表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

あの日、妻と子を殺したあなたへ ―見殺しにされた私は、愛する夫と我が子と幸せに生きます―

作者: 星谷 明里
掲載日:2026/08/17

「ロナルド様、助けて! 赤ちゃんが!」


 ヴィオレッタは、冷たい川の流れに藻掻きながら叫んだ。

 彼女の波打つ黒髪とラベンダー色のドレスが、肌を刺すような冷たい水の中に漂っている。


(この女は、私の子を二度も殺そうとした……)


 必死に水面から顔を出すヴィオレッタに冷たい視線を向けると、ロナルドは背を向けた。俯いた彼の金の髪を雫が滴り落ちる。

 その腕の中には、彼が川から助けたばかりの身重のリリアーヌの姿があった。


(わたくしのお腹にも、ロナルド様の赤ちゃんがいるのに……)


 背を向けた夫に、かろうじて残っていたヴィオレッタの心は凍りつき、粉々に砕け散った。


「ロナルド様、ヴィオレッタ様が……」


 甘えたような、鼻にかかった声。リリアーヌの潤んだ青い瞳がロナルドを見上げた。

 彼は答えないまま、彼女の白い顔に張り付いた淡い金の髪をそっと払った。そして、子兎のように震える彼女を抱き寄せる。


「ロナルド様……っ」


 再び聞こえたヴィオレッタのか細い声に、彼は瞼を閉じた。


(私は、リリアーヌとこの子を守らなくてはならない……)


 リリアーヌの肩を抱いたまま、彼は歩き出した。

 淡いピンク色のドレスに包まれた彼女の腹部は大きく膨らんでいる。臨月を迎えた彼女のために、彼らは辺境の別荘地まで静養に来ていた。

 ()()()()()()()ヴィオレッタは、嫉妬に駆られてリリアーヌを泉と川に突き落とした。これからも、リリアーヌや子供に危害を加えるはずだ――ロナルドはそう信じていた。


「侯爵様!! 奥様は……」


 駆けてきた若い騎士の声にロナルドが川を振り返ると、そこにヴィオレッタの姿はもうなかった。


「二人が川に落ちて……リリアーヌを助けるので精一杯だった」

「わたしのせいで、ヴィオレッタ様が……」

「リリアーヌ、お前のせいではない。寒いだろう……お腹の子に障る。行こう」


 震えながら泣きじゃくるリリアーヌを抱き上げると、ロナルドは暖かな別荘へと歩き出した。

 主が愛人を大切そうに抱いて去っていくのを、騎士たちは険しい顔で見送った。


「ロナルド様、わたし……」

「大丈夫だ。お前は、自分とお腹の子のことだけ考えていれば良い」


 ロナルドとリリアーヌの二人が別荘で着替え、温かな紅茶を口にしているとき、ヴァルデン侯爵家の騎士たちは総出で川を捜索した。

 騎士たちは、度々差し入れをし、温かな労いをくれた侯爵夫人ヴィオレッタを助けるために自ら動いたのだ。

 けれど、ヴィオレッタはついに見つからなかった。


「侯爵様、ルークス王国との国境まで探しましたが、奥様は見つかりませんでした」

「どうかルークスに立ち入る許可を」


 使用人も騎士たちも川で行方知れずになったヴィオレッタが不憫でならなかった。

 「探したところで、もう生きてはいないだろう」と嘆く様子すら見せないロナルドに、“何としても見つけ出して、ヴァルデン侯爵夫人として弔うべきだ”と多くの者が進言した。

 だが、もし亡骸が見つかれば、速やかに葬儀をあげなくてはならない。

 ロナルドは「私の子がもうじき生まれるのに縁起が悪い」と取り合わなかった。


 そして、ヴィオレッタが消えてひと月が経った頃、リリアーヌが子供を産んだ。ロナルドとその両親が待ち望んでいた男児だった。


「ヴィオレッタの葬儀を行う」


 亡骸がないことを理由に、ヴィオレッタの葬儀は身内だけでひっそりと行われた。

 彼女の死を悼んで涙を流したのは、侯爵家の騎士と使用人たちだけだった。


 この日、侯爵夫人だったヴィオレッタは世界から消えた。


 ◇


 ヴェルス王国の社交界において“金の貴公子”と名高いロナルド・フォン・ヴァルデン侯爵と、ヴィオレッタ・フォン・ローゼンベルク伯爵令嬢が出会ったのは一昨年のことだった。

