ダークレッド 1
耳もとで端末が低く鳴った。小川はブルーのカーテンが引かれた殺風景な部屋で目をさました。
起きあがり、渋い目をこする。端末はまだ鳴り続け、来客があることを告げていた。
時間を見ると、すでに昼を過ぎている。
小川は、けだるい体を引きずるようにしてベッドからおり、昨日脱ぎ捨てた服が散らかるリビングを抜けて入口の扉を開けた。
「まだお休みでしたか?」
スエットにティーシャツ姿の小川の前に、椎葉室長が食事をのせたトレイを持ったカナタと一緒に立っている。
起き抜けで頭がうまく回らない。けれど小川は昨日の出来事を思い返して顔に手を当てうなだれた。
「あ…あ」
終わったのだ…小川の胸はえぐられたような痛みを感じた。
「まず身なりを整えて。それからお話ししましょう」
漆黒の瞳の椎葉室長が優しく励ますように言った。
小川がシャワーを浴び、着替えて来ると、散らかした衣服が片づけられ、カーテンも開けられていた。
カナタは前日と同じ服装で椎葉室長とソファに並んで座っている。
「昨日のことは丸子博士から伺いました」
「…はい」
小川はテーブルをはさんで二人の前の椅子に腰をおろした。
「ぼくはロボット研究室を、クビですか…」
椎葉室長が口元をハンカチで押さえ二・三度咳をした。
「大丈夫です?」
「今朝から少し熱があって…たいしたことはありません。食事してください。わたくしからお伝えすることもありますから」
カナタが小川の前にトレイを両手でぐいっと押してきた。どこかふてくされたような顔で。
「ありがとう」
小川が礼を言うと、ぷいと横を向き、椎葉の長い腕で顔を隠してしまった。
「カナタ、昨日の騒動はきみに責任があるよ。小川博士に言うことがあるでしょう?」
カナタは腕の陰から小川をしかめっ面で見ている。トラブルの元凶だが、子どもっぽいしぐさを前にすると憎めない。つい小川は笑顔で返してしまう。
「ほんとうに、あなたはカナタに甘いですね」
椎葉室長は、あきれたのかカナタの頭をくしゃくしゃにして終わりにした。カナタはむっつりとしたまま、髪を直してテーブルに置いていたスケッチブックを手に取った。
「今日は健康診断でしたが、あなたは明日にしてもらいました。腸内検査のカプセルを飲むのと血液検査だけですから」
「すみません」
小川はペットボトルの封を切り、水を口にふくむとひとごこちついた。
「食事しながら聞いて下さい。小川博士、事務室で働きませんか?」
小川はほうれん草のおひたしにのばした箸を止めた。事務室で働く…この先、百年以上? 絶望的な長さに小川は呆然とした。
「論外でしたね。では放射線調査室は?」
「放射線…」
「ええ、あそこでも調査用のロボットを作るので、技術者がいるんですよ」
作業用ロボットを作るなら今と仕事の内容はあまり変わらない。変わらないが…いつも不機嫌なソフィア博士、口が悪くて毎朝酒臭い丸子博士。二人とも決して付き合いやすいとは言えないが、共に働けなくなることと憧れだった場所にようやく得られた『椅子』を失うのは、やるせない。
箸を取り落とした音で小川は我にかえった。その様子を見て、室長はため息をついた。
「ロボット研究室がどうして少人数なのか説明しましょう。簡単に言うと、あの二人のお眼鏡にかなう人材がいないからです」
「お眼鏡、ですか」
ええ、と室長はうなずいた。
「ああ見えて、丸子博士はこちらに来る前は宇宙開発に携わっていて、外惑星用無人探索機を作っていたんですよ」
「ロボット開発の花形じゃないですか」
人は見かけによらない。ロボット技術者の頭脳が集まる場所だ。
「そしてソフィア博士はご存じの通りの方です。お二人は一緒に働く方にもそれ相応のレベルを求めます。もう、今まで何人ロボット研究室から放射線調査室へ異動があったことか」
室長は軽い咳をすると、悩ましげに天井をみあげた。
「小川博士はあの二人と二ヶ月も一緒に働いてきました。あなたに不足があるなら、とっくにどちらかが事務室へ配置転換の話を持ってきたはずです」
自分は、二人に受け入れられていたのだろうか。少しは認められたのだろうか。
もしそうなら、それだけで良しとすべきかも知れない。ドームでしか生きる道はないのだ。別の部所で働けばいい。
けれど諦めきれるのか?
