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雑多小説倉庫

ながぐつをつる

作者: 腹黒ツバメ



 わからない。俺はいったい、どこで道を間違えてしまったんだ。

 地方への急な転勤を断りきれなかったことか。新しい職場近くの物件探しで「美しい湖を一望できるアパート!」という煽り文句に心惹かれたことか。それとも、その湖で釣りができるじゃないかと興奮して愛用の竿を新調したことか。


 なんにせよ、今この瞬間、俺は長靴を釣り上げた。



〈ながぐつをつる〉



「嘘だろ……漫画じゃねえんだぞ」

 引き上げた釣糸の先でもの悲しく揺れる泥まみれの長靴を眺め、俺は呆然と呟いた。

 昼休みにわざわざ冷房の効いた職場を抜け出し、殺人的な炎天下に降りてまで釣りに出向いた結果がこれだ。隣に誰もいなくたって愚痴を吐きたくもなる。

 嫌な予感はしていたんだ。不動産屋では「美しい湖」と吹聴していたここも、実際に訪れてみれば一目でわかるほど水面が濁って、小魚の影すら見えやしない。空き缶やタバコの吸い殻までもがそこら中に落ちている始末だ。

 まあ、そんな惨状を目にして釣りを始めた俺も馬鹿なんだが。

 ――しかし長靴(これ)どうするかな……?

 一度釣り上げておいて再び湖に沈めるのは、なんだか俺が不法投棄をしているみたいで躊躇われる。だが、職場か自宅に持ち帰って処分するのも面倒だ。

 それ以前に、どこか変な場所に針が引っかかっているはずだ、まずそれを外さなくては。正直素手で触りたくないほど汚いが……

 指先でつまんで手元に引き寄せると、強烈な臭いが鼻腔を襲った。

「うわ、くっせ!」

 意図せず声を上げてしまう。慌てて俺は顔を真横にそむけ――


 そこで、木陰からまじまじと俺を見つめる小さな影に気づいた。


 全然人気がないと思っていたので仰天して視線を返すと、その影は小走りで近寄ってきた。

 そうして目の前で立ち止まったのは、俺の腰ほどの背丈もないような幼い女の子だった。

 至近距離で対面しても黙したままの彼女は、子ども特有の不躾な眼差しを浴びせてくる。

 彼女の大きな瞳は興味津々といった様子で俺の手元を――薄汚れた長靴を見つめている。食い入るような、とはこのことだ。

 そして、

「すごいね、おじちゃん!」

 女の子が不意を打つようにそう叫んだ。

「……は?」

 脈絡なく放たれたその素っ頓狂な発言に、俺は言葉を失ってしまった。

 初対面の女児――見たところ五、六歳くらいか――に馴れ馴れしく声をかけられただけでも驚くのに、その上汚いゴミを見て目を輝かせているこの状況、気の利いた台詞なんて出てくるはずもない。

「ちょっとかして」

 当惑する俺に構わず、女の子はなんの躊躇いもなく、ひったくるように長靴を両手で掴んだ。ぶち、と釣糸の切れた音が虚しく響く。

 そして湖の水面にそれを浸すと、豪快な手つきで、しかし丹念に汚れを洗い落としていく。その姿を茫然と見つめながら、俺は脳内でアライグマを思い浮かべていた。

 しばし待って……というか、呆気に取られて動けずいると、彼女は泥を落とした赤い長靴を目の前に掲げて、自慢げな表情で言った。

「どう? もっこね、いつもね、ママのおさらてつだってるんだよ!」

「そ、そうなんだ……」

 ……もっこ?

