『五年前と、同じ席で』
朝の光が、二人で選んだカーテンを透かす。
五年前と、同じ角度だ。
この部屋を借りたとき、彼女は「朝日が入るところがいい」と言った。だから南向きにした。五年前、まだ付き合い始めて間もないころ。
今も光は同じ角度で差し込む。
違うのは、私たちだけだ。
同じ朝なのに、少しだけ遠い。
昨夜、触れ合った。
抱き寄せられて、応じて、キスをして、確かめるみたいに指が滑った。
でも、その途中で私は時計を見ていた。
彼女は気づかないふりをした。
終わったあと、どちらからともなく背中を向けた。
「おやすみ」もなかった。
目を閉じたあと、胸の奥がじわじわと痛んだ。
鋭い痛みじゃない。
鈍くて、ゆっくり広がるような痛み。
このまま、何も言わずに慣れていくのだろうか。
好きが、習慣に溶けていくのだろうか。
ベッドの端に残る体温が、ただの温度になる日が来るのだろうか。
それが、怖かった。
五年前には、想像もしなかった怖さだった。
「先、出るね」
彼女は鏡越しに言う。
「うん」
目が合わない。
洗面台に並ぶ歯ブラシ。キッチンに並ぶマグカップ。
整いすぎた生活が、かえって胸を締めつける。
形は残っているのに、熱だけが薄い。
会社に着けば、いつも通り隣の席だ。
パーテーション越しに、彼女の横顔が見える。仕事の顔。淡々とした声。
「この資料、今日中でいい?」
「うん、お願い」
それだけ。
足が触れても、心臓は跳ねない。
昔は、それだけで一日分の幸せだったのに。
胸の奥にあるのは、静かな不安だ。
昼前、スマートフォンを握る。
何度も打っては消して、やっと送る。
〈今日、話がある〉
既読がつく。
すぐ隣にいるのに、顔を上げられない。
数分が、やけに長い。
喉の奥がひりつく。
〈わかった〉
それだけの返事。
画面が暗くなっても、胸の重さは消えない。
帰宅した部屋は、息が詰まりそうなくらい静かだった。
テレビは消えている。
彼女はソファに座っている。両手を強く握り、視線は床に落ちている。
五年前、告白してくれたときと、同じ手だ。
「おかえり」
「ただいま」
沈黙が落ちる。
時計の秒針が、やけに大きい。
冷蔵庫の低い音。
エアコンの風。
生活の音だけが、やけに鮮明だ。
同じ部屋にいるのに、遠い。
胸の奥が、またじわりと痛む。
言葉が喉で絡まる。
このまま何も言えなかったら、本当に終わってしまう気がした。
“終わる”という言葉が、やけに現実味を帯びる。
私が息を吸った瞬間。
「ごめん」
彼女が、先に言った。
顔を上げた目が、もう赤い。
「最近、冷たかったよね」
「え」
「触るのも、早く終わらせたくなってた」
胸がきつく締まる。
「私のこと、もう、好きじゃないのかと思った」
声が崩れる。
「捨てないで」
涙が一気に溢れる。
「悪いとこあったら言って。直すから」
肩が震える。
「私、重くなってるよね」
その言葉が、深く刺さる。
違う。
重くなったのは、沈黙だ。
言わなかった言葉だ。
五年前の夜を思い出す。
仕事終わりに入った小さな居酒屋。焼き鳥の煙。グラスの氷の音。
『好きです』
あのときの彼女は、真っ赤な顔で、それでも逃げなかった。
毎日隣の席で会っていたのに、ちゃんと言葉にしてくれた。
あの勇気に、私は救われた。
「違う」
私は彼女の前にしゃがむ。
「終わらせるつもりじゃない」
声が震える。
「このまま終わるのが、怖かった」
涙が落ちる。
「好きが、作業になるのが嫌だった」
触れることが、確認になるのが嫌だった。
言わなくてもわかると思って、怠けた。
傷つくのが怖くて、先に諦めかけた。
「五年も一緒にいるのに」
彼女が涙を拭いながら、少し笑う。
「全然、大人の付き合いできてなかったね」
その言葉で、胸の奥の痛みが少しほどける。
本当だ。
五年も経ったのに、まだ怖い。
だから、ちゃんと好きなんだと思う。
「じゃあさ」
彼女の手を握る。
温度が、ちゃんとある。
五年前と、同じ温度だ。
「ここから、やり直そう」
好きも、不安も、ちゃんと言う。
溜めない。
逃げない。
「今も、好きだよ」
ゆっくりと距離が縮まる。
涙の跡が残る頬。
そっと触れる。
深くないキス。
でも、胸の奥の痛みが静かに溶けていく。
離れたあと、彼女が小さく息を吐く。
それが、安堵の音だとわかる。
私も、ようやく息ができる。
五年目で、やっと同じ方向を向いた気がした。
外で電車が走る音がする。
街は変わらない。
隣の席も、南向きの窓も、明日もきっと同じ。
でも。
同じでいるために、言葉がいる。
胸の奥に、ちゃんと温度が戻っている。
ここから、二人で大人になっていく。
五年後も、同じ席で笑えるように。
この街で、また。
次の五年も、隣にいられますように。




