第7話 ハーフエルフは、一人で歩く。
テルヴァンの街は、石造りの街道と高くそびえる鐘楼が特徴的だった。陽の光に照らされ、淡く輝く石畳の上を歩くと、足音が心地よく響いた。通りを埋め尽くす人々の声や、露店の喧騒が街の活気を伝えている。北方の険しい峠を越えてようやく辿り着いたこの交易都市は、まるで生き物のように息づいていた。季節は初夏、穏やかな風が市場の布を揺らし、花の香りを運んでくる。
街の中央にある大きな噴水広場では、いつも誰かが声高に演説をしていたり、薬草を売る行商人が掛け声を張り上げていたりした。その喧騒の中、私はゆっくりと足を踏み入れていた。人混みの熱気が肌に伝わり、頭の奥に残る旅の疲れを少しずつ溶かしていく。
グリンダとデールが借りていた古びた一室――木の床はきしみ、ところどころ塗装が剥がれているが、それが逆に温かみを感じさせる。窓からは潮風がほのかに吹き込み、潮騒の音が遠くに聞こえた。狭くても、その部屋は確かに私たちの「家」となった。旅商人として動くには、街に「戻ってくる場所」が必要だったのだ。
季節はゆっくりと巡り、いつの間にか私の髪は胸元まで伸びていた。一方、グリンダとデールはほとんど変わっていない。そんな変化の差に、ふと自分の成長を感じると同時に、不思議な孤独感が胸をよぎる。
私は相変わらず薬を作り続けていた。市場に並ぶ薬草の見極め方を覚え、保存用の調合を工夫し、旅先での応急処置に使える薬も試行錯誤で改良していく。地道な作業だったが、それがいつしか一つの生き方になっていた。薬草の持つ香りや触感、色の微妙な違いに敏感になり、目の前の小さな命を救うことに意味を見出していた。
時には、グリンダと共に南の港町まで足を伸ばし、珍しい薬草や魔法の素材を求めることもあった。ある時は、デールと山を越えて珍しい鉱石や菌類を仕入れる旅にも出た。険しい山道や深い森を越える中で、互いの信頼は少しずつ形を変え、強くなっていった。
三人の間にあったのは、いつしか「契約」でも「打算」でもない、言葉にできない確かな信頼だった。互いの背中を預けることができるという安心感。それは長い旅の中で培われた、何にも代えがたい宝物だった。
魔法は、必要なときにだけ使っていた。戦うためではなく、傷ついた者を助けるための力として。かつての自分が忘れていた「静かな日々」を、少しずつ思い出していくようだった。
テルヴァンの空は、どこまでも広かった。旅の途中で見上げた空とは違い、ここから見る空には「帰る場所」があるように思えた。高く澄み渡る青空は、胸の奥にあった焦燥を少しだけ和らげてくれた。
それでも、心のどこかにはずっと、ひっそりとした焦りのようなものがあった。このままでいいのか。私は何をするために生き延びて、そしてどこへ向かっているのか。そんな問いが、眠れぬ夜の闇に溶け込んでいく。
だけど、そんな問いも、日々の忙しさに紛れて、夜が明ければまた遠くなる。薬草を干し、荷をまとめ、今日もまた誰かのもとへ薬を届けに行く。繰り返される日常の中で、私は少しずつ自分の居場所を確かめていた。
胸の奥に、いつも小さな影がある。それは焦りかもしれないし、不安かもしれない。けれど、今はそれを無理に見つめなくていい。ただ、静かにここにいる自分を感じるだけで十分だと思った。
ある日の夕暮れ時、三人は古びた部屋の中で談笑していた。温かな夕陽が窓から差し込み、床に長い影を落としている。
「ミホ、そろそろ次の仕入れに行くかい?」
グリンダの言葉に、私は顔を上げてゆっくりと頷いた。
「そうね。準備は整ってる」
デールは腕を組みながら少し笑い、
「お前ら、ずいぶん頼もしくなったな」と言った。
その言葉に、胸の奥でじんわりと温かいものが広がる。これまでの苦労や、誰にも気づかれない努力が報われた気がした。
けれど、その温かさの裏には、まだ言葉にできない何かが隠れている。心の奥底で、何かが静かに揺れているのを感じていた。
私はふと窓の外に目をやった。夕焼けの空が茜色に染まり、風に揺れる草木が静かに囁いている。変わらない日常の中で、私はこれからの未来に思いを馳せた。
まだ、言葉にできない気持ちは、胸の奥に静かに沈めておく。自分でもよく分からないこの感情に、そっと名前をつける日が来るとしたら——それはきっと、もう少し先のことだ。
そして、この時の私は知らない。
これから、自分にとって大切な人に出会うこと。
サタンとの戦いに巻き込まれていくこと。
そして、世界の真実に近づいてしまうことさえも。
私の旅は、まだまだ続く。