第3話 別に目立ちたかったわけじゃない
朝の湯気は、夜よりもずっと白かった。
宿の奥から漂ってくる湯の香りが、目覚めたばかりの体をゆっくりと包む。
もう、あの妖精族の姿はなかった。
湯屋にも、食堂にも、気配すら残っていない。
最初から夢だったかのように、消えていた。
「おや、もう行くのかい?」
玄関先で、老婆が腕を組んで立っていた。
その隣には、昨日の子供がいる。今日もまた、黙ってこちらを見ている。
「ええ。……長居はしないって決めてるから」
老婆はふんと鼻を鳴らしたあと、薪を放り投げるようにして渡してきた。
「じゃあこれ、旅先でも火くらいは起こしな。……あんた、たぶんまだ、風邪引くような顔してる」
「……ありがとう」
礼を言うと、子供がちいさく手を振った。
その仕草に、ほんの少しだけ笑いそうになる。
坂道を下るとき、私は心の中で行き先を改めて決めた。
イシュタル……はやめよう。
妖精族の王都。あそこには、“知らないはずの自分”を知る人たちがいる気がした。
私にとっては、それが一番怖い。
半端な自分が踏み込んでいい場所じゃない。
だから私は、あえて逆を選んだ。
ジラート。……雪と硝子の街。
北の街並みは寒いらしい。
でも寒さくらい、もう何度越えてきたか分からない。
この旅が始まって、どれだけの季節が過ぎただろう。
春の雨も、夏の雷も、秋の果実も、冬の吹雪も――
全部、背中を押すようにして過ぎていった。
今ではもう、記録よりも、記憶の方が頼りだ。
私はフードを被り直し、朝の光の中へと足を踏み出した。
これは、ただの一歩じゃない。
“続いている旅”の、一つの通過点にすぎないのだから。
***
——空気はもう冬だった。
吹雪ではない。けれど、雪は降っていた。
しんしんと、息をするように降り続ける。
冷たいというより、痛い。それがジラートの空気だった。
北の王都ジラート。
魔法の扱いに厳しい街だという噂は聞いていたけれど、実際に足を踏み入れてみると、その意味がじわりと沁みてくる。
石造りの通りには、誰も魔法を使っていない。
灯りひとつ、手で灯され、火打ち石の音が響いていた。
魔法の光が禁止されているのか、あるいは……“嫌われている”のか。
私は余計な視線を引かないように、フードの影を深くした。
昼でも薄暗い空。雪が反射して、街全体が蒼白く輝いて見える。
その静けさの中で、私はいつものように宿を探そうとした……その時だった。
「ねぇ、あんた」
ぴたりと足が止まる。
声の方を見ると、道の端に、少女が立っていた。
年は私よりも少し下。
けれど、ただの子どもではなかった。
肩までの銀髪。右目にだけ細い紋様の刺青が浮かんでいる。
種族はよくわからないけれど、見た目は人間に近い。
そしてその手に、一冊の分厚い書物を抱えていた。
「旅の人でしょ。あたしに、火を貸してくれない?」
凍えた手を差し出す少女。
けれど彼女の瞳は、わざとらしい媚も、子どもの甘えも含まれていなかった。
まるで、“試している”ような、そんな目。
私は一瞬だけ迷ってから、指先に火の魔法を灯す。
ぴ、と静かな音がして、小さな火がともった。
——次の瞬間、彼女の目が細められた。
「ふうん。やっぱり、魔法使いなんだ」
言葉に、少しだけ刺があった。
「……それが何?」
「別に。……あたし、そういうの、昔から見抜くの得意なの」
そう言って、彼女は火を写した蝋燭を懐にしまうと、こちらをちらりと見上げた。
「お礼に、教えてあげる。ここじゃ魔法はあんまり使わない方がいい。……あんたみたいな人、珍しいから、いろんな目で見られる」
言い捨てて、彼女は雪の降る通りを歩き出した。
「待って。名前は?」
気づけば声をかけていた。
彼女は立ち止まり、振り返ることなく、ぽつりと呟いた。
「——エイミ」
それだけを残し、雪の向こうに消えていった。
……名前だけが、いつまでも白い空に残っていた。
私はしばらく立ち尽くしていたけれど、足元がじわりと冷えてきて、再び歩き出した。
宿はすぐに見つかった。
木造の建物にしては妙に静まり返っていて、扉を開けた瞬間、冷えた空気が押し返してくるようだった。
中には数人の客がいた。
けれど、誰一人として目を合わせようとしない。
会話もない。湯気の立つスープをすすりながら、ただ黙って椅子に腰を下ろしているだけ。
「……いらっしゃい」
カウンターの奥にいた宿の主が、気だるげに声をかけてくる。
猫背の初老の男。目の下には深い隈があり、左手には指が二本なかった。
「ひとりか?」
「ええ。一泊で」
「前金だ。ここじゃ、それが決まりでね」
私は小銭の入った袋を差し出す。
男はそれを手に取り、さして中身も確かめずに奥へと投げた。
「二階の奥、階段上がって右。……火、使うなよ。魔法もな」
ぴたり、と空気が凍るような一言だった。
私はわずかに頷いた。
言い返すつもりも、逆らうつもりもなかった。ただ、この街の“空気”が、どれほどのものなのか、少しだけ知れた気がした。
部屋は簡素だったが、清潔ではあった。
窓は小さく、外の雪が静かにガラスを濡らしている。
ランタンに火を灯すのも、もちろん手のひらでこすってだ。
