4-6 聖女と邪神と仲間と敵と(前編)
◆◇
瓦礫の中から姿を現す邪悪の権化、暗黒神アスモダイ。
猛牛のような顔つき、山羊のような全身の毛、人の数倍はあろう太い腕。
その蝙蝠の羽の生えた巨大な牛人間は、大地を揺るがすほどの雄叫びを上げた。
あまりの轟音に目眩がする。
「我が眠りを妨げるでない。心地好い瘴気を味わっていると言うのに騒がしい。
しかし、これほどの濃い瘴気が吸えるとは、地上も随分変わったものだな。
魔が蔓延っておるようだ。神も世界を見放したか。愉快なことだ」
邪神はあたりに漂う暗黒の気を吸い込み鼻息を鳴らす。
ランデールが塔に溜め込んでおいた魔力だ。
本人は瓦礫に埋もれてしまったが邪神の役に立てば本望だろう。
「何人も我が前に立ち塞がるを許さず。等しくかしずけ!」
邪神が腕を大きく広げて腐臭を撒き散らした。
城の中庭に植えられた樹木が瘴気に触れて枯れ色に染まっていく。
城壁で見張りに立っていたであろう帝国兵のうめき声が聞こえた。
ただの毒じゃない。
私たちは大きく距離を取って身構えた。
「簡単には近寄らせてもくれないみたいね」
「近づけたとしても、あの太い腕に捕まったら振り切れる自信ないな。
一撃離脱を繰り返すしかないよね。隠れる場所があるうちはいいけど……」
「それにも問題があるわ。硬さはランデール以上、しぶとさは黒鎧以上よ。
帝都に暗黒の気が渦巻いている限り、あいつはきっと再生し続けるわ」
邪神が追ってくる気配はない。
周囲に毒を撒き散らした後は身動きひとつ取っていない。
まだ力を溜め込もうというのか。
ここまでするとは思っていなかった。
絶望的な気分になってくる。
こんな面倒な相手を前にして二人で戦わなくちゃいけない。
「あいつを帝都から引き離せないかしら?」
城壁に身を隠して戦略を考える。
どうすれば勝てる?
「大きく吹き飛ばしてもすぐに戻って来ちゃうんじゃないかな。
力を吸い尽くすまで帝都を離れてくれないかもだね」
気を引こうにも邪神を動かすだけの手段がない。
このまま一撃離脱を繰り返していたのでは城内の兵士が力を吸い尽くされる。
下手をすれば女帝の命にも関わるかもしれない。
帝国兵には近寄られても困るし、逃げ出されても困る。
私は何を浮ついていたいたんだ。
二人でも簡単に倒せるなどと見通しが甘いにも程がある。
「もうすぐ日が昇る。なんとか夜明けまでこの距離で戦ってしのごう!」
「日が昇ったからといって弱まるような相手じゃないわ……」
「大丈夫だよセイカ。わたしは勇者リラだよ?
セイカがくれた勇者の加護を忘れちゃったの?」
リラは私の黒く重たい髪を撫でながら全然なんでもないことのように笑った。
いつだって暗く沈みそうになる思考にリラが光を与えてくれる。
「遠く離れていても仲間と話ができる。わたしが目覚めた才能のひとつだよ。
勇者の勘が危ないかもって囁いてたから、来る前にみんなを呼んでおいたんだ」
私の気持ちが先走っていたのをリラは察知していてくれた。
その対策まできっちり練って実行している。
やばい。私こういうのに弱い。
まだ夜も明けていないのに、リラのゆるやかになびく髪が白く輝いて見えた。
「飛竜の数に限りがあるから、すぐに来られるのは数人だけどね」
たった数人。
それが何より心強かった。
仲間の顔が脳裏に浮かぶ。
フィル新王に白騎士システィナ。ロビーナ殿下に聖騎士ディア。
聖母ユークリアに魔獣騎士ガラハド。マール将軍に法皇ユノ。
そして、賢者チハチル。
皆が来てくれれば戦い方が変わってくる。
瘴気が帝都に溢れるのを防げるかもしれない。
光が見えてきた。
その光に影を落そうとする輩が空から降ってくる。
「おぉお、感じるぞ。これが暗黒神の力か。なんと心地好い波動だ。
身体に力が漲って来るぞ。もっと、もっとだ。この俺様に暗黒の力を与えろ!」
黒い鱗の飛竜に跨った漆黒の鎧を着た男。
こんなときに一番会いたくない手合いの男が顔をだした。
「貴様らもまだ生きていたのか。しぶといやつめ。
だがいいだろう。ここで俺様が、今度こそ地獄に送ってやる。
ブラックドラゴンを操れるようになった俺様の暗黒力をとくと味わえ!」
黒い鎧の男は瘴気の中に降り立って、こちらを挑発し始めた。
これまでの黒鎧と違う点がひとつ。この男は兜をつけていない。
暗黒騎士ガトー本人で間違いないだろう。
「あれって暗黒騎士の中の人だよね?」
「今までは中に何もなかったから、少し言い方が違うと思うわ」
中の人ではないからと言っても。黒鎧の外の人と言うのも何かおかしい。
黒鎧を操っていたから「操者」とでも言うのだろうか。
何にせよ今は相手をしている場合じゃない。
速攻あるのみ。
「何をごちゃごちゃと言ってやがる。俺様は無視されるのが大嫌いなんだ!