 若くして爵位を継いだロナルドに、美しく控えめな淑女だと評判のヴィオレッタ。

 二人の婚約が決まったとき、皆がお似合いの二人だと持てはやした。


 「私の妻として一生大切にする」と甘く微笑んだロナルドを、純真なヴィオレッタはたちまち好きになった。


『ロナルド様の妻になれるだなんて、わたくしは何て幸せなのでしょう』


 婚約者ロナルドの愛と幸せに包まれたヴィオレッタは、美しい装丁のノートを買い、日記を綴り始めた。


 けれど、婚約して半年が経った頃、ロナルドの様子が変わり始めた。

 会うたびに彼女に捧げられていた美しい花束はいつの間にか忘れ去られ、会う機会もみるみる減っていった。

 それを、ヴィオレッタは『忙しいからだ』と信じていた。ロナルドがそう言っていたからだ。


 そして、それは半年後に二人が結婚してからも続いた。

 季節はまだ初夏だというのに、暑いことを理由に新婚旅行は取り止めとなった。勿論ヴィオレッタではなく、ロナルドが決めたことだ。


 そして、「仕事が忙しい」とロナルドは邸にほとんど寄り付かなかった。

 ヴィオレッタのいる邸に彼が帰ってくるのは、月に数度。

 彼の両親から急かされている跡継ぎを設けるための夜伽は、月に二度とロナルドが決めた。それは、医師の決めた日程で行われ、ひどく事務的なものだった。

 けれど、ヴィオレッタはいつも微笑んで夫の帰りを待った。


『お忙しいロナルド様のために、何かできることはないかしら』


 使用人たちは皆知っていた。

 屋敷の外に、ロナルドが愛するリリアーヌをそれは大切に囲っていることを。

 けれど、純粋なヴィオレッタは疑うことすら知らなかった。

 自分の部屋に二人の結婚式の肖像画を飾り、毎日幸せそうに眺めた。


「また、ロナルド様からね」


 毎月、邸を空けてばかりのロナルドからは異国製のブレンドティーが送られてきた。それを、ヴィオレッタは嬉しそうに口にした。

 ふわりと広がる不思議な薬草の匂いを、彼女は胸いっぱいに吸い込む。

 添えられた小さな紙の切れ端には、『私たちの可愛い子ができるように』と彼の字で綴られていた。


『お忙しくても、ロナルド様はわたくしを気遣ってくださる。お優しいあの方のためにも、早くわたくしたちの子どもが欲しいわ……』


 ヴィオレッタは日記を綴ると、紙の切れ端とブレンドティーの小包を大切そうに引き出しに仕舞った。


「奥様、私たちがやりますから」

「わたくしにさせてちょうだい」


 ロナルドが帰ってくる日。

 ヴィオレッタはメイドたちを下がらせると、寝室に癒しの効能のある香を焚いた。

 そして、上質な肉と新鮮な野菜に、疲労回復に良いとされるハーブを入れたスープを早朝から煮込んだ。

 ハーブは、ヴィオレッタが効能を調べ、自ら庭園に植えて大切に育てたものだった。


「疲れた。今日はもう休みたい」


 せっかく久しぶりに帰ってきたというのに、夜になっても妻に指一本触れずにロナルドは眠りに就いた。

 けれど、ヴィオレッタは不満げな顔も見せず温かな微笑みを浮かべた。


「おやすみなさい、ロナルド様。良い夢を」


 柔らかく落ちたヴィオレッタの声に眉をひそめると、ロナルドはリリアーヌを想いながら瞼を閉じた。

 彼はいつも、ヴィオレッタに背を向けて眠った。

 それを淋しく思いながらも、ヴィオレッタはただ微笑んで彼を想い、見つめ続けた。


 そうして、結婚して一年が経った。

 ヴィオレッタは「跡継ぎはまだなの? 子供が出来ないのは、貴女に問題があるんじゃないかしら」とロナルドの母親から執拗に責められ、メイドたちからは同情の眼差しを向けられた。


 せっかく夫が贈ってくれた“子宝に恵まれる”ブレンドティーも、自分には無駄なのかもしれない――気落ちした彼女は、ブレンドティーを飲むのをやめた。

 そして、次第に彼との夜伽はなくなっていった。


 そうして、季節は盛夏を迎え、その暑さが和らいできた頃だった。

 ヴァルデン侯爵邸に、一人の若い女がやって来たのは――


「はじめまして、ヴィオレッタ様。リリアーヌと申します」


 鈴を転がすような、愛らしい声が響いた。

 ロナルドに優しく促された彼女は、おずおずとヴィオレッタの前に進み出ると初々しい礼をした。

 腰回りがゆったりとした白いドレスを纏った、淡い金の髪に大きな青い瞳の美しい娘。

 その清楚な姿を、ヴィオレッタはまるで天使のようだと思った。


(この方は、いったい……)


 リリアーヌの白いドレスに隠された腹部は、丸みを帯びて膨らんでいる。華奢で細身のため腹部だけがひどく目立っていて、誰が見ても妊娠していることが分かるほどだった。

 ヴィオレッタは菫色の瞳を見開き、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。


「リリアーヌは私の子を身籠っている。……両親に許しはもらっている」


 低く放たれたロナルドの言葉に、ヴィオレッタは打ちのめされた。まるで足元が崩れていくように感じた。


 ある下級貴族の私生児だというリリアーヌが邸を追い出されて路頭に迷っているとき、居合わせたロナルドが助けたそうだ。

 そして不憫な彼女を放っておくことができず、世話をしているうちにそういう関係になったと――

 いつから始まった関係なのか口にしない彼らに、ヴィオレッタは尋ねることすらできなかった。


「リリアーヌは可哀想な娘なんだ。どうか優しくしてやってほしい」


 ヴィオレッタは、深く頭を下げた夫を責めることが出来なかった。

 けれど、このときばかりは、ヴィオレッタの胸はナイフで抉られたかのように痛んだ。


 ヴィオレッタは子供の頃に実の母を亡くし、父親の関心も継母の愛情も、すべては新たに生まれた弟や妹たちに注がれた。

 彼女はずっと愛されたかった。

 そして、温かな家庭を築きたかった。

 真心を尽くし、彼を信じて待っていれば、いつか夢が叶うのだと信じていた。


(どうして……こんなことに……)


