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第4話 居候も悪くない

 ——何度目の朝日だったろう。

 ジラートを出てから、どれほどの時間が過ぎたのかはわからない。

 季節はゆっくりと巡り、道中の風景も、旅の装いも、少しずつ変わっていた。


 歩く日もあれば、船に乗る日もある。時折、馬車に揺られ、どこかの村で眠る夜もあった。

 そのすべてを覚えているわけじゃない。ただ、確かに私は、ずっと歩いていた。


 杖の先が、少し削れてきた。

 旅道具も少し心細くなってきた。そろそろ、どこか大きな街で整えておきたかった。


 そんなとき、手にした古い地図の片隅に、見慣れない名を見つけた。


 湖上都市メモリア。

 大きな湖に浮かぶ、魔法使いたちの中で「寄り道するならここ」と囁かれる街。

 淡い色の石畳に、静かな水音と、薬草の香りが混じる場所。

 それが、本当に存在するなら——


 私は、そこへ向かうことにした。


 目的はない。けれど、行ってみたいと思った。

 誰かに背中を押されたわけじゃない。ただ、今の自分に必要な場所のような気がした。


 そうして、船着き場に足を運び、霧けぶる水路をゆっくり進むうちに、メモリアの街並みが姿を現した。


 湖の上に浮かぶ、白と青色の静かな都市。

 空の明かりが水面に溶け、建物の輪郭が幻想のように揺れていた。


 船が石造りの桟橋に着いたとき、私は深くフードをかぶり直す。

 誰にも気づかれないように。誰とも交わらないように。


 でも——その願いは、ほんの少し先であっさりと裏切られることになる。

 この街で、思いがけない人物と出会うとは、まだ知らなかった。


 ***


 水路に浮かぶ浮遊灯が、ゆらゆらと揺れながら街を照らしている。空には星がなく、かわりに湖面が星のようにきらめいていた。


 私は静かにその路地を歩いていた。

 旅の途中で必要になった薬草と保存食、それから――もう少しだけ、まともな寝具を探して。


 木製の板道の先。薬草の束が軒に吊るされている、古びた店の前に足を止める。

 かすれかけた金の文字で、「ミレオ薬房」と書かれていた。


 そっと扉を押す。チリン、と小さな鈴が鳴る。

 店の中には、淡い薬草とハーブの香りが満ちていた。棚にずらりと並ぶ瓶詰め、乾燥させた葉、天井近くには吊るされた根や茎が揺れている。


「……いらっしゃい」


 奥から現れたのは、小柄な老婆だった。

 淡い緑の髪を後ろで束ね、落ち着いた色の上衣にエプロン。妖精族特有の透き通るような瞳がこちらをまっすぐ見つめてくる。


 その視線が、ふと、止まった。


「……あんた……どこかで……」


 老婆――ミレオは、少し首をかしげるように私を見つめた。

 私は、黙ってその視線を受け止めた。


「……いや、気の所為かね。そういう顔、たまに見るもんだよ。で、今日は何の用かい?」


「旅の途中で、薬を切らしてしまって。保存食と、できれば疲労回復用のハーブを少し……」


「あいよ、任された。あんた、自分で調合できるんだね?」


「少しなら」


 ミレオの口元が、ふっと綻んだ。


「そりゃいい。腕はありそうだ。ちょっと待ってな、合いそうなのを見繕うよ」


 そう言って、彼女は手慣れた動作で棚を渡り歩きながら、瓶や布包みを取り出していく。

 私は、そっと室内を見渡した。どこか懐かしい香りと、静けさがあった。


「……あんた、旅は長いのかい?」


 背を向けたまま、ミレオがぽつりと問いかける。


「たぶん、まだまだ続くと思う」


「ふうん。いいねぇ、若い旅は」


 ミレオは薬草を詰めた袋を差し出した。私は、受け取りながらふと訊く。


「昔って……ここ、ずっとやってるの?」


「長いよ。若い頃から、ずっとね。あたしの店に来る奴は、大体みんな疲れてる顔してるもんさ。……あんたも、少し似てる。昔見た誰かに」


 私は何も言わなかった。

 でも、なぜか――鼓動が、一度だけ強く跳ねた。


「気にしないでおくれ。薬代は……あ、これぐらいでいいさ。おまけも入れといた」


「ありがとう」


「旅人には、道の端でも休める場所が必要だからね。疲れたら、またおいで」


 私は静かに頷き、薬草袋を懐に入れた。

 ミレオはその手元を見て、最後に小さく言った。


