第2話 貧乳で困ったことなんてない
船を降りると、冷たい海風がまともに吹きつけてきた。
フードの下で、髪がばさりと顔にかかる。視界が一瞬、淡い水色に染まった。
私は黙ったまま、石段を登りはじめる。
目の前に続くのは、くすんだ色の坂道。潮の匂いがだんだん薄れ、代わりにどこか懐かしい――そう、湯の香りが混じってくる。
ウロス村。
地図で見かけたことがあるだけの名前だった。
温泉が湧いていて、魔力の疲労にも効くと言われているらしい。けれどそんなもの、今の私にはどうでもいい。
登るにつれ、空気が白んでくる。
霧かと思ったが、湯気だった。崖の間からもうもうと立ちのぼるそれが、視界をぼんやり曇らせる。
途中、すれ違った獣人の男が、帽子の下からちらりとこちらを見る。
顔の半分が毛に覆われ、短く丸い耳がゆっくり動いていた。
けれど誰も何も言わない。話す必要がないのだろう――この村では。
見下ろせば、船着き場はすでに遠く。
あそこにいた騒がしい男の声も、もうどこかへ消えていた。
ようやく石段が終わり、開けた地に出た。
小さな村だった。
瓦屋根の建物が数軒、湯気の中に霞んでいる。
軒先には耳の長い亜人や、角の生えた老婆の影も見えた。
ここでは、肌の色や耳の形が違っても、誰も気にしないらしい。
私は足を止めて、ゆっくりと息を吐いた。
湯の香りと静けさに包まれながら、自分の身体が少しずつ解けていくような感覚があった。
緊張も、警戒も、ひとまず脇に置いていい気がした。
坂を登り切ってすぐの場所に、ひときわ古びた建物があった。
看板には、かすれた金の文字で〈うろす湯宿〉とある。
戸口の前に立つと、濃い湯気がすっと鼻に届いた。
戸を軽く叩いて開けると、微かに鈴の音がして、奥から足音が近づいてくる。
「……おや」
出てきたのは、背の丸い老婆だった。
肌はまるで風化した石のようにひび割れ、両手の指も岩のようにごつごつしている。
けれど、その目は不思議と澄んでいた。
「おひとりさんかい? ……荷物、軽いねぇ」
「歩き旅だから」
「そりゃまた。……で、お代は?」
私は首を横に振った。
老婆はわずかに目を細めたが、あっさりと言った。
「ふん。じゃあ、薪割りしていきな。裏手に斧と束がある」
一瞬、意味がわからなかった。
でも、拒む理由もなかった。
頷くと、老婆は「働いて食う、当然だよ」とだけ言って、くるりと厨房へ戻っていった。
裏手に回ると、湯気に包まれた空気がさらに濃くなっていた。
古い木柵の向こうに、湯の流れる音がかすかに聞こえる。
薪は積んであった。斧も、しっかり研がれていた。
魔法を使えば、一瞬で割れてしまうのかもしれない。
けれど私は、あえて斧を手に取った。
ここでそれを使う理由も、使わない理由も、特にない。
ただ、目の前の木を、自分の手で割りたいと思った。
私は無言で袖をまくる。斧を構え、振り下ろす。
乾いた音が、空に響いた。
繰り返すうちに、身体がじんわりと熱を帯びてくる。
吐く息が白い。けれど、心は少しだけ、落ち着いていた。
ふと、気配を感じて振り向くと――
納屋の影から、小さな子供がこちらをじっと見ていた。
柔らかな灰色の毛に覆われた体、地面にすれすれの耳、黒曜石のような小さな瞳。
モグリット族の子どもだ。たぶん、さっきの老婆の孫だろう。
声をかけるでもなく、ただ静かに、まるでこちらを“観察”するように。
土の匂いのする風に毛を揺らしながら、音も立てずにそこにいた。
私はまた、黙って斧を振るった。
やがて夕方になり、宿の中に戻ると、炉に火が入っていた。
薄暗い部屋の中が、じんわりと赤く灯っている。
「風呂、もうすぐ沸くよ」
そう言って老婆が湯桶を運んでくる。
受け取って頭を下げると、老婆はにやりと笑った。
「黙ってるけど、素直だねぇ。気に入ったよ」
私はその言葉にも返事をせず、湯屋へ向かった。
湯の匂いが、扉の向こうからふんわりと香ってくる。
……身体が、冷えていたのだと気づいたのは、その扉を開けたときだった。
湯の香り。肌に絡みつくような熱気。
そのすべてが、旅の汚れや疲れを、静かに溶かしてくれるようだった。
私は服を脱ぎ、木桶にお湯を汲むと、静かに肩にかけた。
思ったより熱くて、息が漏れる。
髪をほどくと、淡い水色が背中に流れる。
その色は、湯気のなかでぼんやりと浮かび上がり、自分の体から何かが離れていくような感覚すらあった。
湯船に身を沈めると、思わず吐息が漏れる。
ぴちゃりと波紋が広がって、静けさの中に溶けた。
「……あったかい」
風呂場は、思ったより広かった。
角の丸い木の浴槽が湯気に包まれ、その向こうに、もう一人先客がいたことに気づく。
長いピンクの髪が湯に浮かび、白い肩が斜めに湯からのぞいている。