 けれど、ヴィオレッタはおくびにも出さなかった。

 必死に、不憫な境遇だというリリアーヌの立場を考えたのだ。


「リリアーヌさん、きっと大変な想いをされたのでしょう。どうかここで元気な赤ちゃんを産んでくださいね」


 ヴィオレッタは精一杯微笑んでそう言うと、ドレスの裾を翻して部屋へと戻った。

 そして、寝台に伏せて一晩泣き続けた。ロナルドが様子を見に来ることはなかった。


『リリアーヌさんは、きっと大変な苦労をされたんだわ……わたくしがこのまま子を産めなければ、リリアーヌさんの子がヴァルデン侯爵家の跡継ぎとなる。この邸で気兼ねなく過ごせるよう、大切にして差し上げなくては』


(わたくしは、子ができない体なのかもしれない……仕方ないわ)


 ヴィオレッタは涙を飲んで、そう自分に言い聞かせた。

 そして、侯爵邸で暮らし始めたリリアーヌを気遣い、毎日親切に声を掛けた。


「この腹巻きは南国のシルクで作られていて、夏でも使えるそうなの。体を冷やさないようにね」

「ヴィオレッタ様、ありがとうございます」


 いつでも可憐でか弱い雰囲気のリリアーヌの眼差しが鋭くなったことに、背を向けたヴィオレッタは気付かなかった。


 そして、客室で寝起きしていたリリアーヌのために、ロナルドは美しい部屋を用意した。


「リリアーヌ、大切なお前のために私がすべて揃えたんだ」

「ロナルド様……わたしなんかのために、ありがとうございます」

「子どものために空けていた部屋だから、お前の部屋も同然だ。気にせず使うと良い」


 リリアーヌには、南向きの日当たりの良い広い部屋が充てがわれた。

 淡いクリーム色の壁紙は剥がされ、リリアーヌのために薔薇色に張り替えられた。カーテンも家具も調度品もリリアーヌの好みに合わせてロナルドが用意した。

 この部屋は、正妻であるヴィオレッタが産む子のためにと空けられていたはずの部屋だった。


 心優しいヴィオレッタを慕っていたメイドたちは「愛人の分際で……」「私生児のくせに侯爵家に入り込むなんて」とリリアーヌの陰口を叩き、それを聞いたヴィオレッタは彼女たちを諌めた。


 けれど、陰口を耳にしたリリアーヌは「ヴィオレッタ様は、やっぱりわたしがお嫌いなのかしら……わたしが卑しい生まれだから」と青い瞳に涙を一杯溜めてロナルドを見上げた。


 ロナルドは「子供も産めないお前のために、彼女がヴァルデン家の跡継ぎを産むんだ! 正妻だからと偉そうに振る舞うな!」ときつく叱責した。

 涙を浮かべたヴィオレッタが何を言っても、ロナルドはろくに聞こうともしなかった。


 そして、秋が深まる頃。

 臨月を迎えたリリアーヌから、「お世話になったお礼がしたい」とヴィオレッタは庭園に呼び出された。


「リリアーヌさん、ここは少し冷えるからお部屋に――」

「きゃあっ!!」


 リリアーヌの叫び声と共に、『バシャン!!』と水しぶきが上がった。リリアーヌが庭園の泉に落ちたのだ。


(いけない! 赤ちゃんが……!)


 ヴィオレッタが慌ててリリアーヌに手を差し伸べた瞬間、駆けてきたロナルドが泉に飛び込んだ。


「リリアーヌ、大丈夫か?!」

「ロナルド様……ヴィオレッタ様が……」


 震える手で胸元にしがみつくリリアーヌに、ロナルドはヴィオレッタを睨みつけた。


「お前がやったのか!!」

「わたくしは、何もしていませんわ」


 ヴィオレッタが何度説明しても、ロナルドは聞く耳を持たなかった。

 そして、リリアーヌも何も語らなかった。


(リリアーヌさん、どうして何も言ってくれないの……?)


 ロナルドは、「私の子を身籠り、愛されているリリアーヌが妬ましくてやったのだろう」と決めつけた。

 それから、ロナルドはヴィオレッタと顔を合わせるたびに仇を見るような目付きで彼女を見た。


 毎夜涙に濡れるヴィオレッタは、自身の無実を日記に綴ることしか出来なかった。

 「奥様がそんなことをなさるはずがありません。どうか奥様をきちんと見て差し上げてください」と忠言した執事は雑用係へと回された。


 そして、数日経った日のこと――


「そういえば、今月も来ていないわ……」


 ヴィオレッタは、月のものがしばらく来ていないことに気が付いた。

 最後の夜伽は、リリアーヌが来る数カ月前――初夏の頃だったはずだ。


(まさか、わたくしに子が――?!)


