三、待ってる(4)
お見舞いに行った次の日、希望は体調不良で学校を休む。
身体と心を休ませながら、ふと真理子の勉強のことを気にかける。
真理子が入院している間の内容は、自分が教えるしかない。他人任せにしていられない。
(あんな顔してあたしに約束してくれたのに、あたしが逃げ出せるわけない)
希望はようやく真理子のために、できることを見つけた。
翌日。授業の内容をいつになく真剣に聞く希望。
真理子に教えられるよう、しっかりノートも取った。
放課後、クラスメイトたちに皆の真理子を励ます想いを託され、
それを渡すために、希望は学校を飛び出した。
次の日、希望は体調が優れず学校を休んだ。
梅雨空は継続中でザーッという音が部屋まで聞こえてくる。湿度が高くて不快なのも変わらず。真理子と会って話せたので気持ちは落ち着いたが、それが災いして張り詰めた緊張の糸が切れたのか、あるいは気圧が下がっているのを身体が敏感に感じているのか、左の脇腹辺りがしくしく痛む。熱を計ると平熱だったが、倦怠感があり少し頭痛もする。
(ストレス……なのかなあ)
ありのままを母親に話したら——
「今日は休みなさい」
——とだけ言われ、学校へ連絡もしてくれた。何があったか聞いてこないのが、希望にとってはありがたいことだ。
学校では一時間目の授業の最中だろう。時計にばかり目を向けてしまう。
(あたしよりよっぽどマリの方が痛くて辛いだろうに)
真理子のことを思い浮かべるが、それを振り払うように頭を数回横に振った。
いつだったか『うつ病は心の風邪』というネット記事のタイトルを見かけた。うつ病というほどではないだろうが、ストレスを感じる原因に心当たりがあり、それらを忘れてリラックスできるよう心がける。
スマホを手に取り動画サイトで『心が落ち着く曲』と入力して検索してみると、あっという間に何十個もの検索結果が出てきた。その一番上のチャンネルをタップすると、ピアノの穏やかな曲が流れてきたので、そのまま手の届かない机の上に置いた。スマホを近くに置くとついいじってしまい、余計な情報を頭に入れてしまいそうだ。
考え事をしないよう、ピアノの旋律に耳を傾ける。五分ほどは上手くいったが、やはり何も考えずにいるのは無理だった。
(マリ、今頃どうしてるかな)
痛みに苛まれていないだろうか。昨日の痛々しい姿を思い出してしまう。けれど、真理子は『一日でも早く怪我を治す』と約束してくれた。真理子は一度も嘘を言ったことがない。待ち合わせの時間に一秒でも遅れたことも。
(それで、あたしが遅れても笑って許してくれるとか、もう聖母レベルだよ……)
だから、気に病まずとも真理子はきっと全快し、また希望の隣にいてくれる。何を心配する必要があるだろう。
そう頭の中で結論づけると、大きなあくびが出て瞼が重くなる。流れてくるピアノの音のせいだろうか。午前中なのに眠気が襲ってきた。自分で思っているより、夜きちんと眠れていないのかも知れない。ただ、眠ってしまえば考え事をしなくて済む。希望は布団を頭まで被った。
平日の午前中、家の周りは雨音以外しない。ピアノと雨音のあまり調和のなされていない二重奏を聞きながら眠りに落ちた。
目が覚めたのはちょうどお昼頃だった。雨は降り続いているが、ピアノの曲は停止している。
ベッドから起き上がり、腰を横に数回捻ってみる。頭がスッキリと冴え、倦怠感がなくなっていた。脇腹の痛みは朝ほどではないがまだ続いている。ただ、動けないほど痛いというわけでもない。
リビングに行き母親が用意してくれたおにぎりをレンチンして食べる。テレビをつけてみて普段は見られないお昼の番組が流れているが、チャンネルを数カ所回して三十秒くらいで切った。
おにぎりを食べ終わり水分もしっかり補給した後、自分の部屋に戻る。特にすることがなく、古い漫画でも引っ張り出して読もうかなと思いながら、机の方へ目を向けた。
(そういえば……)
昨日、数学の宿題が出されて教科書とノートを広げたものの、結局手をつけなかった。どうせ逃げられないのなら、頭の冴えている間にこなしてしまうのもアリだろう。
予定を変え、机に置いてあったスマホを操作し寝る前に聞いてたピアノの動画をリピートし、今度はベッドの方へ壁にぶつからないよう優しく放り投げた。ピアノの音が意外と耳に心地よく、集中できそうだ。
シャーペンを手にし、昨日の授業を思い出しながらノートに数式を書き、答えを導き出していく。そのはずなのだが——
(どうしよう……授業の内容、全然覚えてないや……)
——と、せっかくやる気が出たのに手が止まってしまった。
昨日、というか真理子が事故に遭ってから、授業中はぼんやり真理子のことばかり考えていた。この三日、授業の内容を右から左へ聞き流していて、記憶に少しだけ残っている程度。
(もう期末テストも近いのに……)
あと二週間ほどで憂鬱なテスト期間が始まる。去年一年間、そして今年五月の中間テストも赤点を回避し、そこそこの点数で凌げたのは、真理子が教えてくれたおかげだ。
ここで希望はハッする。
(マリ……学校休んでる分の授業どうするんだろ……)
当然だが怪我で入院していれば、学校で授業を受けることはできない。真理子がいつまで入院するかわからないが、期末テストも受けられないはず。
真理子が授業を受けられないことについて、希望が考えるべきことではないかも知れない。先生たちが真理子に休んだ分課題を出すとか、そんな対応になると思う。
希望も真理子も勉強に意味を見出せず、ただテストの結果が悪いと学校にいられないから、仕方なく勉強しているタイプだ。しかし、場合によってこのままでは真理子が留年してしまうかも。そう考えると急に血の気が引いた。真理子が自分の隣に戻ってきても、そうなってしまっては意味がない。なら、誰かが真理子の勉強を見る必要がある。
誰が?
