4 彼女と彼の機嫌の理由
「それじゃ、明日また来るよ。お代はその時に」
立ち去った彼の煌びやかな後ろ姿――恐ろしいことに、後ろ姿ですらも目を惹く美しさだった――を見送ってしばし。
「…………」
エリカは魂の一部を吸い取られたかのように、ぽかんと立ちつくしていた。
自分では普段通り接客したつもりであっても、慣れないことで緊張していたのだろう。
深いため息をついて、ようやく思い出したかのように椅子に座る。
肺にためていた空気と共にこわばっていた肩の力が抜けて、代わりに安堵が広がった。
「――すごい売れたわ。すごくない? え、店の商品の3割は売れたんじゃないの?」
慌てて首を巡らせると、予想通り。棚には今まで見たことがないくらいの空きスペースが生まれていた。
商品の補充は、店にある在庫だけでは間に合わないだろう。新しく買い付けに行かなければならない品もあるが、そんな手間ですら喜びになる。
エリカの瞳が輝くのは、当然のことだろう。
「これって、今までで一番の売れ行きだわ」
エリカが店の主となって以来。いや、もしかしたらこの店が始まって以来の売上かもしれない。
「すごいすごい! しかも、わたしが専属で付き添えれば、人件費つき!?」
近頃に邪悪な彗星の如く現れた、沼の魔法使いなる商売敵の不安も消し飛ぶほどの売れ行きと儲け話である。
こんな幸運があるだろうか。
しかも相手は絶世の美貌の主。身分の高さにも関わらず、ただの娘にすら丁寧な対応ができる紳士である。ポイントを知り尽くした魔法使いの塔ならば随行しても危険は少ないだろう。エリカは両手を握りしめた。
「そうとなれば、何を持って行くか、考えなくっちゃ!」
大口の客の期待に応えるため、エリカは足取りも軽く物置に向かった。
倉庫代わりの物置は、エリカが普段座る店番用の椅子の後ろにある。木製の扉で店とつながる部屋だ。
採光用の小さな天窓がひとつ設けられただけのその内部は、在庫の箱が所狭しと積み上げられていて、人がひとり入れれば良い方。小柄なエリカだからこそ作業に文句が出ないような小部屋である。実際、たまにやってくる背の高い店番手伝いからは、頭がつかえて身動きがしにくいと不評だった。
エリカがドアノブに手をかけようとしたちょうどその時、何の前触れもなく碧い光が扉の隙間から差し込んでくる。
薄暗い室内に、きらきらと光がこぼれ出した。
不思議な光景は、しかしエリカにとっては身近なもの。
1拍にも満たない間に溶けて消える光から、落ち着いた動作で手を遠ざける。
「……今日は珍しい客が続く日ね」
エリカは光の理由を察して、体を一歩後ろに寄せた。
碧い光が、強く瞬く。カチャリと軽い音が鳴って、向こう側から扉が開かれた。
「あなたが自分で動くなんて、明日は雪が降るかもしれないわね」
現れたは、藍色の長い髪を束ねた背の高い男だった。
「……随分な挨拶だな、エリカ」
深い森を思わせる、穏やかな低い声。深淵を識る黒瞳が、エリカを映した。
「だってここに来るの、何か月ぶり?」
笑いながらも、エリカは彼を歓迎する。
「いらっしゃい、モノグサの魔法使い。お茶くらいは淹れるわよ」
塔の魔法使いは、
「では、土産だ」
茶葉の包みをエリカの手の中に落とした。
店の入り口に「ただいま配達中」の看板を出して、1階の部屋に招き入れる。
あの看板を出しておけば、万が一にやって来た客も、小1時間くらいで再来店してくれるだろう。
エリカの住まいは、道具屋とつながる小さな家だ。彼女の寝室は2階にあり、1階は台所などの水回りが配置されている。
魔法使いに椅子をすすめると、エリカは台所で湯を沸かし始めた。彼の塔では一瞬で出てくるお茶も、彼女の家では当たり前に時間がかかる。
湯を沸かして、茶器を出して、茶葉を量り入れて、湯を注ぐ。美味しいお茶を飲もうとするなら他にも手順があるのだが、エリカは好んでそれらを省略した。商売人は忙しいのだ。
普段めったに動かない――エリカ曰くモノグサ魔法使いは、くるくる立ち働く姿が珍しいのだろう。偶にやって来た時には、彼女の姿が見える位置の椅子を好んで使った。
今日も変わらず定位置に座った魔法使いは、鼻歌を歌いながら火を点ける彼女の後姿に問いかけた。
「エリカ、何かあったのか?」
「え、何って?」
明るい鼻歌は無意識だったのだろう、エリカは緑の瞳を驚きの形に丸くして振り返る。
「そこまでの上機嫌は久しぶりに見る」
「あ、ばれちゃった?」
商売人としてだめだわ、と自分の頬を軽くたたくも、嬉しい気持ちは覆い隠せていなかった。
魔法使いの瞳が、つられたように小さな笑みを含む。
「今なら感情を気にすることもあるまい」
「そうね。そうれはそう。それじゃ思いっきり喜んじゃうんだけどっ」
喜び跳ねるように、彼女の桃色の髪が躍る。
「このタイミングで貴方が店に来たのも、商売の神様の采配を感じるわ」
「そうか」
「でも、魔法使いも何だ機嫌が良さそうね?」
「そうか?」
短くないつきあいの中、普段からあまり感情を出さない彼を知るエリカは、魔法使いの目元がほんのりと和んでいる様子を見逃していない。
肩越しに振り向いて首をかしげるエリカに、彼の口元が優しく動いた。
「ならば、エリカの笑顔を見られたからだろう」
臆面もなく告げられた言葉。
「あ、あ、そう、」
この魔法使いは時折甘い言葉を言うくせに、本人に自覚がないのか年の甲なのか、どんな台詞を言っても動揺した試しがない。慣れないことにエリカだけが挙動をおかしくするのだった。
(そもそも悪い魔法使いが、こんなこと言うって自体がどうなの!)
今日の彼は相変わらず研究者風でしかない格好で、叡智を宿す魔法使いには見えないのだが。
エリカはほんのりと頬を染めて、やつあたりのように睨みつけるが、魔法使いは意に介すことなく自分の持ってきた包みを並べはじめた。
いらだちまぎれに茶葉をひと匙余計に加えが、彼が気づくことはないだろう。