 ヴィオレッタは下腹部に手をやった。けれど、彼女の下腹部はそれほど出ていなかった。彼女は、少し太ってしまっただけだと思っていたのだ。

 念の為、密かに医師を呼び診てもらうと、子ができていることがわかった。


「ご懐妊おめでとうございます。春頃にお生まれになるかと存じます」

「まあ……!」


 ヴィオレッタは両手で口元を押さえて涙ぐんだ。

 心から待ち望んでいた、夫のロナルドとの子だ。


「あら? ヴィオレッタ様は装いを変えられたのですね」


 目を細めて微笑んだリリアーヌに、ヴィオレッタは目立たない下腹部に手を添えて微かに笑い返した。

 ヴィオレッタは以前よりも更に食事に気を配るようになり、体が冷えぬようにいつでもショールを纏い、ヒールのある靴を履くのをやめた。


『やっとわたくしのお腹にも赤ちゃんが来てくれた! 花の咲く季節に産まれる、わたくしたちの可愛い子。大切に、大切に育てたい……でも、ロナルド様は喜んでくださるかしら……』


 そう日記を綴っていたとき、珍しくロナルドがヴィオレッタの部屋へとやって来た。

 日記を引き出しに仕舞ったヴィオレッタは、ロナルドを見つめ背筋を伸ばした。


「ロナルド様、大切なお話があるのです」


 けれど、彼女が勇気を出して紡いだ言葉は、まるで聞こえなかったかのように遮られた。


「リリアーヌの子がもうじき産まれる。南東にある別荘で休ませてやりたい」

「それは……行ってらっしゃいませ」


 静かに声を落としたヴィオレッタに、ロナルドは忌々しげに目を細めた。


「お前にも来てもらう。リリアーヌの希望だ」


 「リリアーヌの優しさに免じて、この間のことは許してやる」と冷たく告げたロナルドに、ヴィオレッタはドレスの裾を握り締めて俯いた。


(この子がもし、望まれなかったら……)


 告げようとしていた言葉は、ついに口に出せなかった。


 ヴェルス王国の南東部。辺境にある別荘地に着いてから、リリアーヌは近くにある川を見に行きたいと無邪気に笑った。

 南東の比較的温暖な地域とはいえ、冬を迎えた川辺は肌寒い。


「美しい川の流れを見て、癒やされたいのです」


 「危険だ」と渋い顔をするロナルドに、リリアーヌはヴィオレッタも一緒に行くのだと言って聞かなかった。


「ね、ヴィオレッタ様も一緒に行きましょう」

「でも、ロナルド様とお二人の方がゆっくりできるのでは……」

「リリアーヌが望んでるんだ。少しくらいなら良いだろう」


 リリアーヌが物々しい雰囲気は苦手だからと、ロナルドの命により侯爵家の騎士たちは離れた場所に待機させられた。


 そして――


「ヴィオレッタ様っ!!」


 リリアーヌの叫び声と大きな水飛沫が上がり、ヴィオレッタとリリアーヌは川に転落した。


「リリアーヌ!!」


 すかさず飛び込んだロナルドは、リリアーヌを救い出した。

 そして、ヴィオレッタは見捨てられた。夫から見殺しにされたのだ。


 この日に、ヴィオレッタの壊れかけていた心は、完全に死んでしまった。


(このまま、死んでしまうのかしら――)


 最後に見たのは、夫から向けられた川の水よりも冷たい眼差し。


(守れなくて、許してちょうだい……)


 冷たい水の中で腹部を包むようにそっと触れると、彼女は意識を手放した。


 ◇


「――大丈夫ですか?!」


 ヴィオレッタの唇から水が零れ、彼女は激しく咳き込んだ。

 目覚めると、彼女は小石が転がる川辺に横たわっていた。


「良かった……」


 柔らかな、低い声が落ちる。


(ロナルド様? ……違う、この方は……)


 ヴィオレッタの菫色の瞳に映ったのは、安堵に微笑みを浮かべる、見知らぬ金の髪の青年の姿だった。


「頭を怪我しています。すぐに手当てをしましょう」


 その親切な青年は、“レアンドロ・アルバラード”と名乗った。

 ヴァルデン家の別荘地から南にある、隣国ルークス王国の若き辺境伯だった。

 彼は、澄んだ水色の瞳でヴィオレッタを真っ直ぐに見つめた。


「……それでは、あなたのことは“ヴィオラ”さんと呼んでも良いですか?」


 記憶をなくしたというヴィオレッタに、レアンドロは「菫色の瞳があまりに美しくて」と優しく微笑んだ。

 “ヴィオラ”――それは、亡き母が呼んだ彼女の愛称だった。


 そして、レアンドロがヴィオレッタを助けて数日が経った。


「いっ……痛い!!」


 激痛に呻いたヴィオレッタは気を失った。

 ドレスの裾を染める赤に、レアンドロは慌てて医師を呼んだ。


「……残念ですが、お子様は……」

「……っ!!」


 医師から告げられた言葉に、レアンドロは拳を握りしめた。

 大量に出血したヴィオレッタは青い瞼を閉じ、ひどく弱り切っていた。


「レアンドロ様……わたくしは……」

「ヴィオラさん、栄養を摂って休んでください」


 レアンドロは暖かな部屋と滋養のつく食事を素性の知れぬヴィオレッタに与え、甲斐甲斐しく世話を焼いた。

 彼は彼女に何も聞かなかった。

 そして、彼女に起きた悲しいことを告げることもしなかった。


 ――そして、密かに調べ始めた。


「北のヴェルス王国のヴァルデン侯爵夫人が、同じ時期に川で行方不明になったと――年齢や容姿の特徴も一致しています」


 「先日、亡骸が見つからないままで葬儀が行われています。ヴァルデン家の嫡男が生まれてすぐのことです」と報告書を差し出した部下に、レアンドロは眉を寄せた。


(嫡男? ……彼女の子は失われてしまったというのに――)


