1.近付きたくて
あらすじ
天使のように美しい容姿と心を持つ少年、アップル=ガブリエルは同じ学園に通うカリスマ的生徒会長剛力徹に恋をしてしまう。 果たして彼の一途な思いは彼に届くのであろうか。
原作者:モンブラン博士
演出:絃羽
「可愛いアップル、今日も気を付けて行ってくるのよ」
陽の注ぐ玄関で、曲がったネクタイを直してくれる。制服を軽く叩いて満足気に唇を引くと、お母さんはそう言った。
毎日の決まり文句なのに、子供へのただの挨拶に過ぎないそのフレーズを、今日は聞き流すことができない。どうしようもない不安に駆られて思わず口走る。
「僕、可愛い……?」
初めてした問い掛けにお母さんは少し驚いたように目をしばたかせていたけれど、いつも以上に優しい顔で頷いてくれた。両手で僕の頬を掬うと瞳を覗き込んで言う。
「当たり前じゃない。このふわふわのブロンドの髪も、宝石みたいな水色の瞳も、粉雪みたいに白くてさらさらの肌も、誰にも負けないくらい可愛いわ。
ほら、手も見せて。細くて長い指だって」
「あぁ、も、もういいよ。ありがとう」
髪に、瞼に、頬に触れながら言葉を降らし次に手を取られたところで、大袈裟な褒め言葉に恥ずかしくなって急いで手を引いた。お母さんは手持ち無沙汰になった手を宙に浮かせたまま、そう? と何でもないような顔をする。そしてもう一度その手を僕の頬に伸ばし柔く撫でると、
「可愛いわ」
と念を押す。やっぱり恥ずかしいけれど、胸の辺りがじわりと温かくなった。
お母さんには見透かされているような気がする。僕が今抱えているものも、その気持ちの大きさも。それでも何一つ詮索しないで、ただ背中を押す言葉だけをくれて送り出してくれる。
「……ありがとう。それじゃ、いってきます」
「いってらっしゃい」
緩く手を振り愛情深い笑みで見送ってくれるその姿に、感謝と決意の笑顔を返して後ろ手に扉を閉じる。
扉に身体を預けて、ふぅ、と長い息を吐く。
「よし!」
気合いを入れて、学校に向かって歩き出した。
細い道を行き交う車、前を歩く小学生の列、バスから吐き出された僕と同じ制服を着た学生達。
ここにやって来た頃には驚きの連続だったけれど、今ではもう見慣れた光景が広がっている。僕もすっかりその内の一部だ。
「あら、アップル君。おはよう」
「あ、おはようございます」
「気を付けてねー」
「はい、いってきます」
生まれ育ったアメリカから日本へ移住して丸一年が経つ。両親の経営するケーキ店、ガブリエルのケーキ屋の店舗拡大がそのきっかけだった。日本進出、ってすごいことなのか僕にはよく分からなくて、期待よりも知らない国に行くことの不安の方が大きかった。
だけど今では毎日とても楽しい。近所の人達はとても優しくしてくれるし、店に来てくれる常連さん達との会話も面白い。だけど一番はやっぱり、学校、かな。
僕が通う私立北徒十字星学園は小中高一貫校。中等部の一年、しかも五月に転校してくる人なんて少ないらしくて、転校してから暫くは物珍しさからか他のクラスの人達が僕に会いに来てくれた。緊張したけど歓迎してもらえているのが分かって嬉しかったな。
早く馴染みたくて頑張って日本語の勉強をして自分から話し掛けられるようになった時、もっともっと楽しくなった。皆の一員になれたんだって思えて、先のことにわくわくした。
二年生になった今でも、まだそのわくわくは続いている。ひとつひとつ新しいことを知る度、更に皆に近付けるような、そんな気がして。
……だけどその分、悲しいこともある。嬉しくて、でも悲しいこと。
学校が見えてきた。最近いつもここで、少しだけ緊張する。――あの人が居るかも、って思うから。
正門に一歩ずつ近付く毎に生徒達が増えていく。僕を追い越して、挨拶を落として。僕は人の波に溺れそうになりながら挨拶を返す。おはよう、って言う度に心音が加速していく気がする。もう少しだ。
