『主任は家では溶ける』
主任は、怖い。
「数字は嘘をつかないけど、人は簡単に誤魔化すわ」
低い声。高いヒール。隙のないスーツ。
背も高く、姿勢も完璧で、スタイルも良い。
そのくせ名前は万鈴。
可愛い響きが、本人の雰囲気とまるで合わない。
だから部署では、誰も名前で呼ばない。
その名前が、こんなに柔らかいことを、誰も知らない。
「主任、こちら確認お願いします」
「主任、この件ですが」
私も外ではそう呼ぶ。
「主任、資料できました」
「ありがとう、梅子」
さらっと名前で返してくるのが、ずるい。
梅子。
正直、あまり好きじゃない名前。
子どもっぽくて、地味で。
でも、万鈴に呼ばれると、少しだけ特別になる。
その音だけが、私を選んでいるみたいで。
仕事終わり。
同じマンションのエレベーターに二人きり。
扉が閉まった瞬間、万鈴がふう、と息を吐く。
その音は、主任じゃない。
「……もう無理」
「まだ家じゃないですよ」
「あと十秒」
その十秒を、私は数えないふりをする。
部屋の鍵を開ける。
ドアが閉まると同時に、ヒールが脱ぎ捨てられる。
「梅子ぉ」
次の瞬間、ぎゅう、と抱きつかれる。
長い腕が背中に回る。
さっきまで部下を叱っていた手だ。
「主任」
「今は万鈴」
頬を胸元に押しつけてくる。
スーツのジャケットを脱ぐ前に、甘えが始まる。
この切り替えの瞬間が、たまらなく愛しい。
「今日も怖かったですか、万鈴」
「うん」
素直。
「でも頑張った」
「知ってます」
「褒めて」
見上げてくる。
外では絶対にしない顔。
こんな顔を、誰にも見せないでほしいと思う。
「今日も完璧でしたよ」
「もっと」
「え」
「もっと具体的に」
要求が細かい。
「資料も詰めも、全部抜けがなかったです」
「うん」
「あと、立ち姿が綺麗でした」
「そこ?」
嬉しそうに笑う。
その笑顔は、主任ではない。
家では可愛い服に着替える。
今日は淡いピンクのルームワンピース。
「どう?」
くるり、と回る。
長い脚が揺れる。
スーツよりもずっと軽い。
「似合ってますよ、万鈴」
名前で呼ぶと、耳が赤くなる。
「もう一回」
「万鈴」
ぎゅ、とまた抱きついてくる。
体温が移る。
「主任って呼ばれるの、ほんとはちょっと寂しいの」
「みんな怖がってますからね」
「怖いのは演出」
「演出なんですか」
「半分」
半分、という言い方が少しだけ切ない。
ソファに座ると、当然のように膝に頭を乗せる。
長い身体を器用に丸める。
「梅子」
指が私のシャツの裾をつまむ。
「私のこと、ちゃんと好き?」
「急ですね」
「確認」
甘えた声。
でも、その奥に、ほんの少しだけ不安がある。
「好きですよ」
「どのくらい」
「主任が家で溶けるくらい」
「ずるい」
顔を近づけてくる。
鼻先が触れそう。
「梅子も」
「はい?」
「その名前、私は好き」
胸が跳ねる。
外では言わない。
家だけで言う。
その線引きが、くすぐったくて、少し寂しい。
「外では言わないくせに」
「家は特別」
万鈴が起き上がる。
背が高いのに、距離が近い。
「ご褒美、いる?」
「なにに対してですか」
「今日も甘やかしてくれたから」
笑う。
唇が、そっと触れる。
軽く、でも逃げないキス。
主任の顔じゃない。
万鈴のキスだ。
離れたあと、万鈴が満足そうに目を細める。
「明日も怖い上司できる」
「切り替え早いですね」
「梅子がいるから」
その一言が、思ったより重い。
もし私がいなかったら。
その想像を、すぐに打ち消す。
外では鬼。
家では溶ける。
可愛い名前も、甘い声も、全部知っているのは私だけ。
でも同時に、外の万鈴を私は全部知らない。
その距離が、少しだけ怖い。
窓の外、高架線を電車が走る。
明日もきっと、主任は怖い。
私は外で、主任と呼ぶ。
それでもいい。
帰る場所が、ここにある。
溶ける音を、知っているのは私だ。
この街で、また。
明日もきっと、十秒後に。