「ヴァルデン侯爵家について、詳しく調べてくれ」


 彼が切れ長の瞳を細めてそう口にした時、柔らかなノックの音が響いた。


「レアンドロ様、お茶を淹れましたの」


 扉の向こうから顔を覗かせたヴィオレッタに、微笑んだレアンドロは報告書を引き出しの奥へと仕舞う。


「ヴィオラさん、まだ休んでいるように言ったはずですよ」


 困ったように笑うレアンドロに、ヴィオレッタは「平気ですわ」と微笑み返す。


「それでは、一緒にいただきましょう」


 ヴィオレッタを愛しげに見つめたレアンドロは、彼女をそっとソファに座らせた。


「ヴィオラさん、どうか無理はしないでくださいね」

「レアンドロ様は過保護過ぎますわ」

「……貴女が心配なのです」


 レアンドロに「ヴィオラ」と優しく呼ばれるたびに、ヴィオレッタのひび割れた心は癒されていくようだった。


 ――そして、ヴィオレッタとレアンドロが出会って三年が経ち、太陽の季節がやって来た。


 嫡男が産まれた誕生祝いに、アルバラード辺境伯邸は温かな祝福の空気に満ちていた。


「マテオは、やっぱりレオ様に似ていますわ。髪の色も目の色もそっくり同じですもの」

「そうですか? この可愛い目元や口元なんか、ヴィオラにそっくりですよ」


 二年前に夫婦となった彼らの間には、愛らしい息子が産まれた。

 レアンドロの計らいで、ヴィオレッタは“ヴィオラ”として辺境伯家と縁のある貴族家の養女となり、二人は正式に結婚したのだ。


「愛しいヴィオラ……こんなに可愛い子を産んでくれて、ありがとうございます」

「まあ、いつまで仰るおつもりなのかしら」

「ずっとです」


 「ふふふ」と笑うと、ヴィオラは腕の中のマテオをそっと抱き締めた。

 そして、レアンドロの温かな腕に包まれて幸せそうに瞼を閉じた。


 その頃、ヴァルデン侯爵邸では――


「なぁ、リリー、また用立ててくれよ。俺とお前の仲だろう?」

「……いい加減にして」


 三年前にヴァルデン侯爵家の嫡男を産んで侯爵夫人となっていたリリアーヌは、青褪めた顔で黒髪の若い男と向き合っていた。


「この間渡したでしょう? あれで最後だって言ったはずよ」


 「ここには二度と来ないで」と低く告げたリリアーヌに、「おっかねぇな」と男は薄く笑った。


「……俺の子だろう?」

「……」

「侯爵様に知られても良いのか?」

「変なことを言わないで!! あの子はこの侯爵家の跡継ぎなのよ!」


 目を吊り上げて喚いたリリアーヌは、扉の外でロナルドに聞かれていることなど知らなかった。

 「早くこの邸から出て行って! わたしはヴァルデン侯爵夫人なのよ?! 二度と近付かないで!」と叫んだリリアーヌに、扉の外にいたロナルドは勢い良く扉を開ける。


「ロナルド様?!」

「リリアーヌ、どういうことだ?」


 現れたロナルドの姿に、顔面蒼白になるリリアーヌ。

 彼女の傍らにいた男は、慌てて窓から逃げ出していった。


「今の男は誰だ」

「ロナルド様、違うのです!」


 リリアーヌの叫びはロナルドの耳には届かなかった。


(エーリヒが、あの男の子供だと……?)


 言われてみれば、三歳になった息子のエーリヒはロナルドに全く似ていなかった。

 金髪の両親から生まれたというのに、エーリヒは黒髪だった。瞳の色も、榛色の瞳を持つロナルドとは違って茶色だ。

 エーリヒが生まれたとき、「この子は、わたしの祖父母に似ているのですわ」と笑ったリリアーヌを、当時のロナルドは疑わなかった。


「母しゃま〜」

「エーリヒ!」


 部屋に現れた息子の姿に、リリアーヌが叫んだ。

 「あっ! 父しゃまだ〜」と嬉しそうに足に抱きついてきたエーリヒを、ロナルドは冷めた眼差しで避けた。

 床に転がって泣き出したエーリヒを守るように、リリアーヌは抱き締める。


「リリアーヌ、私を騙していたのか……?」

「この子は、ロナルド様の子ですわ!」

「……神に誓えるか」


 低く放たれた言葉に、リリアーヌは口を閉ざした。

 神殿で鑑定を行えば、子どもの血統が露わになる。

 答えないということは、やましいことがあるのだろう――そう、ロナルドは判断した。


「ロナルド様、わたしにはずっとロナルド様だけですわ! 信じてください!」

「エーリヒと共にここを出て行くか、神殿で鑑定を受けるか選べ」


 ロナルドがそう冷たく言い放つと、リリアーヌは震える唇を噛み締めた。どちらを選んでも、邸を追い出されることは決まっている。


「ロナルド様……」


 甘えた声で名を呼ばれたロナルドは眉をひそめた。何より愛おしいと思っていたはずのリリアーヌの姿が、何故かひどく汚らわしいように感じたのだ。

 自分を謀り、どこの馬の骨とも知れぬ男と通じていたと知ったからだろうか。


 そのとき、彼の脳裏に微笑んだヴィオレッタの姿が浮かんだ。

 記憶から消し去ったはずの――何より憎らしかったはずの、忌まわしい亡き妻の姿だった。


(ヴィオレッタ……)


