第6話 ようやく、前を見たのね
風が変わった。
歩き慣れたはずの山道も、この一歩を越えた瞬間から、空気の質が違うように感じられた。冷たく乾いた風が頬を撫で、鼻の奥に、土と石と古い魔力の匂いがかすかに入り込む。
「……着いたみたいだな」
デールがぼそりと呟いた。
視界の先、うねるように連なる山々が空を遮り、まるで巨大な獣の背骨のようにごつごつと屹立していた。岩肌は灰色に近く、ところどころに氷のような結晶が張りついている。
左右対称の石柱には、無数の古代文字が浮かび、淡く青白い光を脈打たせていた。風もないのに、その光はかすかに揺れ動いている。まるで、山が呼吸をしているようだった。
これが、アーラ山脈。
南と北とを分ける“境界線”にして、古くから試練の山と呼ばれる場所。
私はしばし言葉を失っていた。こんな場所に足を踏み入れるのは、初めてだった。
だけど、どこか懐かしい感覚もあった。
「空、重いね」
グリンダがぽつりと言った。
見上げれば、薄く雲が流れ、陽はかすんでいた。魔力の濃度が高い場所では天候すら歪むという。空の色は、それを物語っていた。
「この先には、ただの山道じゃない“何か”があるらしい。……魂を試す場所だってな」
デールの口調には、いつもの軽さがなかった。
私はそっと自分の胸に手を置く。
魔力が脈打つ。静かに、けれど確かに、山の気配と呼応しているようだった。
来た意味を、今さらながら問い返す。
本当にここでいいのか? 私が足を踏み入れても、試される資格なんてあるのか?
「……怖いのかい?」
不意に、グリンダの声がした。
私は驚いてそちらを向くと、彼女は笑っていた。相変わらずの堂々とした笑み。
「ミホが怖がるなんて珍しいね。いつもどこか一歩引いて、冷静でさ」
「……怖いというより、変な感じ。今までにない感覚」
「そりゃ、当然だろうさ」
デールが岩に腰を下ろしながら、肩をすくめた。
「ここはただの道じゃねえ。山が選ぶんだ。登る者を、試す者を」
「試す……」
私は、もう一度山を見上げる。
霧が揺れていた。岩の影が、何かの姿に見えた気がした。
呼ばれている。そんな気がした。
「行こう」
私はそう口にした。
言葉にすることで、ようやく心が決まる。
この場所で、私は何を試されるのか。
逃げてきた過去か、力への恐れか、それともーー
初めて「誰かと歩く」ということそのものか。
***
山は静かだった。
けれど、その静けさの奥に、確かに何かが目を覚ましていた。
アーラ山脈の内部に足を踏み入れてから、すでにどれほどの時が経っただろう。
青白く光る石の道を進んでいた私たちは、突然、開けた空間に辿り着いた。そこには天井のない広間があり、淡く輝く三つの魔法陣が床に描かれていた。
「……ここ、何か空気が違う」
私がそう呟いた直後だった。
《融合の試練。心と力、共に在るかを示せ》
頭の中に、声が響く。どこからともなく、直接脳に注ぎ込まれるような響きだった。
「融合……?」
デールがごつごつした手で頭をかく。
「魔力の融合ってやつか? 俺らみたいなドワーフ族には、ちと荷が重いんじゃねぇか?」
「いや、たぶん……これは“気持ち”の試練だよ」
グリンダが真顔で言った。彼女の緑の肌には、うっすらと冷や汗が浮かんでいる。
それぞれの魔法陣に立った瞬間、世界が反転した。
次の瞬間、私は“誰かの”感情の渦に呑み込まれていた。
目の前に浮かぶのは、いくつもの記憶の断片だった。
真っ暗な坑道で、仲間を探して叫ぶ声。背中を向けて去っていく誰か。どこかの夜、濡れた地面の上でただ立ち尽くす緑の手。
――これは、デールとグリンダの記憶?