(あたししかいないじゃん!)
やっと見つけた、自分が真理子にできること。先生たちだけに任せていられない。真理子が受けられない授業を全て自分が理解し、真理子に教えてあげれば少なくとも留年なんてことはない。けれど、果たしてできるだろうか。勉強が苦手な自分が真理子に教えることなんて。
昨日の真理子の顔を思い出す。
(あんな顔してあたしに約束してくれたのに、あたしが逃げ出せるわけない)
真理子のためと思うと、集中力が湧き上がってくる。まずは目の前の数学の宿題に取り組んだ。
翌日、希望はいつも通り学校へ行った。
毎日雨続きだったが、その日は雨が止み雲間から久しぶりに陽の光が差している。
結局、あれから数学の宿題を終わらせた後、興が乗って数日分の復習をし、真理子に教えられるようノートにまとめた。テスト前以外でこんなに勉強したのは、多分はじめてかも知れない。不思議と充足感があり、昨日の体調不良が嘘のようだ。
真理子のいない教室で、一時間目の授業が始まった。
昨晩に夜更かしをするとウトウトとしてしまう時間だが、『真理子に勉強を教える』という目的を持った希望は、いつになく真剣に授業を聞き、黒板の板書もしっかりノートに書き留めていく。一時間目の授業だけでなく、午前中、お昼休みを挟んで午後の授業も集中して受けた。家に帰ったら復習し、わからないところはリストアップして先生に聞く。そんなやり方でやっていこうと計画していた。
放課後、真理子のお見舞いに行こうと思っていたので、そそくさと帰り支度をしていると、二人のクラスメイトに声をかけられる。
「佐久良さん、ちょっといいですか?」
「ごめんね、すぐ済むからさ」
一人は希望たちのクラス委員長で、一年生の頃から皆に『委員長』と呼ばれていた。眼鏡をかけ髪は短めに切り揃えている見た目もあるが、皆を取り仕切る能力はとても同い年とは思えない。彼女が『静かに』と言えば、恐らく先生が言うよりクラス全体がすぐ静かになる。本人も特に嫌がる素振りを見せないので『委員長』という愛称が定着しているが、そこには皆の畏怖の念も込められていた。
もう一人は希望の友だちで、好きなものの共通項では真理子よりも上。イベントなどではむしろ彼女と一緒に行くことが多かった。
背は希望より高く髪も長め。年相応の雰囲気に最近は大人の色気までまとっているように感じる。幼く見られがちな希望からするととても羨ましい。
ただ、二人はそれほど仲がいいという感じではないと思っていたので、一体何があるのかと内心訝しんだ。
「二人ともどうしたの?」
「今日も刑部さんのお見舞いに行きますか?」
委員長が丁寧な言葉遣いで話すので、希望は少し緊張してしまう。
「うん、そのつもりだけど……」
「昨日、佐久良さんがお休みの間に皆で書いたんです。届けてもらえませんか?」
「ちなみに、言い出しっぺはアタシです」
友だちがえっへんといった感じで胸を張る。
委員長が差し出したのは色紙にクラスメイトが真理子にお見舞いの言葉をつづった寄せ書きで、ぱっと見ただけでも『早く元気になって』、『一緒に遊びにいこう』という皆の思い思いの言葉が円形をなしている。
「希望はここに書いてね」
友だちが指差す箇所。色紙の時計でいうと六時の箇所が空いている。一番いい場所を希望のためにとっておいてくれたのだ。
「みんな……」
「はい、どうぞ」
委員長がペンを希望に渡してくれた。寄せ書きは真理子に宛てられたものだが、渡してほしいと頼まれた希望も感極まってしまって、油断すると泣いてしまいそうで何と書こうか考えもまとまらない。
三十秒ほど悩んで『待ってる のぞみ』と書き、ペンは委員長に返した。
「では佐久良さん、お願いします」
「今は仕方ないけど、マリちゃんとだけじゃなくてアタシたちとも今度遊んでよ」
「ねえ、一緒に行かない? あたし、こんな……」
「うーん……希望がそう言ってくれるのは嬉しいんだけどねえ」
「病室に何人も押しかけるのは申し訳ないですし、その……馬に蹴られたくないですから」
「……」
「それを渡すの、希望が適任だと思うよ。しっかりマリちゃんに届けてね」
「失礼します」
要件を済ませた二人は希望から離れ、教室を後にした。
「……………………」
寄せ書きを渡された希望は、しばらく立ち尽くしていた。
(皆、ありがとう。きっとマリも喜ぶよ)
ここでまた泣いてしまうと皆が心配するので、鼻はすすりながらも上を向いて堪え、色紙が折れないよう大切にリュックにしまう。一分一秒でも早く真理子に届けたくて、思わず駆け出してしまった。先生に注意されるが——
「ごめんなさい!」
——と、言葉で言うだけで速度を緩めず、そのまま学校を飛び出した。