もっと俺様を見ろ。もう簡単にはやられんぞ。
耐久力の高いドラゴンに暗黒による再生力。これで貴様らの攻撃も防げる!
さあ、ブラックドラゴンよ。勇者どもを蹴散らせ!」
飛竜を操れるようになった程度で優位に立ったと思ってるなんて……。
魔獣に対抗するには同じ魔獣を当てるか囲んで叩くしかない。
それが常識だ。
神聖力は暗黒に極めて強いが、生命力の強い魔獣を苦手としているのも事実。
そんなことは十分に自覚している。
だから私たち解放軍は魔獣に対する切り札を真っ先に手に入れていた。
「リラ、お願い!」
「任せといて! 星の力宿りし運命の標よ、大いなる力を解き放て。
《無計画な放浪者の歩み》」
胸元から取り出すのはロビーナ殿下の作り出した一枚の護符。
勇者リラが力を込めることで発動する最上級の魔術。
護符から生まれた強烈な風の力が黒い飛竜を押し退けて大地に縛り付ける。
「何をした貴様らぁあ! また卑怯な術を使いやがって。クソ忌々しい!
いい加減に俺様に負けてすり潰されろ。このクソ女どもがッ」
黒光りする大剣を抜き放ち襲い掛かってくる。
荒れた言葉使いに似合わない鋭い太刀筋。
暗黒の力で速度が上がっていたのかもしれない。
最初から自分で戦ったほうが強かったのかもしれない。
真相はわからないが身体強化がなければやられていた。
「邪神の影響が強いみたいだね。油断しちゃダメだよセイカ」
リラが割って入っても暗黒騎士ガトーは粘りを見せた。
実力ではこちらが上回っている。
私は回復に専念するだけでいい。
「この俺様が負けるわけがないッ。もっと力を寄越せぇええ!!」
暗黒の気を吸い上げた肉体が異様に膨れ上がった。
視覚的にわかる脅威が迫ってくる。
今まで以上の膂力で黒剣を振り下ろす。
リラは最小限の力で受け流し反撃を試みる。
メイスが黒鎧を叩きのめすが、ガトーの肉体は暗黒の気で再生し続けていた。
お互い決定打に欠けていた。
「いい加減に倒れろッ。貴様らのような下賤のクズがいつまでも出しゃばるな!」
「退場するのは貴方です。母の仇、討たせていただきます!」
天から声が響いてくる。
見上げればそこに飛竜の影。
声の主は聖母ユークリア。
援軍がついに来たのだ。
「神の御手は地に降り注ぎ、精霊の息吹は森を巡る。
山河の涙で身を清め、人の和を以ってこれを守らん。《太陽の聖域》」
ユークリアは昇り始めた太陽の力を集め、聖なる結界を作り出す。
浄化の力に身体を焼かれ、暗黒騎士は苦痛に叫ぶ。
「小娘がぁ、このクソがぁあ。俺様を、不死身のガトー様を小娘ごときがッ!
ありえんぞ、許せんぞ。こんなことッ、このまま終わらせてたまるかッ!!」
わめくガトーに攻撃が降ってくる。
降り立つ金の鎧と白の鎧の騎士二人。
「マールに……カペラの娘だと!?
貴様らまだ生きてやがったのか。この裏切り者どもがぁあ!」
「聖堂騎士として正しき道を見つめ直した結果です。
道を違えたのはあなたのほうです。帝国の民を、四王国を裏切った!」
「皇子よ、もう剣を納められよ。貴方は進むべき道を誤った。
その先に待つのは暗い暗い闇だけだ。家臣として諌めさせていただく!」
剣を切り結ぶたびにガトーの黒鎧に大きな傷が増えて行く。
「どいつもこいつも俺様の邪魔をしやがって。
消えろ、消えちまえ。貴様らなんぞ俺様の帝国に必要ないんだよォ!!」
深手を負った暗黒騎士に穏やかな声がかけられる。
フィル新王の最後の慈悲。
「貴方は統治者としていい手本になると父も言っていた。それがどうして?
協力する道もあったはずだ。それをなぜ……暗殺など企んだのだ」
「甘いところはそっくりだな。
そんなだからアテネステレス王は死んだのだ!
力なくして強国に勝てるものか!!」
「もう終わりだ。ガトー皇子、いや反逆者ガトー。
貴方は変わりすぎてしまった。アテネステレス新王の名の下に処断する!」
王の名の下に裁かれ、騎士によってその場で刑が執行される。
再生力を奪われたガトーに抗う術はない。
「さぁ殺せッ。俺様は神と一体となるのだ。滅ぼしてやる。
全てだ。この世界の何もかもを滅ぼしてやるッ!!」
首を落とされたガトーの肉体は瞬時に朽ち果てた。
暗黒の気の残り滓も聖域の浄化の力で瞬きする間に消え去った。
暗黒に魅入られたものの末路には虚しさだけが残った。
力を溜め込んでいた暗黒神が再び動き出す。
私たちが近づくと億劫そうにその身体を起こしたのだ。
「おろかなヤツめ。与えた魔力を無駄に散らしおって。
我が野望の邪魔は誰にもさせん。この手で全てを破壊し消滅させてやる。
さあ生者たちよ、我が前にひれ伏せ。死は平等に貴様らを迎え入れるであろう」
最終決戦が始まる。
逃げ出すものはここにはいない。
「神の前に立ち塞がるか。それもまた良い。
では、おのれの非力さを呪うがいいッ! 死ねッ!」




