第5話 また戻ってきてもいい?
静かに流れていた日々に、不意に風が吹き込んだ。
ある日の午後、薬房の扉が静かに開き、二人の旅人が姿を現した。
「よぉ、有名な薬屋ってのはここか?」
ずしりと地鳴りのように響く足音。背の低い、丸い鼻の男が立っている。長い髭を撫でながら、じっとこちらの様子を見つめていた。
ミレオが穏やかに応える。
「いらっしゃい。有名かどうかはさておき、何の薬をお求めかな?」
男の背後から、肌が緑色で赤く結った髪を高くまとめた、スタイルのいい女性が顔を覗かせた。
「ここで『ヴェリュシアの涙』という薬を扱っているかい?」
聞いたことのない薬の名に、ミレオは眉をひそめる。
「それは聞いたことがないねぇ……少し待っていておくれ。ミホ?ちょっと頼むよ」
戸惑うミレオをよそに、私は静かに立ち上がった。
カウンター越しに彼らの瞳をじっと見つめる。初めて見る鋭い瞳は、どこか見慣れた空気をまとっていた。
「ヴェリュシアの涙……確かに存在する」
言葉は短く、しかし揺るぎなかった。薬草を取り出し、迷いなく調合を始める。
こんな薬を求める者はそうそういない。それに、この二人からただ者ではない気配を強く感じていた。
作業を進めながら、私の中で何かが静かにざわめき始める。
やがて、二人の表情が変わった。隙間から私を観察するようにじっと見つめる視線に少し緊張しながらも、私は薬を完成させた。
「はい、これがヴェリュシアの涙」
薬を差し出したその瞬間、デールの声が響く。
「やはり……お前が噂の魔法使いか」
その言葉が胸に刺さり、心臓が跳ねた。噂?一体、どこから?いつ?
困惑する私を見て、二人はますます確信を深めたように頷き、揃って言った。
「俺たちと一緒に来てくれないか。お前の力が必要だ」
突然の申し出に、目をぱちぱちと瞬かせた。初めて見る者たち。名前も顔も、目的もわからない。
「あなたたち、誰なの?」
問いかける私に、大きな笑い声が返る。
「すまんな!先に名乗るのが礼儀だったな。俺はデール、ドワーフ族の旅商人だ!それからこっちがーー」
「グリンダ。同じくドワーフの旅商人だよ」
芯のあるはっきりした声で、グリンダは手を差し出した。緑色のしっかりとした手が、私の前に伸びる。
悪意は感じられなかったけれど、その手を握ると何かが動き出しそうな気配があった。
「なんだい、そんな硬い顔して。大丈夫さ、国の連中とは違って、あんたを拉致ったりはしないよ」
グリンダの言葉に驚かされる。彼らは一体何者なのか。
気づけば、不思議と興味が湧いていた。人に興味を持つなんて、私には珍しいことだった。
その時、隣でミレオが静かに微笑み、まるでこの時を待っていたかのように言った。
「気づいてたさ。あんたがここに来た日から――ただ者じゃないってことはね」
その言葉に、私は深く息を吸い込む。
「どうして、今まで何も聞いてこなかったの?」
問いかける私に、ミレオは優しく答えた。
「知る必要がなかったからさ。あんたはずっとそばにいてくれた。それだけで十分だった」
そう言いながら、ミレオは続けた。
「ほら、ミホ」
グリンダはにっこりと笑い、再び手を差し伸べる。
私はその手をしっかりと握り返した。
「ミホよ。ハーフエルフの一級魔法使い」
その言葉に、ミレオの目が少し見開かれ、グリンダも同様に驚きを隠せなかった。
一方でデールは、まるで待ち望んでいたかのように嬉しそうに笑っている。
私は胸の奥に、新たな旅立ちの予感を確かに感じていた。
「けど、まだ、ついて行くなんて言ってない」
思わず自分の口から飛び出た言葉に、デールはさらに大口で笑った。
「そうかそうか。それでいい。けどな、目的だけでも聞いてくれ」
デールの目付きが少し変わる。真剣な眼差しだった。
「俺達は今、交易都市テルヴァンに向かってるんだがーーアーラ山脈を超えなきゃならないんだ」
アーラ山脈、聞いた事があった。
確か北部と南部に隔てる大きな山脈で、見た目は山でも中に大きな迷宮ダンジョンがあると。
「アーラ山脈、確かにそこを超えないと南の地にはいけない。私はずっと北から歩いて旅をしてきたけどーー」
