられないかと頼んだ」
「成程」
分からないことが多すぎて、何か引っかかる気もするけど気のせいだろう。
頷くと彼が顔を顰める。礼を言わないのが気に食わないのかもしれない。
「すみません」
「……ん?」
謝ってみたけれど、きょとんと見返されるだけだった。そのことを怒っている訳ではないらしい。他に何が悪かった?
まだ動きの悪い頭を振っても出てこない。そうしている内に肩を叩かれた。
「悪いんだけど、ひとまず出てくれる? 客が入るから」
「あっはい、すみません」
転げるように施術室を飛び出すと、後ろで笑われている気がした。振り返ると案の定彼女は可笑しそうに微笑んで、やけにのんびり受付へ移動している。
「虎斑さん」
今見てきた夢を吐き出したい。そんな思いで立ち止まると背中を強めに押される。
「ほら、鳩くん。いつまでもここにいると迷惑になってしまうからね、続きは外で」
「そ、そうですね」
幾らか圧力を感じて素直に進む。受付のあの人は呑気にお茶を啜っていた。声を掛けるとそろばんを取り出し、軽快に弾く。
「施術一時間。一人二千五百円ね」
代金は割り勘でと決めていた。学生としてはダメージの大きい値段に彼女は、結構良心的だよね、と呟く。ネットで調べたところ、場所によっては一時間半で一万円以上取る店もあるらしい。それに比べれば確かに良心的だった。破格といってもいい。
「うちの真木は腕がいいから客も多いのよ。だから採算取れないわけじゃないから安心してね」
気を良くしたように言って和ますのは、この人の良いところかもしれない。
受付にレジはなく、全て暗算で計算して機械代をケチっているようだ。流石、って言ったらいいのかな。
「遠慮せずにまた来てねー」
わざわざ受付を離れて玄関まで見送ってくれる。
店を出た瞬間、窓から店内を覗き込む少女を見つけた。髪をこれでもかと巻いた今時の女子高生。
どくんと胸に衝撃が走る。
違う、あいつらじゃない。背丈が似ていて制服を着ているだけだ。その制服だって全然違う。夢の影響がまだ出ているみたいだ。
無意識に見つめていたのに気付かれて、その人は顔を強張らせると走って行ってしまった。
入りたいけど恥ずかしかったんだろう。その気持ちはよく分かる。一人じゃとても入れる気がしない。引っ張ってくれた彼女にあとでまた礼を言わないと。
僕の緊張を少しだけ和ませてくれた受付のあの人にも。そう思い振り向くと丁度、真木といった彼がのそりと顔を出す。
僕を見据えたまま何も言わない。その視線を何とか正面から受けた僕は何も言えない。
あの夢みたいだ。引きずられて呑み込まれてしまいそうなその雰囲気に、漂う酸素が薄くなる。妙な緊張感に見上げた彼しか見えなくなる。
置物みたいに動かなかった彼が、唇を僅かに緩めた。
「鳩くんだっけ」
「は、はい」
気怠い声で確認されて、戸惑いながらも返事をする。君さ、と続く言葉に耳を澄ませた。
「佑って子のこと、キライだろ」
かっ、と。
全身が沸き立つ衝動。激しく脈打つ心臓は制御不能で、熱い血が一瞬で駆け巡る。降りない瞼に目が乾く。名前のない激情が残った空白を焼き尽くし、理性の淵まで追い込んでくる。
――嫌いだ、この男。
本能が叫んで、僕はそのまま睨みを返す。
「どうして、そんなこと」
何も知らないくせに。佑のことも、僕のことも。
見下ろしてくる視線に吐き気がする。ふざけるな、あんたに何が分かる。
苛立つように歪んだその唇は、明らかに僕を見下げていた。
「キライだろう。俺はキライだった」
こんなに怒りに熱くなったことは今までない。怒鳴り返す言葉が見つからない。
理不尽さと不甲斐なさに唇を噛めば鉄の味が舌に乗り、喉を通って胸の奥でどろどろに固まっては渦を巻く。
ちょっと真木、と横から手が伸びて彼の腕を掴む。もうその口を塞いでくれ。
「俺にはわからないな。どうしてそんなに否定したがる?」
「否定? 僕は、佑のことは何も」
佑。冷静さを装って口に出せば、感情の抜けた顔が煩わし気に歪む。自分以外の意見は受け付けないとでも言うように、ふんと鼻を鳴らした。
「目を逸らしてるだけだろう」
その一言で、身体中で燻っていた熱が一気に燃える。胸の奥、腹の底、形の見えないそれが明確な色になって眼球の裏で火花を飛ばす。
火に油を注ぐ、ってこういうことか。隅にかろうじて残った冷静な僕が他人事のようにそう思った。
腹が立つ。本当のことだから。
絶対に違う、という確信もあるのに思わずその通りだ、と頷いてしまいそう。矛盾した思考のどちらの面も混ざることなく確立されて、でもそれらをなぎ倒すように彼が踏み行ってくる。