けれど、同時に彼らも、私の心を覗いていた。
ぼろぼろの服。冷たい視線。誰からも求められなかった時間。
無数の扉を閉ざし、心を硬く閉じ込めて生きてきた、私の過去。
重たく、苦しい。
彼らが私を見る目が、変わってしまうんじゃないかと、怖かった。
……無理、だ。私は、誰かと心を繋げるのが、一番……苦手。
その時、ふと、感情の中に“手”が伸びてきた。
暖かくて、たくましくて、ごつごつした、ドワーフの手。
「お前さん、そんな顔すんじゃねぇよ」
声がした。デールの声。けれどそれは、心の中に直接届いてくるような声だった。
「……泣きたいなら泣け。怒りたいなら怒ればいいんだ」
「……グリンダ……?」
もうひとつの声。澄んだ声。優しいけど、強い。
「ミホ。あんたは、ちゃんとここにいる。あたしらもここにいる。……だったら、それで充分でしょ?」
彼女の記憶が重なって、私の中に流れ込んでくる。かつて裏切られた誰か。信じた結果、奪われたもの。でも、それでも手を差し伸べてくれる――。
……どうして、そんなふうに……
「お前さんが、俺たちを“信じてくれた”からだよ」
その瞬間、心の奥で何かが緩んだ。
言葉にならない想いが、形になる前に、視界がゆっくりと白く染まっていく。
目を開けると、三人はそれぞれの魔法陣の中央に立っていた。
けれど、さっきまでよりもずっと近くに感じる。距離ではなく、心の感覚。
「……ミホ」
グリンダが笑った。
「ちゃんと、繋がったね」
「……ああ」
デールも頷く。
その笑顔を見て、ようやく私は、小さく息を吐くことができた。
心を交わすことは、まだ怖い。だけど。
この一歩だけは、確かに、踏み出せた気がした。
試練の空間に、再び声が響く。
《融合、完了。共に在ることを認め、次の試練へ進め》
光が魔法陣を包み、扉がゆっくりと開かれていった。
***
扉の向こうに進んだとき、気づけば私はひとりだった。
「グリンダ?デール?」
石畳の通路は、やがて高くそびえる一対の扉へと続いていた。その前に立った瞬間、またあの声が響く。
《対峙の試練。魔術と知識、それを用いて己を制す者のみが先へ進める》
ゆっくりと、扉が開かれる。
中に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。冷たい、でも澄んでいて、肌を刺すような緊張感がある。
空間の中央には、一人の少女が立っていた。
……いや、それは私だった。
かつての、何も知らなかった頃の私。ぼろをまとい、膝を抱え、周囲を睨むようにして立っていた。
鋭い眼差し。誰にも頼らず、誰にも頼れず、ただ自分の力で生きていこうとしていた、あの頃の私。
「……試練って、まさか」
気づいた時には、その“私”が、手をかざしていた。次の瞬間、足元の地面から無数の毒草が伸び、絡みつこうとしてくる。
「っ……!」
私は即座に跳躍し、魔法を展開した。指先から光の火花を散らし、空気中の水分を操って氷の刃を作り出す。けれど、それを見た“過去の私”も、全く同じ動きで応じてきた。
鏡写し……!