 ――『奥様は、侯爵様をそれは大切に想われていました。たとえ愛人の子だとしても、侯爵様の血を継いだ子を手に掛けようとするなど、なさるはずがありません!』


 涙を滲ませてそう言ったメイド長を、ロナルドは邸から叩き出した。「メイドの分際で、リリアーヌを愛人呼ばわりするな!」と激昂して。


「ヴィオレッタは――あの時、お前は本当に彼女から突き落とされたのか?」


 震える声でそう問うたロナルドに、俯いていたリリアーヌは肩を震わせた。


「……リリアーヌ?」

「あんな、馬鹿みたいに人の良い女が、わたしを突き落としたと本当に信じていたの?」


 歪んだ笑みを浮かべたリリアーヌに、ロナルドは言葉を失った。


「……大嫌いだったのよ。生まれながらのお嬢様で、わたしにまで善人面するあの女が!!」

「っ……!」


 見たこともない邪悪な表情で目を爛々とさせるリリアーヌ。

 「夫の子を身籠った愛人に心からの施しをする妻がいる? あの女よ!!」と憎らしげに喚いたリリアーヌは、エーリヒを抱いてゆらりと立ち上がった。


「リリアーヌ、貴様……!!」

「言っておくけど、わたしは『あの女がやった』とはひと言も言っていないわ。勝手に誤解して、あの女を疑って――見殺しにしたのは、あなたでしょう!?」


 何か言いかけて唇を結んだリリアーヌは、エーリヒを抱き上げると、手近にあった宝石箱を掴み邸を飛び出していった。

 ロナルドは追うこともせず、ただ呆然と立ち尽くした。


(ヴィオレッタは――彼女は……)


 彼の妻はリリアーヌに何もしてはいなかった。

 ヴィオレッタの言葉が――使用人たちの言った言葉こそが、正しかったのだ。


 ロナルドはヴィオレッタの部屋の前まで来ると、力なく扉を開けた。

 使用人が掃除しているのだろう。彼女の部屋は、三年前から寸分も変わらないまま綺麗に保たれていた。


「これは、私たちの……」


 壁には、結婚したときに描かれた肖像画が立て掛けられていた。倒れて破損したのか、金の額は一部欠けていた。

 表情のないロナルドに、幸せそうに笑むヴィオレッタの美しい花嫁姿。

 それを見たとき、ひどく胸を締め付けられた彼はゆっくりと膝をついた。


 傍らには、白いチェストが置かれていた。

 彼は、吸い寄せられるように引き出しの取っ手に手を伸ばした。


(これは……)


 中には、一冊の美しい日記帳。そして、榛色のリボンで束ねられた紙の切れ端と薄茶色の小さな包みが並んでいた。

 訝しげな顔で紙の切れ端に目をやった彼は、手にした日記帳をそっと開く。


『ロナルド様の妻になれるだなんて、わたくしは何て幸せなのでしょう』


 婚約した日から始まった日記には、ヴィオレッタの想いやその日に起きたことなどが綴られていた。

 榛色の瞳を揺らしたロナルドは、震える指で日記帳を捲った。


『今日はロナルド様から素敵な花束をいただいた。わたくしは世界一幸せだわ! 彼との結婚式の日が待ち遠しい』


(ヴィオレッタ……)


 言いようのない罪悪感で、彼は押し潰されそうだった。

 愚かな彼は、初めてそれに向き合うことになったのだ。 


 そして彼女は、「跡継ぎを早く作るように」とロナルドの母親から急かされていた。

 それを薄々感じながら、彼は妻であった彼女と最低限の関わりしか持たなかった。


『お忙しくても、ロナルド様はわたくしを気遣ってくださる。お優しいあの方のためにも、早くわたくしたちの子どもが欲しいわ……』


(……ブレンドティー?)

 

 そのページには、ロナルドがヴィオレッタのために“子宝に恵まれるお茶”を贈るようになったことが書かれていた。

 けれど、彼には一切身に覚えがなかった。


(どういうことだ……)


 ふと、先ほど目にした紙の切れ端と小さな包みを思い出す。


「これは、私の瞳の……」


 震える指で自身の瞳と同じ色のリボンを解くと、紙の切れ端が辺りに散らばった。


 ――『私たちの可愛い子ができるように』

 ――『愛しいお前のことを、いつも想っている』

 ――『私が愛しているのはお前だけだ』


 それは、間違いなくロナルドの字だった。


(リリアーヌ……!!)


 彼は紙の切れ端をぐしゃりと握り潰した。

 それらは、彼がかつてリリアーヌに送った恋文の切れ端だった。


(リリアーヌ、何故こんな真似を……)


 ロナルドは、リリアーヌが彼のふりをしてヴィオレッタに送ったであろう薄茶色の小さな包みを手にした。

 中には、まだ少し茶葉が残っていた。


「っ……!!」


 息を呑んだ彼は目を見張った。


 『妊娠の妨げになる』――包みの注意書きには、異国の言葉でそう書かれていた。


 以前、まだ妊娠する前のリリアーヌが「もし、奥様に子供ができたらどうするの?」と不安げに言っていたことをロナルドは思い出した。

 ロナルドは「彼女とは政略結婚だ。ヴィオレッタに子ができても、お前への想いは変わることはない」と笑って抱き寄せたが、リリアーヌはそれを良しとしなかったのだ。


 そしてロナルドは、「子供も産めないお前のために、彼女がヴァルデン家の跡継ぎを産むんだ!」とヴィオレッタをひどく罵ったことを思い出した。


 ページを捲る度に、彼の顔は一層翳りを帯びていく。

 そうして、新たにページを捲った彼の瞳が大きく見開かれた。


 ――『やっとわたくしのお腹にも赤ちゃんが来てくれた! 花の咲く季節に産まれる、わたくしたちの可愛い子。大切に、大切に育てたい……でも、ロナルド様は喜んでくださるかしら……』


