5.全てが混ざった不透明
『エンデュミオン』。その看板を何度か見返した。
ホームセンターで用意したような角ばった板。バランスが悪く、どれも中途半端に切れた太い文字。個性的と言えば聞こえはいいけど、乱雑と言ってしまった方がすっきりする。
日の当たらない裏道をずっと進んでやっと見つけた。晴れているのに、屋根から突き出たパイプから昨日の雨水が滴っている。交通の便が悪いとは聞いていたけど、こんなにも町の外れだとは思わなかった。
経営のことは分からなくても立地が最悪そうなのは分かる。その割には道は妙に整頓されていた。
いつもなら絶対に入らない。正直、入りたくない。あまり良いものが待っているようには思えなくて。
後ろから肩を叩かれて、邪魔をしていたと気付く。
「あ、すみません」
「虎斑はいいよ。でもちょっと脇にそれて」
振り返ると、すぐ後ろにいた彼女の向こうにいかにも上品な紳士が立っていた。
纏うのはグレーのストライプ柄スーツ。太陽に柔く反射する光沢と、深みのあるグレーの色合いに、普段父が着ているスーツとは別格だと一目でわかる。寧ろ別物だ。
跳ぶように端に寄ると、勢い余って肩をコンクリートの壁にぶつけた。当たり以上に痛い。
「どうもありがとう。失礼するよ」
紳士は帽子のつばをつまんで頭を下げ、空いた道を進んでいった。そして例の店の前まで進むと、そのまま店に消えた。
冗談だろう? あんな紳士も行くような店なのか……この看板で。
あまりの驚きに呆然と立ち尽くしていると、ドアが開き紳士が出てきた。
そうか、間違えたんだ。あんな怪しい店に上等なスーツの人が入るなんてないよな。
勝手に結論付けようとして、その人が高級そうな鞄からビニール袋を取り出すのを見ていた。……ビニール袋?
その姿に似合わない袋を持って、続いて出した手袋をはめて、その人は足元に転がっていたものを拾う。丸められたチラシのようだ。それを手にしたビニール袋に投げ入れると、念入りに畳んでから鞄に仕舞った。これは。
「どうやらやってきた客も掃除をしているようだね。散らかりやすい場所だろうからか」
「なんというか……凄いお店なんですね」
知る人ぞ知る穴場。そんなキャッチコピーを付ければ、薄汚いのも味に見えてくる。多少は。
「勇気は出たか? じゃあ行こう」
押された背中は否応なしだった。
「いらっしゃいませー! 初めてのお客様ですね」
明るく豪快な声が意外で顔を向けると、カウンターの向こうから満面の笑みがこちらを見ていた。二十代くらいの男性で、セラピーの店よりもコンビニの方が似合っていそうな雰囲気がある。爽やかさとエネルギーが弾ける笑顔は近付きやすく、僕にはない生命力があった。
受付は女性だと決めつけていたらしい。病院や歯医者のような施設は大抵そうだったから。でも実際迎えられて、その清々しさが心地よかった。
薄い知識の上で縛られていることを、最近痛感する。だから見えないものが多すぎるんだ。
どんな可能性も決めつけず、あらゆる思考回路を試す。そうでなければ、佑の心には辿り着けない。僕の足は誰よりものろまで未熟だから。
また落ちそうになる思考を奮起させて、せっつかれる前に名乗り出た。
「はい。白河 鳩……です」
「白河様ですね、用意できております。施術はすぐにできますが……失礼。ご予約では白河様一名様だと伺っていたのですが」
受付の男性の視線が僕の後ろを捉える。一瞬顔が引きつった気がしたけど、何か嫌なところでもあったのだろうか。
振り返って納得する。そういえば彼女の格好はインパクトしかないんだった。
今日の格好を横目で確認する。
真っ赤なタンクトップに足の付け根までしかないデニムパンツ。薄桃色の爪が眩しいローマサンダル。その露出度もお馴染みの髪色も、いつの間にか麻痺して気にならなくなっていた。
それも見た目とは裏腹に常識人だと知っているからだろう。踏み込まれただけの店側としては、何をしでかすかわからない厄介な客に見えていても仕方がなかった。
ここは僕がフォローしないといけないかもしれない。
「彼女は、その」
「虎斑 凛です。予約を入れたのはトラ、わたしになります。勿論施術を受けるのは彼です。突然で大変失礼だとは思うのですが、少々真木さんにお伺いしたいこともあり、付き添いとして同伴させていただきました。よろしいでしょうか?」
僕が言い淀んだ隙に、礼儀正しく話を進めてしまう。未だ見たことのないその態度にも驚いたけれど、何よりも自身をわたしと呼んでいるのが新鮮だった。
結局出る幕はないらしい。大人しく口を閉じることにして、彼女の堂々とした振る舞いを見届けることにした。
