三、待ってる(2)
事故に遭った夜中、真理子は病室で目を覚ます。
希望との思い出を振り返り、涙を流した。
自分が天に向かって浮かび上がっているのか、海の底に沈んでいるのか、平衡感覚がわからない。些かの光もない暗闇の中、全身を生ぬるい泥みたいなもので覆われているようで、手足を動かすのが気怠い。
(わたしはどこへ向かえば……)
必死に手足を動かして闇の中をかき分けるが、そもそもどこへ向かおうとしているのか忘れてしまった。
文字通り闇雲に身じろいで、それでも前に進もうとすると、不意に目の前が光る。
それは夜の海のしるべとなる灯台の光。夜空にキラキラと煌めく星の瞬き。そんな瀟洒なものではなく、暗い部屋の中で探しものをするのに便利なスマホのライト機能。いずれであっても、ここがどこかわからない、どこへ行けばいいのかわからない真理子は、その光に手を伸ばさずにはいられない。
手を近づけると暖かく心が安らぐ。光はあっという間に広がり、真理子を、辺りの景色を白一色に染める。視界が黒から白へ反転しても、光の中心は見失わない。光を掴む位置まで手を伸ばし続けた。
(この光……そうだ、わたしは——)
急に意識が覚醒し、はじめに目に映ったのは照明が落とされた知らない部屋の天井だった。
いや、『知らない』というのは語弊があるかも。この部屋の照明がついていて、傍に母親がいたとき見た気がする。
(えっと、確か……車に轢かれて……)
車に身体を跳ね上げられ、次の瞬間にはフロントガラスに、次いで地面に叩きつけられ、全身の感覚を失ってそのまま——包帯で包まれているのか、思うように身体が動かせない。というか、動かそうとすると激痛が走る。
おぼろげな記憶しかないが、確か救急車で運ばれここはどこかの病室なのだと思う。治療を受けた記憶は全くない。
さっきまで夢を見ていた気がするが、どんな夢か覚えていない。ただ、確かに夢を見ていたという感覚だけは残っていた。そして、右手に残る暖かな感触。
(さっきまで希望がいたような……)
けれど、同じ病室の患者の寝息だけが聞こえてくるだけ。傍に誰かいたかはわからない。
(希望……今、どうしてるかな……)
目を閉じ、希望と仲よくなってから今までのことを思い出す。
去年の五月の体育祭。
クラス対抗リレーの選手選抜に希望は選ばれ、しかもアンカーを務めることになった。
このリレーで一位になれば、希望と真理子のクラスが優勝する総合点数の差であったので、最後の種目であるクラス対抗リレーは大いに盛り上がる。
切迫したレースとなり、ゴール手前で希望が僅かに前を走る選手を抜き、二人のクラスは勝利した。希望の走りは見事であったが、恐らく生徒の七割ほどは足の速さではなく違うところを見ていただろう。
余談だが、この体育祭の後、希望は陸上部の部長から熱烈なスカウトを受けた。『希望が加われば全国大会にいける!』と言い切る部長の誘いを希望は拒み続け、決して首を縦に振ることはなかった。真理子が希望に理由を尋ねても希望は言葉を濁すだけ。ただ、何となく理由は察することができ、真理子もそれ以上は聞かなかった。
夏休みに入った八月。
事前に街で買った新しい水着を用意して、二人で大きめのプールへ遊びに行った。
真理子は飾り気の少ないワンピースにしたが、希望はビキニに初挑戦。これがよく似合っていて、嫉妬するのを通り越して見とれてしまうほど。
浮き輪も用意しそれに二人で掴まり、泳ぐというより水に浸かって涼をとりながら和気藹々と過ごしていたのだが、突然希望が悲鳴を上げた。何事かと思えば、希望が泣きそうな顔をして後ろを向き、トップの緩んだヒモを見せる。慌てて二人で隅っこに寄り、希望がヒモを結び直す間、真理子は誰かに見られないよう壁になった。
このときは本当に焦ったけれど、希望と肌が触れ合った感触を思い出すと、今でも顔がにやけてしまう。今年もプールや海に行きたかったが、こんな状況では諦めざるを得ない。
十二月二十四日、クリスマス・イヴ。
希望と真理子の他に、クラスで仲のいい友だち四人を加え、計六人で真理子の家でパーティーをすることになった。
料理を作る組と買い出しに行く組に分かれ、山盛りの料理と何種類かの飲み物が用意される。摂取したカロリーを考えず、用意した料理は六人で全て食べきり、食後のケーキももちろん完食。一年間の思い出を語り合っていると、時間が過ぎるのはあっという間だった。
最後にプレゼント交換をしてお開きになったが、解散間際希望がこっそりプレゼント交換のものとは別のプレゼントを真理子に渡す。猫をモチーフにしたペアキーホルダーで、二匹の猫を組み合わせるとハートの形になるデザインだ。真理子へプレゼントされたのはシルバーで、ゴールドのものは希望が持っている。お風呂に入るとき、寝るときを除き、肌身離さず大切に使い、時々二匹の猫を一緒にしてあげた。
二月十四日、バレンタイン。
この日の希望の家のキッチンは、チョコレートの甘い香りに包まれていた。ただ、やはり意識してしまってか普段より口数が減ってしまう。
刻んだチョコを湯煎で溶かし、型に流し込んで粗熱をとった後冷蔵庫で冷やす。完成したチョコは包装せず、その場で交換して一緒に食べた。『甘い』、『おいしい』の言葉が出ず、黙々と食べてしまったのは痛恨の極み。
一方、希望は自分で作ったチョコと真理子のチョコを食べ比べ、甘いものが大好きな希望はご満悦だった。真理子は気恥ずかしさで希望の顔がまともに見られず、あの時の希望の笑顔は写真に撮っておけばよかったと心底後悔した。
チョコの感想を言ってあげられなかったお詫びに三月十四日のホワイトデーにクッキーを焼いて渡したら、希望は飛び跳ねて喜び、希望の提案により二人で分けて食べた。
楽しい思い出に浸っていると、自然と目尻に涙が浮かび上がる。
(わたし、希望の世話をしてると思ってたけど、希望に寄りかかってたのはわたしの方なんだ)
二人は同級生だが、真理子が五月生まれ、希望が一月生まれで、希望の幼い容姿も相まってついついお姉さんぶってしまう。真理子が一人っ子なのもあり、手のかかる妹ができたようで世話を焼きたくなる。けれど、そんな真理子を希望は鬱陶しく思ったりせず、真理子の言うことはよく聞いてくれた。希望がこのことを知る由もないだろうが、自然とそういう関係に落ち着いたのは、表裏のない希望の優しさのおかげだと今更気づいた。その優しさにいつからか依存している。手を差し伸べてくるのは、決まって希望の方が先だ。
(このままじゃ駄目だ。わたし、希望と対等でいたい)
気づけただけよかったが、こんな身体で一体何ができるというのか。
(今希望に会ったら、また甘えちゃうな)
溢れた涙が枕を濡らした。あれこれ考えて頭を使ったせいか、急に疲労と眠気が襲ってくる。
(会いたいよ、希望……)
真理子はそのまま眠りについた。