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『春は、追いかける側で』

 川沿いの桜は、今年も変わらず咲いていた。

 けれど、同じ春は二度と来ない。


 薄い花びらが風に乗って舞い、ゆっくりと水面に落ちる。高架線を走る電車の振動が、かすかに足裏へ伝わる。この街の春は、毎年同じようで、少しずつ何かが変わっている。


「先輩」


 背中に落ちたその呼びかけに、足が止まった。


 先輩。


 その二文字が、胸の奥をくすぐる。


 振り返る前から、誰かわかっている。

 けれど振り返るまでの数秒が、妙に長い。


 ゆっくりと視線を向ける。


 紺のブレザーに、新しい校章。まだ布が硬そうな制服を着て、彼女は立っていた。


 少し背が伸びた。

 もう、簡単には見下ろせない。


 顔つきも、前より輪郭がはっきりしている。


 なのに、目は同じだ。


 昔から、私をまっすぐ見る目。


 ――違う。


 まっすぐだけれど、質が違う。


 昔は「信頼」だけだった。

 あの頃は、時間が止まっていると思っていた。


 今は、そこに何かが混ざっている。


「入学式、終わりました」


 声も、少し低くなった気がする。


「……おめでとう」


「ありがとうございます、先輩」


 その言い方が、くすぐったい。


「その呼び方、やめてよ」


「どうしてですか」


「なんか、変」


 昔は違った。


「お姉ちゃん」と呼んで、私の後ろを小走りで追いかけてきた。


 夏祭りで人混みに怖がって、袖を掴んだ。


 自転車に乗れなくて泣いて、私の背中に顔を押しつけた。


『お姉ちゃん、離さないで』


 その声はまだ耳に残っている。

 あの小さな手の重みも。


「もう言いませんよ」


 彼女は静かに言う。


「お姉ちゃん、は」


 胸の奥が、わずかに痛む。


 守らなくてはいけない存在だったはずの子が、自分から線を引いた。


 それが寂しいのか、安心なのか、わからない。


 並んで歩き出す。


 堤防の道は、夕方の光で白くにじんでいる。


 触れていないのに、距離が近い。


 昔の無邪気な密着とは違う。

 意識して保たれた、近さ。


「制服、似合ってる」


 そう言うと、彼女は少しだけ息を詰めた。


「どういう意味で?」


「普通に」


「女の子として?」


 言葉に詰まる。


 視線が自然と、彼女の喉元に落ちる。細い首。春の光に透けるような肌。


 ちゃんと、女の子だ。


 当たり前のことなのに、今さら気づいたみたいに胸がざわつく。


「……前から女の子だったでしょ」


「そういうことじゃないです」


 彼女は一歩、近づく。


 ほんの数センチ。

 でも、その距離が重い。


「先輩は、まだ私を子どもだと思ってますよね」


 否定しようとして、できない。


 守ってきた時間が長すぎる。


 お姉ちゃんと呼ばれてきた年月が、染みついている。


「覚えてます?」


 彼女が足元のひび割れを指差す。


「ここで転んだこと」


 思い出す。


 小さな膝から血がにじんで、涙でぐしゃぐしゃになった顔。


 あのとき私は、迷いなく手を握った。


「離さないでって、言いましたよね」


「……言ってた」


「今は」


 彼女の指が、私の袖をそっと掴む。


 昔と同じ場所。

 でも、力の入れ方が違う。


 縋るのではなく、確かめるように。


「離さないで、とは言いません」


 代わりに、彼女は目を逸らさない。

 逃げないという選択をしている目だ。


 指先がわずかに震えている。


 それでも、離さない。


 恥ずかしいのだと、わかる。


 それでも掴んでいる。


「今年は、私が追いかけます」


 声は小さい。

 けれど、揺れない。


 胸の奥が、熱を帯びる。


「ずっと、追いかけてましたから」


 高架を電車が通り過ぎる音が重なる。


 逃げればいいのに、足が動かない。


「子どもじゃないです」


 一歩、さらに近づく。


 息が触れる距離。


 桜の匂いと、彼女の甘い息が混ざる。


「ずっと、好きでした」


 その言葉を、いつか聞く日が来ると、どこかでわかっていたのかもしれない。


 好き。


 幼馴染の延長ではない響き。


 頭が追いつかない。


 でも、身体は理解している。


 彼女の目は、逸らさない。


 恥ずかしさが混ざっている。

 頬が赤い。

 けれど逃げない。


 決めた人の目だ。


「見てください」


 顔が近づく。


 ほんの数センチ。


 まつ毛の影まで見える。


 触れる、と思った瞬間。


 時間が止まる。


 風が止み、音が遠ざかる。


 彼女の息遣いだけが近い。


 柔らかい感触が、唇の端をかすめた。


 ほんの一瞬。

 境界が曖昧な場所。


 熱だけが残る。

 取り返しのつかない春の匂いがした。


 離れたあと、彼女は視線を少しだけ逸らした。


 耳が赤い。


「……未遂です」


 声がわずかに震えている。


「ちゃんとするのは、また今度」


 それでも、言い切る。


 袖を離す。


 数歩先へ進む。


 背筋はまっすぐだ。


「先輩」


 振り返らないまま。


「お姉ちゃんじゃないですから」


 胸が強く打つ。


「今年は、私が追いかけます」


 夕方の光が、その背中を包む。


 もう、小さくない。


 守るだけの距離ではいられない。


 足が、自然と前に出る。


 一歩。

 もう一歩。


 距離はまだ少しある。


 でも遠くない。


 この街で。


 高架線の影と、桜の匂いと、春の風の中で。


 追いかけられる側に立つのも、悪くないのかもしれない。


 でも、追いつかれたとき、私はどんな顔をするのだろう。


 いちばん近いのは、きっと。


 彼女だ。

 この街のどこかで、また。

 来年の春も、同じ距離でいられるとは限らないけれど。

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