「そうだ。そこでお前さんの力をかりたい。山脈を超えるのを、手伝ってほしいんだ。何だってくれてやる、山脈を超えたあとは、好きにしてもいい」
少し頭を悩ませる。けれど、メリットを感じられない。
それに、ミレオとの生活がある。
「ごめん、私はーー」
その時だった。ミレオが口を開く。
「ミホーー薬の勉強は十分にできたろう。あんたのその魔法、他のところで生かせるんじゃないのかい?」
「生かすっていっても、使い道なんて……」
言いかけて、口を噤んだ。
それは本心だった。これまで、魔法を“生かす”なんて考えたこともなかった。ただ生き延びるために、ただ身を守るために使ってきた。それだけだった。
「でも、それは――もう過去の話じゃないのかい?」
ミレオの声は、やさしく、しかし芯があった。
「薬のことだって、一通り教えた。調合だって、もう私よりうまいくらいさ。……だから、あんたの中の“これから”を、ちゃんと見てみたらどうだい?」
視線を上げると、ミレオはいつものように笑っていた。でもその笑みに、ほんの少しだけ寂しさが滲んでいるように思えた。
「ここに居てくれるのは、私にとっちゃ嬉しいことだった。けどねぇ、あんたが本当はどこかに向かおうとしてること、ずっと見てきたよ。火の番をしながら、地図をじっと見ていた夜もあったじゃないか」
思わず目を伏せる。
あの夜のことを、ミレオは知っていたのだ。静かな夜更け、薬房の片隅でぼんやりと地図を広げ、南の国の名前をなぞったこと。
「もし、ここに留まることが逃げじゃないなら、それでいい。でも、あんた自身が逃げてるって思ってるなら……少しでも前に進んでみた方がいいと思うよ」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
私のことを、こんなふうに見てくれていた人がいたのかと思うと、思わず言葉が出なかった。
「グリンダ、デール」
ようやく口を開いた私に、二人はぴしりと姿勢を正す。
「……その山脈越え、手伝ってもいいわ。けど、条件がある」
「ほう、条件ね」と、デールが片眉を上げる。
「私がいいって言うまで、私を捨てないで……」
私のその言葉に、グリンダはほんの少し目を丸くし、それからふっと笑った。
「当たり前だろ?」
彼女の言葉に背中を押されるように、私は小さく頷いた。
こうして私は、再び旅路へと足を踏み出すことになる。
でも今回は、逃げるためじゃない。
ほんの少し、“誰かのために”進んでみたくなったのだった。
荷物と一緒に、名残惜しさが心に詰め込まれていく。
そして、出発の朝は、ひどく静かだった。
ミレオはいつもと同じように薬草を干していて、いつもと同じように朝の茶を淹れてくれた。でも、何もかもが少しずつ、違って感じられた。
「行くのかい?」
そう尋ねた声は、予想よりも軽やかで。
「うん」
私は短く答えた。もうそれ以上、言葉が足りないことはなかった。
「ちゃんと食べな。腹が減ってると、魔法も鈍るよ」
ミレオはそう言って、焼いたパンを手渡してくれる。少し焦げていて、でも不思議と懐かしい匂いがした。
「……ありがとう。ほんとうに」
やっと、それだけ言えた。
ミレオは笑った。いつものように、やさしくて、少し照れくさい笑みだった。
「ありがとなんて言われる筋合いはないさ。あたしが勝手に居候させてただけだよ」
そう言ってから、ふと少しだけ顔を伏せた。
「……でも、寂しくなるねぇ」
その言葉に、胸の奥がぐっと詰まった。
私は黙って、ミレオの前に進み出た。そして、そっと抱きしめた。
彼女の体は薬草と火の匂いがして、どこか懐かしい家のようだった。
「また戻ってきても、いい?」
そう尋ねると、ミレオは一瞬だけ黙ってから、ぽつりと答えた。
「当たり前さ。 ここは、あんたの居場所だよ、あたしもボケないように頑張るさね」
その言葉を胸に刻んで、私は彼女の元を離れた。
薬房の扉を開けると、眩しい朝日が差し込んでいた。
私は一度だけ振り返って、ミレオに笑いかける。
「行ってきます」
そう言って、私はグリンダたちと共に歩き出した。
もう“逃げる”ための旅じゃない。これは、自分の意志で踏み出す、新しい一歩だった。