1.限りなく黒に近い灰色
あらすじ
どうして、理解できなかったのだろう。 確かにあの時、家族だったはずなのに。 前触れも法則もなく現れる幼子。彼らは、出現した場所にいた相手の一人を『親』とし、非常に強い影響を受ける。人格が完成する頃、己の性質を反映した異能をひとつだけ発現する、不思議な存在。 彼らは突如天から降りてきたように現れるため『天使』と呼ばれていた。 いじめによる事故で『親』が死亡した少年。親はいじめグループを許す内容の遺書を残す。異能が原因で『親』が死亡したニート青年。親は幸せに死んだ。 『親』であった人間が理解できない彼らは、鬱屈した思いを抱きながら前へ進もうとする。進むとはなんなのかすら、わからないまま。
1と①で視点が変わります。
原作者:室木柴
演出:絃羽
暗い暗い闇から抜け出すため、僕は瞼を持ち上げた。
催眠と覚醒の間で視界に捉えたのは、見慣れた天井と僕の顔を覗き込む幼い少女の瞳。
――あぁ、またか。
光りの鈍いその瞳は、突然現れた子供――“ぼく”を見ても一度たりとも揺れない。その唇も、白い頬も、何の感情も伝えない。
それは今思えば子供らしくはなかったし、言ってしまえば人間らしくもなかった。
――ゆ、う。佑。
発した言葉は声にはならず、ただ脳内を漂うだけ。もう何度繰り返しただろう。もう届かないと知りながらそれでも、今だけの気休めでいいから、応えて欲しくてまた今日も呼びかけた。
彼女の姿よりまだ幼く、正真正銘生まれたばかりの“ぼく”の口は、どんなに念じても動いてくれない。当たり前だ。この時の“ぼく”はまだ何も知らないのだから。
「あなたは」
耳馴染みの良い声が降ってくる。端的に尋ねられても答えることができない。自分が何者なのかさえはっきりとは分からず、その質問の答え方もまだ誰にも教えられていなかった。“ぼく”は寝転んだまま、ただ彼女の瞳を見つめ返した。
そう、と頷いて彼女は上体を起こす。立ち上がった時、床に付いていた掌が赤くなっているのが見えた。
「待ってて、お父さん呼んでくる」
お父さん。瞬時に一人の男性の顔が頭に浮かぶ。佑のお父さん――僕の、お父さん。それから、お母さんも。悲しみに打たれたその表情と項垂れた背中を思い返して喉が鳴る。
「きみは、おかあさん……?」
背を向け歩き出した彼女に、今や分かり切ったことを“ぼく”は尋ねる。今日の声は少しだけ強く響いた。
――佑は、佑だけが僕の“親”。僕を最初に見つけてくれた、たった一人の“親”だ。
彼女が“ぼく”の声に反応して振り返る。その顔は驚きと戸惑いと、他の何かを混ぜ合わせたような表情をしていた。一回り大きく開かれた瞳、何か言いたげに震える唇、ぴくりと痙攣した頬。この瞬間が僕が知り得る最初で最後の、彼女の人間らしい反応だった。
「あなたがそう呼びたいなら、呼んでもいいよ」
少しの間の後、一度は俯いた視線を上げて“ぼく”を見つめた彼女は、いつの間にか高校生の姿で言った。
全ての出来事は嘘だと信じてしまえそうなほど、慈しみに富んだ微笑みで――――。
ジリリリリ、とけたたましい音が耳に飛び込んでくる。毎朝の恒例行事に手探りで歯止めをかけると、反動で落ちた目覚まし時計が床でチンと間抜けに鳴る。ベッドから立ち上がってそれを見下ろすと何だか胸が苦しくて、急いで拾い上げた。
最近、ほぼ毎晩あの夢を見る。僕と佑が出会った日の夢。僕が佑を“親”とし、佑が僕の“親”になることを承諾したあの時のこと。だけど少しだけ都合良く捻じ曲げられた夢。
もう十年も前のことなのに今になって夢に見るのは、もう佑が居ないからだ。話すことも触れることも、目と目を合わすことすら叶わなくなったからだ。こうして夢で幼い彼女に会うことで、微笑む彼女に会うことで心の中の佑の存在を補っている。
そのくせ、目覚めの悪さは尋常じゃない。
真夏日を叩きだす六月だというのに今朝はやたらに肌寒い。脱いだパジャマに体温を奪われて、急いで近くのシャツに袖を通した。ふと頬を掠めた袖に何故だか染みができる。汗だろうか、すぐ乾くだろう。
ボタンを嵌めながら考えるのはいつだって、佑のことだ。
彼女の死はひどく呆気なかった。学校の階段で足を滑らせて、そのまま。
事故死だと言われている。佑自身が遺した遺書にさえそう書かれていた。
遺書の文面は一度見ただけなのに空で言えるくらい鮮明に頭に焼き付いている。その文字はいつも通りに綺麗過ぎて、そこに写し取られた心も綺麗過ぎて、ダイレクトに脳内に刺さったから。
