2.放課後の魔法
放課後までの時間は長く、また短かった。決めたからには早く行きたくて、だけど足が竦むほど怖くて。
そんな僕の様子は異様だったと思う。クラスの皆が心配して何があったのかと聞いてくれたけど答える訳にはいかなくて、精一杯笑ってお礼だけを言って回った。
最後のチャイムを聞いて、家へ部活へと動き出した友人達に倣って僕も教室を出た。鞄を持つ手が少し震えて、金具がカチリと音を立てる。伸びる廊下の先がとてつもなく長く遠く見えた。
彼のクラス、三年三組までひたすら進む。俯いて爪先だけを見ていたから、すれ違う人の学年も分からない。だけど確かにそのクラスに近付いていた。
ふと足を止める。この角を曲がれば彼に会える。初めてその視界に入れてもらえるんだ。
喜びの隙間で、何のアポイントも取っていないことに気付く。忙しいあの人のことだ、突然押し掛けても邪魔になるだけかもしれない。――そんなのは嫌だ。
そう思うのに、引き返したくない気持ちもまた抑えられない。ただ一目会うだけでいい。名前を覚えてもらえたなら当分幸せで居られる。だから……だから。
ガラリと音を立てて開いた扉に、その瞳が真っ直ぐ向けられる。
思わず萎縮してしまいそうな鋭い視線。けれど決して咎めるような険しさはない。安堵と緊張に短い息を吐く。
「どうされました?」
彼の傍らに立つ女子生徒が声を掛けてくれる。彼女は確か生徒会副会長で彼の補佐を務めている人だ。ひとつしか違わない筈なのに僕の目から二人は大人に見えて、そのあまりに落ち着いた雰囲気に自然と歯に力が入る。
駄目だ、これくらいで気弱になっちゃいけない。知りたいからここまで来たんだ。
「突然ごめんなさい。二年のアップル=ガブリエルです。……今お時間良いですか?」
できるだけ良い印象を持ってもらえるように、控えめに、けれどはっきりと言葉を出す。舌が震えなかったのが奇跡みたいだ。
副会長の彼女は僕の目が彼だけに向いていることに気付いたのか、一歩引いて彼の後ろでファイルの整理を始めた。国籍の違いを見せつけられるような空気の読み方も今は感謝するしかない。
彼はというと、あぁ、と納得したような声を漏らして口角を上げる。
「お前がアップル=ガブリエルか……『中等部のアイドル』って噂はよく聞いている」
アイドルだなんて目映い称号も大した価値はない。ただそんな噂の上であっても彼の記憶に残り、その口から自分の名前を聞けただけでこんなにも胸が高鳴る。その思いのまま笑みを返した。
「それで、俺に何か用でもあるのか?」
「はい……あの、もし時間が空いているのであれば、僕とお話していただけませんか?」
こんな単純な誘いをするだけなのに、全力疾走したみたいに心臓が鳴る。片眉を上げる仕草でさえ拒絶の反応に思えてしまう。縋るように瞬きをする。
……そして、彼が僕に背を向けて副会長に目配せをした。あまりに自然に、心を通わすように。
気が付けば目の前に彼が居て、行こう、と促すから事態を理解する前に頷くことしかできなかった。
「えっと、剛力先輩って呼ばれるのと剛力さんって言われるの、どっちがいいですか」
「お前が呼びたいように呼べばいいさ。なんなら、呼び捨てでもタメ口で話してくれてもいい。その方がお前も話しやすいだろ」
人気の無くなった廊下を並んで歩く。靴底のゴムが軋む音が反響して駆け回る。こんな日が来るなんて、本当に夢みたいだ。
どう呼んでいいのかも分からなくて問うと、横目でちらりと僕を見て当たり前のように言う。
「それはそうですけど、先輩に対して失礼じゃないですか?」
「そんな事どうだっていいじゃねぇか。俺がいいって言うんだから、お前が気にする事なんか何もないと思うがな……」
どうしてそうなんだろう。誘いに応じてくれたこともそう。ぶっきらぼうなくせに気遣いが温かい。周りの誰とも違う、常識外れな人。
いつだって彼はまるでそれが与えられた使命みたいに、迷いなく行動する。嫌々でもなく、打算的でもなく。真っ直ぐ前だけを見ているこの人は、やっぱりヒーローだ。
遅れ出した足を速め、その横顔を見上げる。――ねぇ、君を僕に教えて。
「剛力は、嫌いな食べ物とかある?」
「嫌いな食べ物か……基本的に何でも食べるから、好き嫌いはあまりないが敢えてあげるとするなら、甘口カレーライスだな」
「甘口カレー!?」
思わぬ返答に上げた声が高い音で響く。ぴくりと上がった片眉に、癖なんだなと頭の隅で思う。
日本人はカレーが好きだと聞いていたのに……。クラスの友人達だって給食でカレーが出てきた日はあんなに喜んでいた。だから皆当然好きなんだろうって、そう思っていたのに。日本人のイメージが彼によって崩されていく。
――そうして「彼」というジャンルが新たに構築されていくのが妙に心地良い。
けれど衝撃は意外に大きく、彼の顔を見返すしかできなくなっていた僕に彼が口を開く。
「お前は、何が好物なんだ」
僕のことを知ろうとしてくれている?