押されるように校門をくぐる。もしかしたらどこかに、そう思って視線を走らせる。
居ない、居ない。あっちにも……居ない。
今日は見られなかった。自然と肩も視線も下がってしまう。大丈夫? と声を掛けてくれた誰かに明らかな愛想笑いしか返せない。
「おはよう、お嬢さん」
沈みかけた感情を一気に浮き上がらせてくれる、声。人波の雑踏の中でも聞き分けられるその凛とした声に、顔を上げる。少し先で女子生徒と挨拶を交わすその人の姿が、はっきりと見えた。
「剛力徹、先輩……」
誰にも聞こえないような声でその人の名前を呼んでみる。どうしようもなく愛しくて、恋しくて、けれど簡単には手を伸ばせない人。僕にはまだ向けられないその微笑みに、胸がちくりと痛む。
嬉しくて、悲しい。昨日のこと、そしてこれまでのことを思い出す。
顔を赤く染めたひとつ下の女の子が僕に言ってくれた、好きって言葉。彼女以外にも今までそう言ってくれた人達が居る。皆、僕に真摯に想いを伝えてくれるのに、僕は一度だってそれに応えることができないんだ。
あの人への想いが、どうしたって揺るがないから。
だから、愛してくれることがこんなにも嬉しいのに、ひどく悲しい。何も返せない自分と、そして彼女達のように前に進む決心がつかない自分が。
足を進めながら視線はまだその人に向けたまま。一人になり晴れた空を見上げる姿を、じっと見つめた。
眩しさに目を細めた、狼みたいな凛々しく雄々しい顔立ち。たてがみより硬そうな髪が風にさわさわと揺れる。制服の上からでも分かる鍛えられた身体が一際大きく見えた。
中等部三年、ボクシング部主将、そして生徒会長という肩書きさえ持った人。高嶺の花、と呼ぶには逞しすぎるけれど、僕らの距離を表すならそれが一番しっくりくる。
くるりと向きを変えて颯爽と歩き出した背に、声を掛ける選択肢は僕にはない。見送って、少し寂しくなる。ただそれだけ。
近付けないその距離を思いながら、追うような気持ちで校舎に足を踏み入れた。
どうして彼を好きになってしまったんだろう。
浮かぶ最初の問いは考えるまでもなく簡単。
どちらかと言えば無愛想で一人を好むらしい彼は、それでも誰にでも優しい。女の子に対してはお嬢さんと呼ぶほどに紳士的だ。そして知性があって行動的で、信念を曲げない真っ直ぐな人。男の中の男ってきっとこういう人のことを言うんだと思う。
初めはただの憧れだった。冷静な判断と的確な指示、時に大胆な発想で中等部を纏める姿に、目指すものがあった。あんな風に格好良い男になりたい、って。
それが気付けば、後戻りできないくらい恋に変わっていた。いつから、なんて分からない。でも勘違いや思い込みじゃない。それが確かに恋だと、本能で分かった。
だからこの問いの答えは、彼が彼であったから。それしかない。
どうして僕達は男の子なんだろう。
これは考えれば考えるほど空しくなる、不毛な問い。
女の子になりたい訳じゃない。でも彼が女の子に優しく手を差し伸べる度に、どうしてそれが僕じゃないだろうって思ってしまう。醜い嫉妬が顔を出す。
かと言って、彼が女の子だったなら恋はしなかった。彼が彼であることが重要なんだ。
越えられない性別の壁は、厚い。けれどそれで忘れてしまえるほどの軽い気持ちでもない。
僕を好きだと言ってくれた人の中には男の子も居た。冗談で言っているのではないことは、その目を見れば明らかだった。
どうすればそんな勇気を出せるのかな。自分も相手も男の子同士で、その想いを素直に言葉にする勇気。躊躇いや葛藤も飛び越えて、好きって伝える勇気。
まだこの感情が不安定な気がしているから、どこにも行けないままなのかな。
もっとちゃんと彼を知れば、踏み出せるのかな。
少しだけ欲張りに、頑張ってみてもいいのかな――――。