小川は鼻の奥が熱くなり、情けないと思いながらも涙がこぼれそうになった。
にじむ視界の端に光りが見えたような気がして小川は顔をあげた。
テーブルに置いていた携帯端末のディスプレイが何かを自動的にダウンロードしていた。
「あげる」
カナタが広げたスケッチブックに目を落としたまま言った。
小川が端末を操作して確かめると、昨日研究室で見たカナタの兄弟姉妹の動画だった。カナタなりの気遣いだろうか。小川はあわてて目元を手の甲でぬぐった。
「ありがとう。嬉しいよ」
カナタは相変わらずスケッチブックを見ている。
「どうして昨日、あんなことをしたんだい?」
小川の問いに、カナタはソファの背もたれに体をあずけ、肩をすくめた。
「ソフィアは忘れるから」
「何を?」
カナタは無言でスケッチブックを閉じた。
椎葉室長が苦しげに咳をした。心もち黒檀の肌が赤くなっているように見えた。椎葉は咳をおさえながら、身ぶりで大丈夫と伝えてきた。
小川はカナタが話すまで辛抱強く待った。
「…ぼくらのことを」
「カナタ」
椎葉室長がカナタをたしなめるように声をかけた。
「あの日、ぼくは修理中で出動できなかった」
救助に向かったロボットは九体…祖母の家から持ち帰った未編集のニュースの映像にカナタはいなかったのだ。
「行けばよかった。残されるより」
カナタは膝を抱えた。緑の瞳には深い哀しみが刻まれているように小川は感じた。
「ソフィアはぼくのことがキライだ」
ぽつんとつぶやくと、スニーカーのカラフルな靴ひもを指にからめた。
「カナタ、知ってる? ソフィア博士、ロボットを作っているときは、笑うんだよ」
カナタは眉をよせ、小首をかしげた。
「すごく優しい顔になる。たぶん、きみを作っているときもそうだったとぼくは思う」
室長がカナタの顔をのぞいき、うなずいて見せた。
「ぼくはきみに会えて嬉しいよ。ここにいてくれてよかった」
小川は腕をのばし、カナタの栗色の長い髪にふれた。
「顔の傷、直させてくれる?」
カナタはかすかに目を伏せ視線をそらしたが、小川の手は拒まなかった。
「こんど…」
小川はカナタの頭を慈しみをこめて何度もなでた。
「小川博士」
室長に声をかけられ、小川は彼を見た。
「そんな態度だからソフィア博士からあらぬ誤解を受けるのですよ」
小川はとっさにカナタの髪から手を離した。ついさっきまで落ち込んでいたくせにと思うと、あまりに能天気だ。
「ソフィア博士はあなたを見かぎったわけではないです。今は彼女の気持ちが落ち着くのを待ちましょう。あなたの代わりなんていません。現に小川博士がいらっしゃると知らせたとき、非常に興味を示しましたから」
同じようなことを丸子も言っていたことを小川は思い出した。ソフィアは小川のロボットを『危うい』と評したが。
カナタが足をおろして椅子に座り直した。
「『あと少しで同じになる』って」
同じ…胸の鼓動が早まる。腕組みしていた小川はカナタに問い返した。
「何と?」
やがてカナタの唇は小川の予測どおりに動いた。
「ぼくたちと」
小川は両手をテーブルにつき、カナタに向かって身を乗り出した。
「同じ…? 自律システムまであと少し?」
「自律型ロボット育成プログラム」
カナタは自律システムの正式名称を言った。
「そうだ、『育成』なんだ。最初から個性がインストールされているわけじゃない」
小川はカナタを見据えた。個性は、『心』は完成形ではないのだ。
「カナタ、答えを知ってるんじゃないか。心はきみの中にあるんだ」
カナタは小川に問いただされ、きょとんとしている。時々みせる間はまるでバグの発生のよう…。そこまで考えたとき、小川のなかで何かが瞬いた。
「短絡演算子…か?」
あえて発生するバグを除去しないのかも知れない。それをあたかもヒトのシナプスの代用として…。
小川の脳裏を次々に思考が行き交う。目の前のカナタも椎葉室長も、視界から消える。
「小川博士!」
鋭く呼ばれて小川は我に返った。いつの間にか朝比奈が室内にいた。
「すみません、ドクター朝比奈がいらしたので勝手ながらお招きしましたよ」
呆れるほど、集中していたらしい。
「聞いたわ、ソフィアと喧嘩したとか?」
朝比奈はくすりと笑った。
「いえ、喧嘩ではなく…」
一呼吸おいてから朝比奈を見ると、いつにもまして若く華やいでいる。白衣の下は淡い藤色のワンピースだ。
「学生のときから頑固だから。まかせて、わたしが仲直りさせてあげる」
そう言うと、自身の端末にパスコードを打ち込んだ。
「今日するのですか?」
椎葉室長が訊ねると、朝比奈はうなずいた。
「今日くらいふさわしい日はないもの」
いつもより赤い唇の朝比奈が答える。
しばしの操作のあと、朝比奈は指を止めた。表情がすっと引き締まる。
「さあ、始めましょう」
朝比奈の白い指先がディスプレイに触れると、避難訓練の警報音が鳴り響く。
朝比奈は薄く笑った。
終わりの始まりです。
ところで、短絡演算子。説明を読めども読めども意味わからず…。なのに、使う。誰か教えて。