第76話 おとうさん
少年少女たちは女神の奇跡に触れようと毎日教会に向かった。
人間のようにも見える。だが彼女の力は農作物の実りを豊かにし、疫病からも村を救った。だからやはり彼女は女神なのだ。ただ、口がきけないと言うだけで。
村人は彼女の言葉を聞く機会がなかった。シスターが名前を聞いた際にうわごとのように「アナスタシア」と答えただけ。
それでも少年少女たちはアナスタシアのもとに行った。たまにしか彼女はいないのだが、いたら彼女に最近の出来事を話した。彼女がにっこりをほほ笑むだけで幸せな気分を感じることが出来た。
アナスタシアは少年少女のために祈りを捧げてくれた。そのたび彼らは頑強な肉体、それに精神の強靭さを手にできた気がする。かれらの内でひとりレオンだけはアナスタシアの祈りを受けなかった。
「女神さまは俺が守る。俺は守られる方じゃなくて守るほう」
レオンはそう言って笑い、少年少女たちは逞しく成長していった。
ところがある時からアナスタシアの姿を見かけなくなる。3年ほどの間だ。帝国の軍隊がやってきた。そこにアナスタシアがいた。ノルド・イーマと言う巫女を連れて。ノルドはジータ・イーマの遠い親戚、そして巫女の家系の傍流だ。
ノルドは口のきけないアナスタシアの言葉を民衆、村人に伝える役割を担っていた。念を通じてアナスタシアの言葉を受け取るのだと言う。
「女神様、俺だ、覚えているか、レオンだ」
アナスタシアは間に立つノルドを押しのけてレオンにハグした。レオンは一層たくましく、背も既にアナスタシアより高い。頼りがいのありそうな筋肉質の肉体。逆にレオンがアナスタシアを包み込む。日焼けして太くてごつい腕。アナスタシアの胸が高鳴った。人間のメスも遺伝子的に遠いオスとの交配を望むと言う。それはより多様な遺伝子を取り込み、後世に残そうとするメスの本能。より多くの遺伝子情報を取り入れた子孫は、よりたくさんのことに対応できるのだ。アナスタシアにそういう本能が合ったかどうかは分からない。だが彼女には天人の男性よりもレオンに異性の魅力を感じた。異性、或いはもっと原始的な、本能的な意味で交配相手として。
レオン、そして彼の幼馴染のかつての少年少女。リィド、バルトロ、キーラ。彼らはアナスタシアの軍に加わった。
ゾンビによる蹂躙で国土は荒れ、民心は離れ、軍隊の維持も問題が生じている。西ゲルニアは窮した。北方はフンバ族を懐柔し、国境を脅かさせているが、彼らが成果をあげたところで西ゲルニアの利益にはならない。ただ主力を引き付けておきたいのだが、コンテッサ・ブラックナイツはアヴァロン周辺に留まっている。
アナスタシアが地理に詳しいものを編成して敵陣に向かった。それに対しても西ゲルニア宮廷は懐疑的だった。
200人を四隊に分け、合計800人の部隊は明け方にトライアドに向けて進出した。朝日が山の端から顔を出している。馬に乗った男が林に隠れたこちら側を見ている。
「気づかれた、始末しろ」
追手がやってきたのを見て男は逃げた。
「閣下!」
向こうから来たのはヒルダだ。
「バカ、何で来た!」
「バカは無いでしょ!心配で来たのに!」
言い合っている暇はない。
「に、逃げろぞ」
「は、はい」
敵は本気で追いかけてきた。ここで隠密行動を敵に通報されたら作戦は失敗だ。ヒルダが仕方なく攻撃魔法を放ち応戦した。たぶん人が死んだ。初めて人を殺した。胃から競りあがってくるものを必死に飲み込む。敵が数体倒れる。
だが先回ししていた敵の数騎が縄を使って二人の馬を転倒させることに成功した。
敵はさっきみた魔法を警戒し、迂闊に近づいてこない。じりじりとしているうちに主力がやってきた。
「俺はこの隊の隊長リィド。ここからほど近い、バヌ村の出身だ。君たちに敵意はない。しばらくの間じっとしていてもらうだけだ。投降してくれ」
リィドの言葉にウソでは出せない切迫した気配がある。
東西に分割された今でこそ国境の内と外になったが、もともと隣村程度の地理感覚だ。だが。
ここで彼ら投降すれば奇襲を受ける。一方、しばらくすれば見回りが来る。敵は200人ほどだ。すぐに見つかる。
「投降なんかしないわ。引き上げなさい。そうすれば誰も傷つかない」
ヒルダが堂々と言った。正論だ。そうだ、誰も傷つかない。
リィドはこの空気が拡がる前に捕縛を命じた。向かった兵士が魔弾を受けて倒れる。
「怯むな、包み込め」
包囲して全方向から迫ってくる。
「か、閣下」
このままでは捕縛される。
「撃て、撃てえ」
これは戦争なのだ。戦争の最中なのだ。そこから目をそむけては何もできない。今だけ正しいことがある。それをやれ。
「トライアド」
星雨にトライアドの複合連携魔術。それにゼビルが詠唱を重ねた。
「トライアド」
三倍をさらに三倍。
使えたの?閣下!