 舌足らずな口調でどうも聞き取りづらいが、要するに母親の食器洗いを普段から手伝っているんだぞ……みたいな意味だろう。たぶん。とりあえず適当に頷いておく。

 しかし望みどおりの反応ではなかったのか、彼女は無言で俺をじっと注視したまま、一ミリも動かない。その表情は、なにかを期待しているような感じだ。

「えっと、偉いねー」

「…………」

 これもハズレか。

 妙な状況にもいつの間にか馴染んでしまい、どう答えるのが正解なのか頭を捻って熟考する。

 ……ひとつ思いついたが、さすがに有り得ないかな。

 そうして浮かび上がった自分の発想に呆れつつも、駄目元で尋ねてみる。

「それ、欲しいならあげるけど――」

「ホント!?」

 最後まで告げる前に、歓喜に満ちた声に遮られた。

 完全に予想外の反応だ、思わずこっちが目を白黒させてしまう。

 ――まさか冗談抜きでこの長靴がほしいって言うのか?

 まあ俺が持っていても、どうせすぐに捨てるだけだし、渡すのは一向に構わないが……

「わーい! ありがとう!」

 まだ刺激的な臭いの残る長靴を受け取った彼女は、小躍りする勢いで喜んでいた。なんだか子どもを騙してゴミの処分を押しつけたみたいで、胸裏にむくむくと罪悪感が湧いてくる。

「ねえ、またこれみにきていい?」

 複雑な俺の心境などいざ知らず、女の子は釣竿を指差し、まったく無邪気な表情でそう訊いてきた。胸に抱えた小汚い長靴が微塵も似つかわしくない、とても眩しい笑顔だ。

「別にいいけど……」

 断っても仕方がない。俺が首肯すると、彼女は真白い八重歯を見せ、何度も俺に手を振りながら去っていった。

「……変な子だな」

 思わずそう呟き、まるで嵐のようだった体験に苦笑してしまう。


 そして、昼休みがとっくに終わっていたのに俺が気づくのは、これから五分ほど後のことだった……




 ★




 あの日から彼女は毎日欠かさず、広い湖の片隅で釣り竿を垂らす俺の元へとやってきた。そういえば、子どもは夏休みの時期だったな。

 もうすっかり慣れ親しんだもので、彼女と俺は他愛無い雑談をする程度の仲にはなった。

 言葉を交わしているうちに、いくつかわかったこと。

 まず、彼女の名前はモトコちゃんというらしい。しゃべり方のせいか彼女は自分のことを『もっこ』としか言わないが、たぶんそれで合っている。

 今年進学したばかりの小学一年生。

 少し離れた住宅地の方に住んでいるそうだが、夏休みの間はこの周辺が遊び場みたいだ。ご両親は放任主義なんだろうか、一緒にいるところは見たことがない。

 そしてなにより重要なのは――いや、さして重要でもないが――もとこちゃんは魚でなくゴミが釣れるのを、いつも楽しみにしていた。

 釣糸を引き上げる際に魚が水面を弾くと露骨にがっかりしている。まあ、肝心の魚もここには小ぶりのバスくらいしか生息していないようだし、俺自身もう釣果には期待していなかったが。

 むしろ彼女は魚が苦手のようだった。一度だけ、バスが呑み込んだ針を抜かせてあげようと思って差し出したら、悲鳴を上げて逃走していったこともある。……他に誰かいたら俺が変質者扱いされていたところだ。