(嘘だ……まさか、そんな――)


 日記帳を持つロナルドの手はひどく震えていた。

 その日、「大切なお話があるのです」とヴィオレッタから言われていたことを思い出したのだ。


 ――『ロナルド様、助けて! 赤ちゃんが!』


 ロナルドが最後にヴィオレッタを見たとき、川の中で彼女はそう叫んでいた。

 あのときは、ロナルドはリリアーヌとお腹の子を守ることしか考えず、ヴィオレッタの言葉などろくに聞いていなかった。


(私は……ヴィオレッタとお腹の――私たちの子を……)


「うわあああっ!!」


 ロナルドは、日記帳と二人の肖像画を抱き締めて泣き叫んだ。


 ――『ロナルド様の妻になれて、わたくしは幸せですわ』


 何も知らず、結婚式の日に微笑んだヴィオレッタの姿が脳裏に浮かぶ。

 どれほど蔑ろにされても、彼女は微笑んでロナルドを待ち、愛人にまで情けをかける健気で善良な妻だったというのに――


「ヴィオレッタには、私の子がいたんだ! ヴィオレッタのお腹には、私たちの子が……!!」


 「私が二人を殺してしまった!!」と狂ったように泣き喚くロナルドに、集まった使用人たちは冷めた眼差しを向けた。彼に同情する者は、ただの一人もいなかった。


 ――それから、一年が経った。


 ヴィオレッタの葬儀が行われてから、四年と半年の月日が流れていた。


 醜聞を恐れたロナルドの両親により、姿を消したリリアーヌとエーリヒは流行り病で亡くなったことにされた。


 かつては、社交界で“金の貴公子”と持て囃され、令嬢たちから『理想の結婚相手』として羨望の眼差しで見つめられたロナルド。

 しかし今や、妻になった女は数年で命を落とす“呪われた侯爵”と噂され、令嬢たちから恐れられるようになっていた。

 故に、彼の両親がいくら手を尽くしても、彼の三番目の妻となる娘は現れなかった。


「ヴァルデン侯爵家は古くからの名門なのよ?! 馬鹿にするのにも程があるわ!!」


 半狂乱で喚くロナルドの母親に、前侯爵である父親はため息を零した。

 元々プライドが高く、良く思われていなかった前侯爵夫妻は立派な鼻つまみ者となり、社交界からの誘いはほとんど来なくなっていた。

 そして、かつての美貌が幻だったかのようにやつれた顔のロナルドは、まるで朽ちた植物のように静かに生きるようになっていた。


(せめて、ヴィオレッタの骨のひと欠片だけでもヴァルデン家の墓に入れてやりたい……)


 ヴィオレッタが川で行方不明になったとき、騎士や使用人たちの意見を無視したロナルドは、南の国境を越えてルークス王国の川辺を捜索させていた。川に流されて消えたヴィオレッタの亡骸を探すためだ。