1000発近い魔弾が敵を薙ぎ払った。敵部隊は一瞬で全滅。ひき肉をまき散らせばこんな光景になるだろうか。血生臭さと赤い霧が立ち込め、地面には赤黒いドロドロ。そこから骨と思しきものが無数に突き出ている。
「わしには常にトライアドかかっている」
初耳だ。彼はヒルダに単に呪文と知識を伝えただけなのではなかった。その禁呪を習得していたのだ。
「耳が聞こえないんだ。小さい頃の熱病でな。それを不憫に思った師匠、お前の父がわしにトライアドを応用した聴力強化の魔法をかけてくれたんだよ。師匠が魔法をかけてわしが維持する。二人で研究したんだ。わしがまだ子供の頃だ。それを一旦切ることでわしもトライアドを使える」
そうだったのか。尊敬してやまないセビル閣下。彼の秘密。想い。父がゼビル閣下にしたように、ゼビル閣下も自分の面倒を見続けてくれた。新手が目の前に迫る。憎悪の炎を瞳に灯して。
「俺はバルトロ。リィドの仇、思い知れ」
二人相手に200人が突撃してくる。
レベル4ポゼッサーを超える禁呪の詠唱者が同時に二人。魔法というカテゴリーにおいては世界最強の軍隊。たった二人の軍隊。
突撃してきた200人が魔弾の雨で一瞬にして血煙に変わった。文字通り赤い霧が立ち込める。先ほどまで人間だった者たちのなれの果てだ。
馬を失い、二人は歩くしかなかった。どれほども歩かないうちに追いつかれた。追いついた敵はキーラと名乗っている。ゼビルは魔力が切れて聞き取れない。それをヒルダが教えてやった。
敵は二人を包囲し、弓を構えさせた。包囲した敵部隊は弓隊だ。
包囲された中心で魔力の切れた二人が抱き合う。すでにスペルは尽きている。
「ありがとう、お父さん」
聴力を魔力で補っていたゼビル。間近で囁かれたその言葉、魔力の切れたゼビルに聞こえたか、聞こえなかったか。そのことは分からない。だが。より重要なのは聞こえたか、聞こえなかったかではなく、言ってくれたか、言ってくれなかったなのだ。ヒルダはきちんと言葉にした。その関係性を明確にした。その絆は本物の親子とどれほどの違いがあるものか。
野心に燃えてギラギラしていた頃のエステバル。その彼が見込んだ通り、ゼビルはオレルネイアの宰相に上り詰めた。それもただのオレルネイア王国ではない。名君を戴き、王国史上、もっとも強い時代のオレルネイアの宰相だ。ゼビルはその時々、望んだものを結局全て手に入れた。たとえ、後から失うにせよ、だ。
師匠の名誉の回復は、その実の娘が果たした。ムーンストーンは再興した。師匠がゼビルに対し、そうであったように、師匠の娘に慈しみを与えた。その機会を得た。大陸の半分を版図に持つ巨大国家の宰相になった。学校を復活させた。彼が思い描いた通り、子供たちの笑い声に溢れる学校だ。そして、結婚はしなかったが美しく聡明な娘を持った。望外のものまで彼は得た。それほどの男が今は包囲され、このざまだ。どうしても一つだけ脇が甘い。
それ故に愛され、彼に味方が多かったことを考えれば、その脇の甘さでさえ彼の長所ではあるのだが。
キーラ隊ほか4部隊は距離をとって行軍した。発見された場合の全滅を避けてのことだ。結果的に一陣、二陣が各個撃破されたが結果的にはこれでよかった。ゼビルたちのあとちょっとだけ実戦の経験あったら、こうはならなかった。或いは800人全員そろっていたら、たった二人に全滅させられたのだ。彼らの実戦での経験不足が最初の400人でスペルを使い果たさせた。
キーラは距離を保ったまま叫んだ。
「射てえッ」
抱き合ったままハリネズミになった二人。
西ゲルニアの最後の渾身の一手、敵国首都急襲作戦は失敗した。たった二人の手によって。