肌は透けるように滑らかで、腰のラインは、思わず目を逸らしたくなるほど整っていた。
なのになぜか意識はそちらへ向かってしまう。
湯の中にちらりとのぞく胸元――思わず、自分の胸元に視線を落とす。
……比べるまでもない。
べつに悔しくなんてないけど、なぜか小さく肩をすくめた。
妖精族――だろうか。
湯気越しでもわかる、どこか現実から乖離したような――幻想の輪郭を持つ存在感。
けれど、視線をこちらに向けても、彼女は何も言わなかった。
ただ、静かに微笑んだ。
「……旅の人?」
ぽつりと、それだけを問われた。
私は一瞬迷ってから、頷く。
「あなたも?」
「ええ。ずっと、一人で。風の向くままに」
その声は、どこか遠くの鐘の音のように澄んでいた。
しばらく湯の音だけが響く。
それが心地よくて、私は自分から何も言わなかった。
でも、次の言葉は、相手の方から落ちてきた。
「……あなたの瞳、深海みたい。強い色をしてるわね。けれど、それを覆い隠す術も知ってる」
私は、湯の中で静かにまばたきする。
彼女は私を見ていた。まるで、心の奥に直接視線を差し込むみたいに。
「同じ匂いがするの。選ばれて生き残って、それでも何も勝ち取っていないーーそんな寂しい匂いがね」
指が、湯の中で小さく震える。
その時、ふと記憶が揺れた。
——おめでとう、君は今日から一級魔法使いだ。
ノワル研究区画。魔法使い育成所として作られたその施設を、私は出た。
その現状は、育成所なんてものではない。強制選別にふさわしい、牢獄のような場所だった。
それでも私は生きなければならなかった。
なぜならそれが、母に託された未来だったから。
私は顔をそむけず、その視線を受け止めた。
「……名前、聞いてもいい?」
ふっと笑った彼女は、肩まで湯に沈んだまま、ゆっくり首を振った。
「知らない方が、またどこかで会えた時に面白いでしょ」
それきり、彼女は湯の縁に背をあずけて目を閉じた。
まるで、それ以上何も交わす必要はないというように。
私は立ち上がる。
湯のしずくが脚を伝って落ちる音だけが、静かに響いていた。
出口に向かうその背に、もう一度だけ声がかかる。
「きっと、忘れないわ。……その髪の色も、目も」
振り返らなかった。
でも、なぜか心がすっと軽くなった気がした。
湯上がりの空気は、どこまでも柔らかかった。
ゆったりとしたローブに袖を通すと、体の芯までぽかぽかと温もりが残っているのがわかった。
囲炉裏のある食堂には、もう他の客の姿はなかった。
火が静かに燃えていて、炉の上には、湯気を立てる素朴な鍋。
「さあさ、お食べ。大したものじゃないけどね」
老婆が盆を運んでくる。
炊きたての雑穀ごはんと、山菜汁。干し魚の焼いたのが一切れ。どれも香りだけでお腹が鳴りそうだった。
「……ありがとう」
「へぇ、礼が言えるんだね。最近の旅人じゃ珍しいよ」
老婆は湯気越しににやっと笑って、鍋の火を見つめた。
「歩き旅って言ったね。ここはかなり外れにある小さな村さ。……あんたこれから、どこへ向かうつもりだい?」
私は箸を止めて、少しだけ考え込んだ。
「……何も、決めてない。ただ暇だから、なんとなく歩くだけ」
「そうかい、そうかい」
老婆は小さく笑った。まるで昔、同じようなことを言った誰かを思い出したかのように。
「ならあんた、王都の方行ってみたら? ここから一番近い王都だと、イシュタルか……あとはそうだね、ジラートなんてのもある」
「ジラート……?」
「雪と硝子の街さ。行ったことはないけどね。あんたみたいな顔つきの子は、けっこう好かれるかもしれないよ」
「……気が向いたら、行ってみる」
答えながら、ふと自分の声が前より少しだけ柔らかくなっている気がした。
食事を終えると、老婆は「じゃあ、二階の一番奥が空いてるよ」とだけ言って、盆を引いていった。
私は礼を言って立ち上がり、廊下を抜けて、寝室へと向かう。
***
部屋の窓は少しだけ開いていて、夜風がそっとカーテンを揺らしていた。
畳の部屋に布団が一組敷かれていて、湯宿特有のほのかな香りが漂っていた。
横になると、体が布団に吸い込まれるように沈んでいく。
目を閉じても、さっきの湯屋の光景が脳裏にちらつく。
あの旅人の微笑み。忘れないわ、という言葉。
あれは、ほんの一瞬の出会いだったのに。
まるで長い時間、あそこにいたような、不思議な感覚があった。
(……イシュタルか、ジラート)
明日のことなんて、まだ何も決めていない。
どうせ先が見えない未来だ。
寄り道をしても、悪くないのかもしれない。
そんなふうに思ったのは、久しぶりのことだった。
私は小さく息を吐き、やがて静かに眠りへと落ちていった。