『私が死ぬとすれば、それは事故です。事故でしょうが、その原因が私にない場合もあるでしょう。もし、そうならば、その人達の罪を赦さず、同時に、彼女達の心は許してください。罪を憎んで、人を憎まずといいます。難しいかもしれませんが、それを実践してください。
どう言葉にすべきかとても悩んだのですが、私は特に彼女達を恨んでいるわけではないのです。
確かに頬を叩かれる日もありました。いわれのないことで睨まれたりするのに、痛みを感じなかったかといえば嘘になります。
けれど、人間誰しも欠点があります。
同じように、美点も。
だから彼女達を許し、信じてあげてください。誰でも過ちを犯すのですから。
これを読むあなたは、私の意見に賛同してくれないかもしれません。あるいは、許すにしても、長い長い時間が必要である場合も。
この世を去る私より、残された人たちの方が、よほど辛い日々を送ることになるかもしれません。
それでも、どうかお願いします。
責苦は、その人の善性のためにのみ与えてください。
相手の人生に責任をとれる人だけが怒ってください。
傷づけることも優しくすることも、すべては同じ原因から生じるのです。人が、自分を含む「人」という同胞を愛しすぎるからこそ。だから、こういったことも時には起こりましょう。
無責任にお任せすること、大変申し訳なく思います』
賛同なんてできる訳がなかった。どうして佑が死んだことに納得ができただろう。
佑はいじめを受けていた。学校の大多数の生徒がそのことを知っている。佑は家でそんな素振りは見せなかったけれど、僕が弟として同じ高校に入学すると、現実をありありと見せつけられた。
日常的に繰り返されるそれらの行為は、吐き気がするようなえげつないものばかり。しかし誰もが見て見ぬ振りを決め込んでいた。そのことにも胸焼けがした。
遺書さえなければ、その願いすらなければ。――この一ヶ月以上、何度となく考えたことだ。
いじめの事実を知ってからのたった数週間でも、加害者の特定と証拠集めには十分すぎるほどだった。そもそも隠されていなかったから。だから気付かなかったのは噂話をする相手の居ない生徒か、呆れるほど鈍い教師達くらいなものだ。白々しく涙する姿は無能さを自ら披露しているみたいで馬鹿らしかった。
朝礼で読み上げられたその遺書の文面を聞いて多くの人間が胸を打たれた。その慈悲深い思いに佑を称えた。
けれど加害者達はどうだろう。許されようとしている今、諸手を挙げて喜べるだろうか。
――人が善すぎて気持ち悪い。
いじめを始めた時と同じようにそう思っているのではないだろうか。偽善的なつくりものなのだと、死んでも尚、佑はその心の中で傷付けられてはいないだろうか。
怒ってくれれば良かったのに。自分のために、なりふり構わず。そこまで佑は“佑”でなくて良かったのに。
法的にも罰することができるほどの証拠を抱えて、僕は立ち止まっているしかなかった。遺書は守られなくてはいけない。それが加害者を許し信じる、という重い枷のような願いだったとしても。
履きかけたズボンに足を取られてよろめく。床についた膝が痛い。考え事をしながら別のことをするのはどうしてだか苦手だ。
僕は佑ほど器用にはなれなかった。
白河佑、という人間を本当の意味で理解できる者がこの世界に居るのだろうか。
僕がどうやっても彼女を真意を測れないでいるのは、僕が人間ではないからだろうか。
僕は人間ではない。僕は“天使”だ。人間と同じ体を持ち、共存する天使。
けれど人間がすぐに思い浮かべる、羽の生えた神の使いではない。母体から生まれず、なのに幼児の姿をしてまるで天から降ってきたかのように突然現れることから、僕達はそう呼ばれている。
そうだ、呼ばれているだけ。人間を“人間”と称するように、人間ではない僕達は“天使”と、恐らく何かの望みをかけて人間が名付けただけ。
確かに望みをかける意味はあるのかもしれない。天使は最初に見つけた者を親とし、親とした人間の人格を反映して、成長と共に異能を身に付ける。異能――人間が決して持つことのできない特殊な力だ。その力を用いて彼等は、この息苦しい世界を変えたいと願っていたのかもしれない。
そして佑が僕に付けてくれた名前、鳩。平和の象徴であるそれを名前に決めた佑もまた、何かを願っていたのかもしれない。けれど。
一通りの仕事を終えた手を見下ろす。もう随分と前に、“親”である佑よりも大きくなった手。長くなった指、血管の浮き出た手の甲。手以外だって、身長も肩幅も、立派に十五歳と言える身体に成長した筈なのに、ひどく頼りない。
人間と天使と、何がどれほど違うのだろう。佑の心に触れられるまでには何がどれほど足りないのだろう。
拳を握る。白く染まってく手の甲に微かに青い筋が浮かぶ。