魔力も、技術も、同じ。けれど違うのは、その「心」。
「ねえ、どうして裏切ったの?」
“私”が呟いた。声は低く、鋭い。
「人を信じるって、あなたにそんなことができるの?」
薬草が、さらに太くなって襲いかかる。私は風を巻き起こし、反射的にそれを吹き飛ばす。
「信じた人に裏切られて、何を得たの? あなたが今まで磨いてきた薬術も、魔法も、本当に誰かの役に立った?」
問いかけは攻撃よりも重たくて、正面から受け止めると息が詰まりそうになる。
……そうだよ。私の知識は、自分のための鎧だった。誰かに頼らなくていいようにするための……
それでも。
「でもね」
私は静かに手を掲げた。
「たったひとりでも、私を信じてくれた人がいたの。何も聞かずに、ただ一緒にいてくれた」
ミレオの顔が思い浮かぶ。あの優しい目、焦げた鍋を見て笑った横顔。
「……だから、私はもう、逃げない。私の知識も、魔法も、薬術も、全部、今の私が選んできたこと。誰かのために使いたいって、やっと思えたから!」
私が構えた瞬間、過去の“私”の動きが止まった。
そして、すっと笑った。
「ようやく、前を見たのね」
その身体がゆっくりと光に溶けていく。まるで、ずっと背負っていた影がようやく晴れていくように。
《対峙、完了。次の扉を開け》
再び声が響いた瞬間、私の前に新たな扉が出現した。重厚な石の扉の奥から、遠くに、地を揺らすような咆哮が聞こえた気がした。
大丈夫、今の私は、もう「ひとり」じゃない。
***
広間に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
無数の魔力が絡まり合い、石壁に刻まれた古代文様が青白く脈動している。その中心に鎮座するのは、一体の異形の魔獣だった。
黒曜石のような体表、六本の脚。頭部は二つあり、一つは吠え、もう一つは絶え間なく詠唱のような音を発していた。
「……これが、最後の試練」
私は前に出た。今までの旅路で、魔法を使ったことは幾度となくある。でも、“誰かと一緒に戦う”のは、これが初めてだった。
もう迷わない。私は、守る。
魔獣が咆哮を上げた瞬間、魔力を放つ。地面を這うように光が走り、無数の鎖が足元から伸びて、魔獣の脚を絡め取った。逃げようと暴れるが、鎖は食い込むように締まり、動きを鈍らせていく。
その隙を逃さず、デールが大斧を担いで突進した。
「よし、いっちょやってやらぁ!」
斧が魔獣の右脚に叩き込まれると、骨の砕ける音が響き、岩壁までも震えた。
「援護するよ!」
グリンダが小瓶を取り出し、魔力を補う青い液体をデールに投げ渡す。それを口にすると、デールの気迫がさらに増したのがわかる。
グリンダ……薬師としても、戦士としても有能だなんて。これは心強い。
私は再び魔力を練る。熱が手のひらに宿り、天井から炎の槍が無数に降り注ぐ。魔獣の第二の頭が焼け爛れ、金切り声のような悲鳴が上がった。
けれど──それでは終わらない。焼けただれた口から、黒い瘴気が噴き出す。空気が重く濁り、一歩でも遅れれば肺が焼かれそうなほどの毒。
「来るよ!」
魔力を両手に集中させ、光の結界を展開。淡い輝きが三人を包み、瘴気を押し返した。けれど、完全に防ぎきれたわけじゃない。
「ぐっ……すまねぇ、ちょっと喰らった……!」
デールが膝をつく。すかさずグリンダが駆け寄り、薬瓶を開ける。
「はいはい、毒解除薬! 飲んで動きな!」
「ありがてぇ!」
そのやりとりの間にも、魔獣は足を引きずりながら近づいてくる。頭部はまだ両方生きていた。
「ミホ、もう一発!」
「……うん、今度は決める」
私は目を閉じ、深く息を吸う。呼吸とともに、光と雷が混ざり合うような魔力が体内を駆け巡り、指先へと集まっていく。
その瞬間、空間がわずかに歪み、無数の光の剣が浮かび上がった。雷を帯びた光刃が、私の意志とともに一斉に射出される。
突風のような衝撃と共に、剣が魔獣の胸部を貫いた。
閃光。衝撃。そして、沈黙。
その隙を逃さず、デールが吼える。
「今だぁあああっ!」
全力の一撃。斧が魔獣の首を叩き落とし、ようやくその体は崩れ落ちた。
……静寂。
「ふぅ……やった、か?」
「やったさ」
グリンダが疲れたように笑い、私はその場にへたり込みそうになりながらも、踏みとどまった。
こんな戦いが、できる。私にも……。
今まで逃げていた。でも、今日は逃げなかった。
誰かのために戦って、誰かと力を重ねて、目の前の敵を倒した。
その重さと温かさが、私の胸を満たしていく。
《共闘、完了。三つの試練を越えし者に、通行を許可する》
壁が開く。新たな光の道が、南へと続いていた。
アーラ山脈の試練は本編でも登場しますが、その試練の内容は同じに見えて時代と共に変化すると言われています。
試練自体は本来はもっと重みがあり尺も長いのですが、今回は軽く読めるように展開を早めています!