「うん……その色、懐かしいさね」


 思わず、振り返りそうになった。けれど私は、そのまま扉に向かった。

 チリン、と再び鈴が鳴る。


 外の空気はひんやりとして、薬房の中よりずっと静かだった。

 私の髪が風に揺れ、その色を月明かりがかすかに照らしていた。


 ***


 数日が過ぎた。


 気づけば、メモリアの薬房に通う日々があった。

 旅の疲れを癒すための薬草を分けてもらい、店の手伝いも少しずつ覚えていった。


 毎朝、水路に浮かぶ灯りがゆらめく街を歩き、薬草の知識を交換しながら過ごす時間は、不思議な安心感をくれた。

 ミレオは時折、昔の話やこの街のことを話してくれたが、あの「どこかで会った気がする」という言葉は一度も口にしなかった。


 ある日の夕暮れ、薬房の奥で一緒に片付けをしていると、ミレオがふと立ち止まった。


「ねえ、あんたさ。旅の途中でこんなに長く留まるなんて珍しいね」


「……旅は続けるつもり。けど——」


 そこで言葉が止まった。胸の奥で、初めてゆらりと何かが動くのを感じていた。これまでの旅で味わったことのない、不確かで温かい感情。次に何をすべきか、まだ見えなかったのに、ここにいる自分に少しだけ安心している自分もいた。


「そうかい。なら、提案があるんだが……」


 ミレオは真剣な目で、じっと私を見つめる。


「ここでしばらく、あんたが居候として薬房に住むのはどうだろう?寝る場所もあるし、食事もつけるよ」


 驚きに言葉が詰まる。


「居候……?」


「そうさ。旅先で何かあったとき、居場所があるってのは助かるだろ?それに、一人で店を回すのも大変でね。あんたみたいな魔法使いがいれば心強い」


 ミレオの言葉が、じわりと心に染み渡った。初めて感じる温かさに、どう答えたらいいのかわからなくなった。


「……ちょうど、薬の勉強をしたかったの。私を雇ってくれる?」


「もちろんさ」


 こうして、私とミレオの長い共同生活が始まった。ここが、初めて私にとっての“帰る場所”になったのだ。


 ***


 季節は巡り、年月はゆっくりと私たちの間に積み重なっていった。


 薬房の毎日は決して楽なことばかりではなかった。

 ある日、私がうっかりして薬草の名前を間違え、ひどい騒ぎを起こしてしまった。


「えっと……この『シルフラント』と『ミリウス』はどっちがどっちだっけ……?」


 手元の本と薬草を何度も見比べながら、頭の中はぐるぐると混乱していた。


「よし、これで間違いないはず……」


 気合を入れて、煎じ鍋に火をつける。だが、しばらくすると焦げ臭い匂いが薬房中に漂い始めた。


「うっ……何これ、焦げてる!」


 鍋を見ると、中身は真っ黒に焦げ付き、煙がもうもうと立ち上っていた。


「ミホ、何をやってるんだい!」


 慌ててミレオが駆け寄ってきて、慌てて窓を開け放つ。


「ご、ごめん……名前を間違えたみたいで……」


 顔を真っ赤にして謝る私に、ミレオは困ったように苦笑いを浮かべた。


「まあ、誰にでも失敗はあるけど……でも焦げた薬草を見たのは初めてさね」


 その言葉に、思わず吹き出してしまい、緊張がふっとほどけた。


 こんな風に、笑い合える時間もまた、私たちの日常の一部になっていた。


 そんな日々を過ごす中で、私はふと気づいた。ミレオは私のことを何も尋ねてこなかった。


 旅の途中で変わってしまった私の顔つき。ここではどこか浮いてしまう、人間に近いその容姿のこと。そして過去に何があったのか、なぜここにいるのか。


 普通なら聞かれることを、ミレオは決して口にしなかった。


 その沈黙は時に重く、私の胸に小さな棘のように刺さったこともあった。


「私のこと、知りたいと思わないの?」


 そう自問しながらも、ミレオの優しさの裏にあるものを考えずにはいられなかった。


 ミレオが私の過去に触れないのは、私を傷つけたくないからなのか。あるいは、自分の中に踏み込ませたくない何かがあるからなのか。


 けれど、確かなのは、ミレオがただ、今の私を受け入れてくれていること。


 その無言の優しさが、私にとって何よりも救いだった。


 ここにいる間だけでも、私は、確かに『誰か』になれていたのだから。


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