「真木、うちのセラピストですね。そういえばご予約の際に、確認したいことがあるとおっしゃっていたお客様でしょうか。あの時は真木が不在でお答えできず、失礼いたしました」
「いえ、それはしかたないですので。こちらもいきなりのうえ、その後お電話しませんでしたから。今日か、近々お話できますか? それとも個人的にお話を伺うのはNGでしょうか」
「いえいえ、とんでもありません。例の内容でしたら、全く問題ないと思いますよ。空き時間も近いですから、是非何でも聞いてやってください。あ、セラピーの秘密以外はね」
「本当ですか? ありがとうございます。治療法については、ご安心ください。最初から真似できるとは思っていませんから」
軽口さえ交わしてお互いにからからと笑いあう。彼女が悪い人間ではないと理解してくれたのだろう、表情も朗らかに対応してくれている。
「それでは、虎斑様は施術は必要ない、ということで」
「はい、それでお願いします。それと貴重なお時間をいただく形になりますので、自給をこれぐらいとして……」
「ほほう、では空き時間が大体十分、うち五分ぐらいは確実に話せると思いますので、割ると五分につき……となると大よその値段は……」
彼女がメモを差し出し、受付はそれを確認する。するとにやりと口角を上げて、そろばんを素早く弾く。
「うーん、ではこのぐらいで宜しいでしょうか」
「了解しました」
「まいどあり! ではお待ちください」
受付は彼女の財布から小銭を二枚受け取ると、敬礼しつつそれを大切そうにレジに仕舞い込む。
真木に連絡しておきますね、と言って奇妙な暖簾の向こうへ消えて行った。
他の客に聞こえないよう彼女に耳打ちする。
「何をお話していたんですか?」
「ん? ああ、まあわかりやすく言うと自給の相談かな。いやあ、あの人しっかりしてるね。時間を貰うんだから代価は支払うべきだと思ったけどさ。ちょっとのお金もキッチリ計算してくれるんだもんな」
感心したように頷いている彼女も十分しっかりしているけれど、話をする数分さえ計算してみせたのはがめついほどにしっかりしている。
受付としては必要な素質なのかもしれない。尊敬と呆れをないまぜにして暖簾を眺める。すると丁度よくその緑色の布が割れて、大きな影が現れた。
背の高い男性だ。四月の測定で百六十八だった僕が見上げるくらいだから百八十以上はあるだろう。
手足は針金のように細く、顔色は灰をまぶしたみたいに悪い。葉が落ちるのを待つ枯れ木のような気怠さを纏っていた。傷んだ髪がお洒落に切られていて、後から付けたように不自然だ。
迫力はない。けれど場の雰囲気ごと相手を呑み込むような圧迫感が彼にはあった。嫌悪する類いではなくても第六感が警告するような圧倒的な何かが。
近付いてくる彼に心臓がざわめく。反射的に一歩引くと、曇った鈍い瞳に射抜かれる。そして彼は、僕と隣の彼女を交互に指差した。後ろから受付がやって来てその手を叩くと、掌が向けられる。
「で、どっちが白河さんで、虎斑さん」
「こっちが鳩くん」
「あ、はい。僕です。こちらが虎斑さんです」
「ちょっと真木、虎斑さんは女の子だっていったでしょ」
「そうだったっけ」
小突かれた頭を掻いて悪びれない様子の彼が真木さんらしい。セラピストにしてはかなり陰気で、どちらかと言えば客にしか見えない。
その人は改めて彼女の姿を捉えると、やはり眉根を寄せた。違和感を抱くほどに露骨な皺が何本も刻まれ、彼女への警戒が見て取れた。
「スミマセン、別になんでもないんで。じゃあ二人ともあっちに来てください」
幾らかぞんざいな話し方で招かれる。不安は増すばかりだ。
進む暖簾の先。そこは薄汚れたコンクリートが剥き出しの部屋。冷たい印象のこの部屋には簡素なパイプベッドが六台並び、薄いシーツと軽そうなブランケットが掛けられている。タオルが畳まれて置かれているのは……枕の代わりだろうか。
「結構質素、なんですね……」
先程見送った紳士が窓際のベッドで静かに眠っていた。上等なスーツ姿とこの部屋じゃ釣り合いは取れていない。紳士はブランケットをお腹に乗せて、その上できちんと指を組んでいる。その姿は棺の中を思わせた。
――佑を思い出す。姿勢正しく横たわる様と虚ろにされるがままのその現実に。
「ああ、まあこれでも十分仕事はできるんでね」
彼はこちらを見ることもせず、ベッドの下から大きなバスケットを取り出して言った。荷物入れだろう。
向けられた背中に気のない声を返すけど、それも大して気にしないらしい。屈んだ背中を伸ばすと盛大な音で背骨が鳴った。それだけで骨折を心配するくらい、彼は異常に細かった。