 探し始めてから一年近くが経つが、ヴィオレッタが着ていたドレスの切れ端も装飾品も、何も見つかってはいなかった。


「侯爵様、今日も見つかりませんでした」

「そうか……また明日探そう。今日は休んでくれ」


 騎士たちを下がらせ、ロナルドは川辺を一人歩いた。

 少し歩くと、川辺には一面の花畑が広がっていた。美しい菫色の花が風に揺れている。

 その色に、彼は亡き妻の微笑みを思い出した――


「あなた!」


 懐かしい柔らかな声に顔を向けると、そこには淡い水色のボンネットにドレスを纏う貴婦人の後ろ姿があった。涼やかな初夏の風に漆黒の波打つ髪が靡いている。


「……ヴィオレッタ?」


 思わず、ロナルドはそう呼び掛けていた。

 菫色の花畑で振り返ったのは、夢にまで見た――亡くなったはずのヴィオレッタだった。

 その腕には、金の髪の愛らしい幼子を抱いている。


「あ……」


 ロナルドは、言葉も出せず涙を零した。


 一年間、毎夜のように夢に見た。

 どうか、どこかで生きていてくれと願い続けた。

 もし会えたなら、今度こそ謝りたいと思っていた。

 彼女とお腹の子に会えるのなら、何だってやると――


 だから――目の前にヴィオレッタが現れた瞬間、ロナルドは自分のやったことすべてを忘れた。


「ヴィオレッタ、よく無事で……ずっと探していたんだぞ」


 「可愛い子だな……髪の色が、私によく似ている」と腕を伸ばしたロナルドに、ヴィオレッタは恐怖に顔を引き攣らせた。


「あなた! 助けて!!」

「ヴィオラ!!」


 颯爽と現れたレアンドロに、ヴィオレッタは震える手で縋り付いた。

 幼子マテオを守るように抱き、見知らぬ男の胸に隠れるように縋るヴィオレッタの姿に、ロナルドの胸は嫉妬に焼き尽くされるように燃え上がった。


「ヴィオレッタ、その男は誰だ?!」


 声を荒げたロナルドに、ヴィオレッタは震えながら首を振った。


「レオ様、知らない人よ! 怖いわ!」

「大丈夫。私が守ります」


 震えるヴィオレッタを抱き寄せ、ロナルドを睨みつけるレアンドロ。

 負けじと睨み返すロナルドを、レアンドロは真っ直ぐに見据えた。


「どなたかは存じませんが、人違いでしょう。私の妻と子に近づかないでいただきたい」

「私はヴェルス王国のヴァルデン侯爵、ロナルド・フォン・ヴァルデン。それは私の妻のヴィオレッタだ! 返してもらおう!」

「……ヴァルデン侯爵?」


 レアンドロの切れ長の瞳が冷たく細められた。


「確か……ヴァルデン侯爵夫人は数年前に亡くなられたと聞いておりますが」


 普段は柔らかな光を宿す水色の瞳の奥には、まるで鋭利な剣先が潜んでいるかのようだった。

 口を噤んだロナルドに、レアンドロは言葉を続ける。


「他人の空似でしょう。ここにいるのは、私の妻のヴィオラですから」

「……私の妻のヴィオレッタに間違いない。その子も私の子だ!」


 ヴィオレッタをじっと見つめ、マテオを力強く指差したロナルドに、レアンドロは呆れたように笑った。


「侯爵夫人が亡くなられたのは、確か――四年半程前でしょう? この子はいくつに見えますか?」


 レアンドロの問いかけに、ロナルドはハッと目を見開いた。

 ヴィオレッタの腕に抱かれている幼子は、せいぜい一歳から二歳程度に見えた。

 もしロナルドとヴィオレッタの子であれば、もう四歳頃になっているはずだ。


「それでは……私の子は……」


 掠れた声で呆然と呟いたロナルドに、レアンドロは静かに歩み寄った。


「冬の川に流されて、お腹の子が助かるとでも?」


 「ヴェルス王国から、彼女がここまで無事に流れ着いただけでも奇跡的なことだったんですよ」と低く囁いたレアンドロに、絶望の表情を浮かべたロナルドは崩れ落ちた。


「あなたのしたことはすべて知っています。……記憶をなくした彼女に、辛い過去を思い出させたくはない。二度と私の大切な妻に――私たちの前に、現れないでください」


 ロナルドを冷たく見下ろしたレアンドロは、ヴィオレッタの元へ戻ると腰を抱いて歩き出す。


「待ってくれ! ヴィオレッタ、私は騙されていたんだ! すべては、リリアーヌが――」


 そのとき、ヴィオレッタが静かに振り返った。

 薄く微笑んだ彼女に、ロナルドの榛色の瞳には期待の色が滲む。

 だが、ヴィオレッタは凍てつくように冷めた瞳で彼を見つめた。


『消えて』


 口元だけでそう告げたヴィオレッタの冷たい声が、ロナルドには聞こえた気がした。


(騙されていたですって? そんなの、もうどうでも良いわ)


 ヴィオレッタの記憶は失われてはいなかった。見殺しにされたあの日、彼女はすべてを捨てたのだ。

 今や、彼女にとってロナルドは消し去ったはずの忌まわしい過去でしかなかった。


「ヴィオレッタ……君は、私をあれほどに愛してくれていただろう?」


 ロナルドは、震える手でジャケットの懐から何かを取り出した。

 その手に握られているのは、くたびれた榛色のリボンだった。


「ほら、君が持っていた私の瞳の色のリボンだよ。……君の日記帳も読ませてもらった。話したいこと――謝りたいことがたくさんあるんだ」


 そう絞り出すように口にしたロナルドに、彼女は汚らわしい虫けらでも見るような眼差しを向けた。


「わたくしは、レアンドロ・アルバラードの妻のヴィオラ。人違いですわ」


 「レオ様、帰りましょう。わたくしたちの邸に」と美しく微笑んだヴィオレッタを、レアンドロはそっと抱き寄せる。

 再び歩き出したヴィオレッタの背中を見つめ、ロナルドは震える手を伸ばした。


「ヴィオレッタ、待ってくれ……!!」


(ヴィオレッタは、もう死んだのよ)


 菫色の瞳が見つめるのは、傍らに寄り添う大切な夫と腕の中の我が子だけ――

 彼女は、過去の忌まわしい記憶を胸の奥底に沈め、歩き出した。

 そして、二度と振り返ることはなかった。


「ヴィオレッタ……!!」


 薄汚れた榛色のリボンは風に飛ばされ、川の流れへと沈んで消えた。

本作をお読みいただき、ありがとうございます。


おかげさまで、総合評価10,000pt超えをいただきました。

読んでくださった皆様、

ブックマーク、評価、リアクション、感想をくださった皆様、

本当にありがとうございます!


【連載版のお知らせ】

短編では描ききれなかったエピソードなどを含めて加筆・再構成し、【連載版】を始めました。

よろしければ、こちらもお楽しみいただけましたら嬉しいです。


https://ncode.syosetu.com/n3302mq/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
不快な記憶は捨てるに限りますよね。 クズ夫の落ちぶれ振りが良かったです!
ロナルドが一番悪いんだが、ヴィオレッタにも問題ありますね。不正は当人だけでなく、環境の問題でもあるというけど、ヴィオレッタが甘やかすからロナルドがつけ上がった面はあるでしょう。愛人の子をいきなり連れて…
リリアーヌちゃん、ロナルドに妻殺し(見捨て)を世間にバラして良いの?って脅したら、侯爵家でもうちょっとぬくぬくできたんじゃないかなあと、思ってしまいました。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