――わからないんだろう。
彼女から言われた時、距離を取りたくなるくらいの恐れがあった。けれどこんなにも不快じゃなかった。言われた言葉が癪に触ったのか、それとも触れられたくない場所に気付かされたからか。
睨んだまま削るような歯ぎしりをすると、彼は意地悪くも笑ってみせた。
「やっとマトモな顔したな」
「うーん、彼は一体何を思ってあんなことを」
初めて会った公園のベンチに腰掛ける。足を振り子のように大きく揺らしながら彼女は言った。
あれからすぐ受付の彼と共に割って入ってくれた彼女は、怒りを露わにした僕より勇ましい。
「虎斑さんにもわからないことがあるんですね」
「そりゃあそうさ」
バニラアイスを押し付けられる。来る途中、暑さに負けてコンビニで買ったものだ。彼女はキャラメル色のソフトクリームを舐めている。プラスチックの持ち手にはアーモンド味と書かれていた。……美味しいのだろうか。
「全くわからんってわけでもないんだが、タイプに合わない気がするっていうか。二言三言話しただけだしわかるわけないよね、やっぱり色々あるんだろうな」
「色々、ですか。僕は……正直、嫌だなって思いましたけど」
「誰にだって色々あるよ、当然さ。全部理解できるだなんて傲慢なつもりはないけど、やっぱり考えもせずに一方的に悪く思うのもヤダから虎斑はこの先も考えておこう」
そんなことまで考えて、疲れないのかな。
自分とは合わないと思ったのに、その合わない理由さえ知ろうとする。今までそんなこと考えもしなかった。どうしてそこまでとは思うものの、批判する気にはならない。
きっと今までの無気力で曖昧な返事しかできなかった僕も、他人から見れば避けて通りたくなるようなものだっただろう。
そんな僕に手を差し伸べてくれたのも多分、似たような理由なんだ。だからそれを尊く握った僕には、彼女の意思にとやかく言う権利はない。
「でも、君もらしくなかったな。どうしてあんなに怒ったの? 佑の話を聞く限りでも、君が怒るだなんて珍しい」
口を噤んだ僕を気遣うように言ってくれたのは、忘れかけた傷を抉るものだった。問われたからには答えるしかない。言葉を選ぼうとしても結局浮かんだままで声にした。
「……その、なんていうか。半分図星、だったので」
情けなさに控えめに視線を向ければ、目を丸く見開いて固まっていた。
それはそうだ、あれは八つ当たりみたいなものだった。心の狭さと幼稚さに、呆れられても仕方がない。……言わなきゃよかった。
指にアイスが垂れ始めて、舐め取った甘さが舌に纏わりつく。
「は、はっはっは、ふはははは、ふ、はあ、ふふふ」
「あ、あの、虎斑さん?」
空気を切る鋭い息に見返すと、膝を叩いて発狂したように笑い出した。止んだと思ってもまた身体を揺らす。笑い上戸とは思っていたけど、ここまで笑いの意味が分からないのはあまりに怖い。いつかと同じく距離を取った。
「ふ、ふふ、いや、ごめん、世の中わからんもんだと……く、ふっ」
「は、はあ」
「はーッ……構わん、続けてくれ」
僕にはあなたが一番分かりません。
戸惑いを今更隠そうとしても仕方ない。開いた距離をそのままに、沸騰した感情の訳を少しずつ話し始めた。
「そのですね。佑の夢を見ました」
「ほう?」
「語彙が少なくて申し訳ないんですが、なんというか。久しぶりに彼女を見たら、急に今までの佑が死んでいく感じがして」
今までの佑が、死んでいく。
そう口に出してみると、腹の底に落ち込んで蠢いていた何かが空いた窪みにすとんと収まった。
僕の中で漂っていた形のない感情に、捻り出した言葉が形を与えていく。
「僕のなかでは、彼女は優しくて、綺麗で、僕なんかよりよっぽど天使みたいな人でした。どうしてそう思うのかとか、一体何処を優しいと思うのかとか。理由なんてわからなくて、知らなくてもいいと思ってた。だって僕は十分に佑を知っている気だったし、これ以上わかる必要ないって過信していましたから」
「今はそうじゃないと思ってる?」
大きく息を吸う。素直に頷くには抵抗がある。
佑は手の届かないところに行ってしまった。……いや、最初から傍になんていなかった。僕から手を伸ばさなければ触れられないなら、それは傍に居るなんて言えない。
最初から気付いていた。分かっていた。けれど硬く閉ざして守りたかったものが、僕にもあったから。
守りたかったんだ、僕達の間にある筈の絆を。あると信じるこの気持ちを。
ゆっくりと、撫でるように触れたかった。その奥にある真相に気付かない振りをして、調べながらも根本には目を背けて、崇高な位置にまで高めておきたかった。