 この日も俺たちは、さして綺麗でもない芝生に座り、湖に針を落としていた。正確に言うと、もとこちゃんは俺の膝の上にいる。

「きょうはなにつる!? かさ? おなべ?」

「……魚がいいかな」

 悪意がないゆえに、無慈悲な言葉は胸に深々と突き刺さった。傘も両手鍋も、俺が以前釣り上げたものだ。この湖大丈夫か。

 それらは両方とも彼女が喜んで回収していったが、なにが魅力的なのやら。一度聞いてみたが、いわく「なんとなく」だそうだ。

「お、かかったか」

 僅か重くなった竿の感触につい口角が緩む。

 ……が、俺の表情はすぐ憂鬱にすり替わった。

 おもりの沈み具合を見るに、またゴミが引っかかっただけだ。即座に判別できるようになってしまった自分が悲しい。

「あっ!」

 溜息を落としながら竿を引くと、俺の胸元でもとこちゃんが唐突に大声を上げた。これまでの獲物がかかった瞬間よりも、遥かに大きな反応だ。

 何事かと俺も目を見開き――そして納得。

「くつだ!」

 高々と上げられた釣糸の先端には、あのときと同じ長靴の片割れが、茶色く濁った水滴を垂らしていた。




 もとこちゃんによる恒例のアライグマ作業を終えると、汚れきっていた長靴の表面に赤い光沢が蘇った。十中八九、以前釣った長靴のもう片方だろう。

 さっきはまさか長靴が一組釣れるなんてと驚いたが、よく考えれば湖に沈んでいるゴミがバリエーション豊かな方がおかしい。

 なんにせよ、ゴミはゴミである。毎度のごとく苦笑しながら「あげる」と言うと、


「いらない」


 もとこちゃんは大きく首を横に振って、はっきりと拒絶の意志を示した。

「え……!」

 こんなことは初めてで、無意味に狼狽してしまう。なにが彼女の気に食わなかったのか。

 年甲斐もなく硬直していると、彼女はまだ湿り気を帯びた長靴を俺に押しつけ、天衣無縫の笑みを見せた。

「これはおじちゃんにあげる。もっことおそろいだよ!」

 そして、もとこちゃんは自分のリュックを漁ると、なんと中から赤い長靴を取り出した。

 今度こそ愕然としてしまう。彼女が毎日持ち歩いていたリュック、まさかずっとあの長靴を入れていたのか。理由は知らないが、よっぽど大事にしているんだろう。……その片方を、俺にくれると言うのだ。

「はは、ありがと……」

 なかば呆然と、赤い長靴を受け取る。頭の中では、とりあえずこの悪臭はなんとかしたいな、強力な洗剤を買って帰らなくちゃな、などと考えていた。

「おじちゃん、じかんはへいきなの?」

「はっ、やべ!」

 俺は腕時計を確かめて、頬を引き攣らせた。もう昼休みが終わる五分前だ。

 大急ぎで釣り道具一式を片づける俺の肩を、もとこちゃんが叩いた。

 面を上げると、彼女はリュックを背負って、両手を胸の前で軽く振っていた。

「もっこもそろそろかえろっと。くつ、だいじにしてね!」

 そして彼女は返事を待たずに、踵を返して走り出した。俺は慌ただしくも手を振りながら、もとこちゃんの背中を見送る。

「ばいばいおじちゃん! またくるね!」

 子どもは意外に足が速い。瞬く間に彼女の背中は視界から消えてしまった。

 さて俺も早く戻らなくちゃ、と袖を捲り――ふと、彼女の残した言葉に違和感を覚えた。なぜだろう、毎日聞いていたはずが、なぜか耳慣れないような感覚。

 いつの間にか片づけの手も止まり、佇んだままで首を傾げる。

 不意に、冷たい風が吹いて素肌の腕を撫でた。


 ――あ。


 そして、あまりに鈍感すぎた俺はようやく気づいた。違和感の正体と、片方だけの長靴に籠められた意味に。

 もとこちゃんは、いつも「またあした」と言っていたんだ。

 ――そっか、明日から新学期なんだよな。

 だから明日も、明後日も彼女はこないんだ。週末は……まだわからないけれど。

 もしかすると俺がこの湖で釣りをするのも、今日で最後かもしれない。彼女がいたから、俺は釣りをしていたようなものだ。

 そういえば、蝉の鳴き声はいつから聴こえなくなっていたんだろう、なんてことを考えて。

 もとこちゃんが駆けていった方向を眺めると、少しだけ寂しいような気分になった。







 読んでいただきありがとうございます!

 学生のみなさまは、新学期も頑張ってください!


 ところで、子どもってなぜか変なものを集めたがりますよね。

 男の子は石収集家が多いですが、女の子はどうなんでしょうか……?

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