それが彼の優しさから来る社交辞令的なものだとしても、それでもいい。繋がる何かがあるのなら。
「僕が好きなのはね、アップルパイだよ」
「アップルパイか……確かそれはアメリカの伝統的なデザートだったな。よく作ってくれるのか」
「僕のお母さんとお父さんはケーキ屋さんだから、よくアップルパイを焼いてくれるの」
「そうか……俺も食べてみたいもんだな」
そう言う彼に笑顔が零れる。今朝お母さんが可愛いと背を押してくれた時みたいに、胸に温かいものが広がった。両親のアップルパイをいつか一緒に食べられたらなんて、欲張りかな。
ひとつ進めばまた先が欲しくなる。僕の時間に彼が居てほしくて、彼の時間に僕がありたくて。一分一秒のその先に手を伸ばしたくなる。すぐ傍の、僅か数センチ先の制服の裾さえ取れないくせに、どうしようもなく未来を求めてしまう。
動かせない指先を、隔てる壁が見えないことを言い訳にして。
次の言葉を探す内、緩やかな沈黙が流れる。居心地はそんなに悪くない。
いつの間にか中庭まで出て来ていた。バラやひまわり、チューリップやパンジーといった様々な種類の花が咲き誇るこの中庭は、この学校の中できっと最も美しく優しい時間が流れている。
「この中庭素敵だね。いったい誰が設計したのかな」
彼は僕の問い掛けに、さぁな、と答えて備え付けのベンチにどかりと座る。同時に吹いた風がふわりと肌を撫でて、花びらが舞う。その景色に視線を向けて目を細めた彼が、
「ただひとつ言えるのは、この中庭を設計したのは匿名の誰かということだけさ」
と言って微笑む。誰に向けられるでもない、ただ僕だけが見る彼の微笑み。その表情があまりに穏やかで、まるで自身を褒められたみたいに輝いていたから、暫くその横顔をそっと眺めていた。
「そろそろ、下校時刻だ。今日は、お前と話せて楽しかったよ」
「僕も、凄く楽しかった――」
不意に彼が立ち上がり凛々しく笑ってみせるから、僕も彼を見上げてありったけの笑顔を向ける。視線がぶつかって、絡んで、胸の奥がちりりと軋む。
堪えた涙には気付かないでほしい。男らしくないって思われたくない。可愛いの言葉に自信を付けた僕だけど、今は彼に認めてもらいたいと強く願う。僕は男の子だから。
確信した想いからは逃げられない。せめてその心に長く居られることを願って、僕は思い切り笑った。
「じゃあアップル、また機会があれば話そう。あばよ」
その手が伸びて僕の頭にぽんと置かれる。優しい感触に一度目を瞑ると涙が落ちたのが分かった。
慌てて拭いながら目を開けると、もう彼はそこに居なかった。来た方を振り返ると遠ざかっていく背中を見つける。夕日に照らされたその姿が眩しくて、言えなかったありがとうを小さく呟いた。
魔法は、十二時になったらとける。鮮やかに、残酷に。
息が詰まりそうになる。夢みたいな時間は限りあって、一人の帰り道の寂しさを際立たせる。心に残った一時の思い出を頭の中で再生すれば、愛しさと同時に遠いこの距離に苦しくなる。
友人、とも呼べない位置がこんなにも痛いなんて思わなかった。近付いた分、踏み込めない一歩の大きさに気付く。
――こんなことなら会わなければ良かった。断ってくれたら良かったのに。
彼の優しさを否定してしまう自分が嫌だ。自分勝手で弱くて……彼を想う資格なんてきっとないんだ。
溢れる涙をそのままにして、いつもよりゆっくり家を目指した。