「んで、白河さんだっけ」
「はい。えっと、何かするんですか? こう、特別な作業とか」
「いらねえ。寝っころがってればいい」
客への態度とは思えない素っ気なさで言って、そこでやっと振り返った。
「じゃあ虎斑さんは……」
言いかけて止んだ。彼はじっと見つめていた、僕を。濁った瞳に手を握る。
さっさと動けという指示か。急いでベッドに腰掛けてもまだ、その視線は僕から離れない。
「あ、あの……なんでしょう」
「……ん、あー、前にどこかで……見たような気がするんですよね。でも君じゃないっていうのはわかる」
どこだっけ。そう首を捻る彼に僕も首を捻る。何を言っているんだろう、この人。
「どうでもいいか。じゃあ寝てください。あとは目を瞑るだけでいい。意識が落ちるまで見たい夢を考えておいて」
どうでもいいと本人に言われてしまえば、問い詰めるのも気が引ける。他の客の時間を取る訳にもいかず、言われるままに寝転ぶ。固いパイプが骨に当たるのを気にしないようにして、瞼を閉じた。
見たい夢を考える。佑との思い出。佑は何故あのように生き、死んでいったのか。何度も見過ごしたそのサインを、僕は知りたい。
脳内を舞う文字と感情。顕在的に、潜在的に。それらを取っては混ぜ合わせて、また分裂させる。
優しい少女。優し過ぎて理解できない。死を恐れず、己を愛さない人。形を持たないブラックボックス。
上手く形にならない思考が明確な障害になる。結論が足りない、理由が付けられない。行き詰まっては新たな結論を目指すけど、触れる前に通り過ぎる。これでは先へ進めない。
あとは感覚しか残っていない。佑の何が気に食わなかったのかを、心で感じるしかない。
ゆるりと全てが解けていく。覆うように広がっていく思考が少しずつ掴めなくなって、遠くで微かにうねるのを見ると、額がトンと叩かれた気がした。
ぼやけた視界が少しずつ晴れて、何かが見える。
後ろ姿。本を抱え、開いたページに桜の花びらを挟み、ゆっくりと閉じる。――栞を作っているんだ。
ベランダの窓から射し込む光に照らされて、今にも消えてしまいそうな儚さに襟元を掴む。
「……佑?」
夢だ。けれどいつも漂うだけの声がちゃんと空気を震わす。そして一歩踏み出した感触は現実より柔い。
ここはどこだろう。目線を動かせば自宅であるとすぐに分かる。見慣れたソファ、机の形。
油断すればふわりと飛び上がってしまうような浮遊感。どこかに連れ去られてしまいそうで爪先に力を入れた。
ぼやけたピントの中で、光を浴びる佑だけがくっきりと存在する。スポットライトのように存在を強調して、守るように包み込む。
「……佑」
届かせたくて音を吐き出す。まだ上手く出なくて、それでも熱を込めて。
佑はただページを捲り、花を乗せ、また閉じるの繰り返し。振り返ってはくれない。
僕のことなど佑の中に存在しないとでも言うように。
「佑。どうして」
聞きたいことは山ほどあった。けれど続かない。抱えすぎて、それ以上の言葉にできない。
僕の頭じゃ足りなくて、震える足は頼りなくて。脆い心の欠片を拾いながら進むには不安や恐れしかなかったけれど、佑の言葉で報われる。ただ笑ってくれたなら、僕の全てが救われる。――だから、どうか。
「それがどうしたというの」
淡泊で平坦な言葉は変わらない、記憶のままの佑のそれで。どこまでも揺るぎなく、自身さえも振り返らない答え。
「どうした? 何をいっているの? 君は沢山傷ついて、こんな結末になって」
「傷ついて?」
休むことなく栞を作る手は優雅で、風に靡く柳のように安らかだ。
「何に傷ついたというの」
紡がれた声は僕の全身に冷たく刺さる。
そうじゃない、そうじゃない。こんなことを言わせたいんじゃなくて。僕はただ佑に――。
「人に! 優しさに! 疲れに! 身勝手に!」
「たいしたことないでしょう、そんなもの。あったところで意味はあっても、必ずしも害になるとは限らない。わたしは平気よ。だったらいいじゃない」
振り返りもせず、宥めようともせず、佑は佑のまま花びらを見つめて答えを吐く。
栞が義務的に量産されて、少しずつ変色していく。僕の足元にひとつ、茶色い染みみたいなそれが舞い上がって張り付いた。
「死んだんだよ!」
「だから、何。いまどき、死に何を求めても幸せにはなれないわよ。不幸にもね」
美しい薄紅が山になり、またひらりひらりと流れ落ちる。美しいと信じていたその姿は死骸に変わり、過去も思いも塗り潰すように迫って来る。
それらを埋め込むように踏みつけても、せり上がる感情を止められない。
嫌だ、嫌だ、お願い、奪わないで、連れて行かないで――!