そうやって見上げていたかったんだ。
「……僕は佑を尊敬はしていたけれど、憧れてはいなかったし、好きであるのと同じくらい嫌いで怖かったんです。
家族で“親”だからそうじゃないって思い込んでいただけ」
そう、分かっていた。絆なんてなかったこと。佑が僕を振り返らなかったように、僕は佑に触れようとはしなかった。ただ家族としてカテゴライズされただけの関係に意味を付けたかっただけなんだ。
それを見抜かれた、初めて会ったあの男に。それが痛かった。
佑であったなら、『虎斑 凛』であったなら、きっと受け入れられた。そういうもんかって、諦められた。
だけどいきなり出会った彼に、温情の欠片もなく無惨に言い当てられたのが心の底から嫌だった。
避けようとしていた部分にいざ触れてしまえば、あまりにあっさり飲み込める。
「僕は佑が怖かった。気持ち悪かった。理解できなくて、したくもなかった。ただ恰好だけでも沿わなくちゃいけない、だって僕のルーツは佑だから。佑と同じルーツを持たないなら、僕は佑の天使ではないし、だったら僕とはいったいどういう存在なのだろう、って」
命は平等だ。けれど他人以上に自分自身が大切で。
傷つくのは怖い、痛い思いはしたくない。佑が虐められていると知った時も、庇えばその悪意は自分に向くんじゃないかって手を緩めた。
痛みに気付いていないように進んで手を差し出す様は、絶対に真似できないから認めることさえしたくなかった。
佑の感情も僕の感情も、その名前すら知らなくて。だから目を背けていられた。
だけど僕は、どうしようもなく佑の“天使”で。
認められない気質もなくてはならない、それがなければ天使じゃない。鳩の名が持つ意味の通り平和を示せ、と言われているようで。考えることもやめてなかったことにした。
一度だってそうあることを求められたことはなかった。僕が勝手に囚われただけ。
佑のようにならなければ、佑は凄いのだと思う度に、絶対佑のようにはなりたくないと嫌悪感を募らせた。
「夢を見て、はっきりわかっちゃったんです。直視、しちゃったんです。わかんないのは当然ですよ、だってずっとそうしてきたのは僕なんですから」
佑、という形から遠のいていく。その姿であろうとすると。
追わなければ少しも近付けなくて、追ったところで辿り着けなくて。堂々巡りの中で気付かされたのは、初めから同じになんてなれなかったこと。
もっと早く、見つめ直さなければいけなかった。なおざりにしてきた過去がせり上がっては胸を圧迫する。
喉から溢れ出そうな絶叫を抑えるように顔を覆うと、アイスの棒が指から落ちた。
「でも、そんなの、誰にだってあるよ」
彼女の声が耳をさわりと過ぎる。
苦しい思いをすることになるなんて、最初から分かっていた。ただ少し期待していただけ。
指の合間から見やると、彼女はソフトクリームを舐めながら青い空を見上げている。暑い日差しの中で汗ひとつかかないで、流れ落ちる髪を掬い上げて耳にかけた。
「いいんじゃない。人間なんだから、悩むのは」
「……人間は生まれつき人間じゃないですか。親がいてルーツがはっきりしてて、ちゃんと地に足つけて考えられる生き物ですよ。天使は血の繋がった相手なんていないし、“親”を除いたらこの地上に足をつけた始まりの時さえわからない、不確かな存在なんです」
「人間だって『赤ちゃんはどこから来るの?』っていう質問は定番だよ。心が生まれつきハッキリしてる人間なんていない。君は天使だけど、心は人間じゃないか。そこでは悩むのはおかしな話だと思うけどねえ」
心は人間。僕が、本当に?
「前にもいったけどさ、虎斑は納得が大事だと思うよ。君は何が嫌で疑問に思っていて、どう解決したいの。一番したいことって何? そんなのがわかるのは、半分運で半分努力だよ。虎斑はそれを手伝うのが好き。沢山考えて学べるから。君は何が好き?」
「好き、ですか」
佑が好き。佑は嫌い。
優しさが好き。慈愛は嫌い。
誰かを助けてみたい。自己犠牲は、苦手。
「わかりません」
「じゃあ、考えてみようか。佑の望みも結局よくわかってないしね。虎斑達の奇妙な冒険はまだ始まったばかりだ! 虎斑ぁおせっかい焼きの虎斑、那谷木の田舎町から鳩くんが心配なんでくっついていく!」
「あの、ちょっと最後よくわかりません」
「えっ……」
僕達の冒険はまだ始まったばかり。そう、まだ踏み出したばかりだ。
彼女がショックを受けた理由は分からなかったけれど、初めて見るその顔に少し気分が高揚した。