私はベッドの端に腰を下ろし、コートの中に手を入れる。
布にくるんだままの杖が、まだそこにあるのを確かめた。
魔法が禁じられているわけじゃない。
けれど——この街では、それは“触れてはいけないもの”として扱われていた。
私は小さく息を吐き、上着を脱いでベッドの横に置いた。
その夜。
宿の下の食堂で晩ごはんをとることにした。
献立はシチューと硬めの黒パン。けれど、湯気に混じる香りは、どこか懐かしかった。
食堂の奥の席に腰を下ろすと、やがて厨房から、皿を運ぶ足音が近づいてくる。
その音が止まり、顔を上げた私は、思わず一瞬だけ目を見開いた。
そこにいたのは、ひどく小柄な女性だった。
皿を持つ手は節くれ立ち、皮膚は岩のようにざらついている。額には細かい鱗が浮かび、片耳は獣のように尖っていた。
それでも彼女の目は優しく、どこか達観した光を湛えている。
「……歩き旅かい」
その声に、私は昼間、エイミと交わした言葉を思い出した。
似ていない。でも、どこか空気が近い。
血縁でも親でもないのに、不思議と繋がっているような存在が、この世界には時々いる。
私は黙って頷いた。
老婆──いや、もう“老婆”と呼ぶのも違う気がしたが──は、湯気を立てる皿を私の前に置く。
「ここはね、王都の中でも外れの外れ。……よくまあ、こんなところに来たもんだよ」
彼女はくしゃりと笑った。鱗のある頬が、やわらかく皺を寄せる。
「偶然よ」
「そうかい。……で? あんた、これからどこへ向かうつもりだい?」
パンを裂きながら、私は少し考えて、それからいつものように言った。
「……何も、決めてない。ただ暇だから、なんとなく歩くだけ」
それを聞いた老婆は、口元をふっと緩めた。
「変わった子だね」
私は反応しなかった。けれどその言葉が、静かに胸のどこかを突いたのは確かだった。
「ジラートも大概だけどさ。ここに住む者は皆、魔法が嫌いなんだ。なんたって昔、魔法のせいで内戦が起きたからね。……でもまあ、誰もあんたを止めやしないよ。歩くのは自由だからね」
私は黙って、スプーンを口に運んだ。
少ししょっぱいシチュー。でも、温かかった。
***
翌朝。
私は人通りの少ない裏通りを抜け、静かに宿を後にした。
宿の老婆には特に別れの挨拶はしなかったが、扉の前に出たとき、ふと気配を感じて振り返る。
そこには、小さな女の子が立っていた。
昨日、書物を抱えていた子──エイミ。
彼女は何も言わず、俯いている。私はそんな彼女を横目に、歩を進めた。
ジラートの街は朝も重たい曇り空に覆われていた。
空気は冷たく、石畳の路地を歩く人の姿もまばらだった。
けれど、それでも私は歩いた。ただ、歩く。それだけが、今の私を保っている。
けれど、その静けさは突然破られる。
――ドォン。
重く、鈍い音が街の方角から響いた。
すぐに、怒号と叫び声。
私は足を止め、音のした方へ目を向けた。
黒煙が立ち上り、人々が騒然としている。
「サタンが出たぞ!」
「広場に子どもがまだいる、誰か助けて──!」
サタン。
私は知っている。近年この世界を脅かしている、理性を失った怪物たち。人々にとっては恐怖の象徴でしかない。
そして何よりーーサタンは私の父を殺した怪物でもあり、私が魔法使いとして生きることになった大きなきっかけでもある。
目を凝らせば、煙の向こうに、あのエイミの姿が見えた。
呆然と立ち尽くし、逃げ遅れている。
近くの大人たちはただ立ちすくみ、誰も彼女に手を伸ばそうとしなかった。
私は迷わなかった。
フードを下ろし、髪をなびかせて一歩を踏み出す。
その姿に、街の人々がざわめきはじめる。
「おい見ろ……あれ……人間の耳?」
「魔法を……使うのか……?」
私は内ポケットから杖を取り出す。
細い木の杖。しばらく触れていなかったそれが、手に吸い付くような感触を残す。
「風よ」
静かに一言。
次の瞬間、杖の先から温かな風が吹き抜けた。
風はエイミの身体を包み、ふわりと宙に浮かせて、私の足元へと滑るように引き寄せる。
エイミが無事に着地したと同時に、サタンが奇声を発した。
私は腕を振る。
「裂けろ」
風がうねり、鋭く刃のようにサタンを切り裂く。
痛みにひるんだサタンは、吠えながら崖の方へと逃げていった。
すべては数十秒の出来事だった。
私は杖を納める。
周囲の人々が私を見つめている。誰も何も言わない。
その沈黙を破ったのは、さっきのエイミだった。
「……騒ぎになりゃ目立つってのに、どうして助けたんだ?」
「別に目立ちたかったわけじゃない」
そう返して、私はエイミの頭に手を置いた。
「無事でよかった」
彼女はぽかんとしながらも、ぎゅっと私の手を握り返した。
その手の温もりが、少しだけ胸にしみる。
……でも、このとき私はまだ知らなかった。
この出来事がきっかけで、人間の耳をした魔法使いの噂が各地に広まっていくことを。
“ハーフエルフの魔法使い”という名も知らぬ旅人の存在が、静かに世界に響き始めることを。
サタンは本編でも登場してきます。
ミホは父親をサタンに殺されたことをきっかけに、母からノワル研究区画に入れられてしまったのでした。立派な魔法使いになりなさい、と。