「だから、何も気にしなくていいのよ。あなたは幸せになりなさい」
他の皆を幸せにするの。だから、鳩、と名付けたのだから。
「あああああああああああああああああああああああああああああ!」
みたくないみたくない。ききたくないききたくない。
憧れていた優しさが怖い。怖い……気持ち悪い。
――あぁ、あいつらと、同じ――――。
はっと目を開けると、そこは激しい雨の中だった。打ち付けられた地面が叫び、空気を揺らす。
見上げれば鉛色の雲から止まることのない雨が槍のように降ってくる。けれど全く濡れていない。身体を薄い光のベールのようなものが覆って、その外を滴が流れていく。
足元を見下ろして心臓がかっと熱くなる。まるで僕の分まで雨を受けたように全身を濡らした少女が、固いアスファルトに転がっていた。
肌に纏わりつく制服は同じ高校のものだ。佑、ではない。髪の色が違う。
鼻を小さく啜り、身体は小刻みに震えている。でもそれ以上は動かない。いや、動けないのだろうか。擦りむいた膝は血が滲み、雨がそれを流していく。
助け起こそうとして触れた手が、すり抜ける。……幽霊みたいだ。どちらがそうかは分からない。幽霊みたいな空虚に見下ろす瞳が過って、背筋が震えた。
少女の顔を覗き込む。地味で目立たない顔立ちに、目元のほくろが印象的で。
「こんな、なんで」
佑を虐めていたグループの一人だった。驚きと戸惑いに足が折れ、尻餅をついた。
その時、差し出された手。僕にではない、その少女に。僕がすり抜けたその手を確かに掴んだ手があった。――佑だ。
「立てる?」
少女は目を見開いて佑を見つめてから、小さくはにかんだ。ありがとう、と呟いてその手を借りて起き上がる。伸ばした足に引き攣る笑みを、佑だけでなく僕も気が付いた。
「どうしたの。今朝、賀渡さんに話しかけられていたけれど、その件かしら」
「ッ、違う、違うの。ごめんなさい、ありがとう。じゃあね」
逃げるように走り出して転ぶ。雨音の向こうに聞こえた呻きが痛々しい。
賀渡。何度も耳にした、グループのリーダーの名前。いつもふんぞり返った傲慢な巻き髪は、絶対に忘れない。
「やっぱり、虐められてるんだ」
鋭い言葉に耳を疑う。少女の背中が肯定するように大きく揺れた。
虐められている? この人が? それなら佑は、この人の引き換えにされて……?
隣の佑が、差していた折り畳み傘を陽気にくるりと回すのが見えた。
「そう。なら、わたしが変わりになりましょう。あなた、明日わたしが気に入らないことをしたと彼女にいえばいい。偽善者だとでも悪口をいっていたでも、なんでも」
「そんなッできないよ、そんなの」
振り返った少女の顔は、純粋に佑を遠ざけようとしていた。少しも身代わりなんて考えていなかった。
だけど佑は心から不思議そうに首を傾げる。
「どうして?」
「だ、だって……白河さんは、何にも悪くないから……」
「わかった。なら、悪いことをすればいいのね」
その答えを少女は聞き返す。瞬きする間に佑は近付き、傘で頭を殴りつけた。
「やッやめてッ白河さん、痛いよッ」
「当たり前よ、痛いようにやっているの」
そう言って叩き続ける。少女は頭をかばい、その手足は赤く腫れていく。雨とは違う滴を零しながら、やめてと繰り返す声が吐息に変わる。
そこまで殴打し続けた手をようやく止めて、佑は安堵の息を吐く。
「これで、明日からあなたは幸せね」
雨音がますます激しくなった――。