この身体に佑の血が流れていたなら、何かが違ったのだろうか。そこまで考えて力を落とす。
考えても事実は変わらない。僕が天使であることも、守れる力がなかったことも、佑の心が見えないのも、佑が死んだことも。何もかも変わりはしないから、僕は変わらない今を生きるしかない。
佑が居ないからといって、自分まで消える意思はなかった。寧ろ生きて佑の真意を知ることが、僕の最重要事項になっていた。
そのための一歩を、これから踏み出すところだ。――約束の日は、もう今日だ。
手提げ鞄を掴んで部屋を出る。無意識に隣の部屋のドアに視線がいく。そのドアを開けて佑が出てくるのを、少しだけ待ってみる。
「……いってきます」
閉ざされたままのドアに背を向けて階段を降りる。小さな呟きは足音に消え、今日も佑の居ない一日が始まる。
そして今日から、見えない佑の背を追う日々が始まる。
土曜の公園というのはいかにも和やかな空気が漂っていて、僕が居ることでその空気を淀ませているようにさえ思えた。辺りを駆け回る子供達も、ベンチに腰掛け話に花を咲かせる母親達も、僕のことなんか気にも留めていないけれど、心の中で詫びを入れておく。
思えば公園には縁がなかったな。佑がまだ小学生だった間も公園で一緒に遊んだ記憶はない。そもそも佑が走り回る姿を思い浮かべるのでさえ苦戦するから、どうしようもない。
握っていた食パンをまたちぎって放り投げる。物欲しそうな目を向けていた鳩の群れがいそいそと動き出して、控えめに奪い合う。
いやに平和な光景で、思わず目を瞑った。
那谷木町というこの町の存在は勿論知っていた。家がある夕川町から自転車で四十分もあれば着ける距離だ。でもこんなことがなければ来なかっただろう。
佑の口からこの町の名前を聞いたことはない。けれど確実に何度かは足を運んでいる筈だ。
過去の記憶を辿れば友達と遊びに行くと言って出掛けることはあった。その時はそんなものだろうと思っていたけれど、いじめの事実を知った今では身近にそんな相手が居たとは思えない。
だから。『虎斑 凛』という人物に興味がある。たった一人、家族以外で佑の一番近くに居ただろう、文通相手。
手提げ鞄から手紙を取り出す。白地に黄色い花の描かれた、女性らしい封筒。
遺書と共に見つかったそれはひとつではなかった。数からしてあまり長い付き合いではなさそうだけれど、親しいと言えるくらいには回数を重ねているらしかった。この一番新しいもの以外は中を見るのを控えたからどんなやり取りをしていたのかは分からない。でも会う約束をしていたことから見るに、明るく有意義な関係を築いていたようだ。
白河 佑様、と書いたその筆跡は幾らか知性が垣間見える。
どんな人だろう。佑のことを知らせる名目でここに来たけれど、無断で手紙を見たことや何も連絡なしに来てしまったことで警戒されてしまわないか、それが一番心配だった。できることならこの人が知っている佑を――僕の知らない佑を――教えてほしいと思っているから。
約束の時間は午後二時。腕時計に視線を落とすと後十五分まで迫っていた。ここに着いてから既に数時間が経ち、太陽にじりじりと炙られた腕が赤くなっている。小さな痛みに腕を振ると、その向こうで僕の足の甲に乗った一羽の鳩がパンはまだかと強請っている。
『虎斑』はトラフと読むらしい。母は知らなかったけれど、父がそう教えてくれた。
両親はどう思うだろう、この人に会おうとしていることを知ったら。娘の文通相手とはいえ正体が見えない。あんな別れ方をして神経が過敏にならない訳がないだろう。もしも話していたら泣いて縋られたかもしれない。行くんじゃない、と初めて怒鳴られたかもしれない。
引越しの打診は近いだろう。佑を傷付けた人間が居る町で暮らすのは二人にとって酷な筈だ。その姿を見ているのは痛い。あの夢を見た後と同じくらい、息苦しい。
両親は優しい。突然現れて佑を親とした僕を迎え入れて、共に育ててくれた。実の娘を失っても尚、僕を息子として扱ってくれる。だから二人の心をこれ以上煩わせたくはないと思う。
でも。その思い以上に佑を知りたいと思う。知らなきゃいけない気がしている。
僕のルーツだからとか親だからとか、そういうのでもなくて。きっとこれは、僕自身を納得させるため。
足元を取り囲む鳩を見つめる。掲げたパンに瞳が煌く。
「君達は、気楽でいいね」
鳩。僕も君達みたいに純真でいられたなら良かったのに。そうしたら、もっと――――。
「君、失礼するが佑の家族か誰かかな?」
約束の五分前、気持ちの落ち始めた僕の前にその人は唐突に現れた。




