二、嫌い(2)
お風呂で身体は暖まったが、制服と下着は濡れたまま。
真理子の母親の厚意で、その日はお泊まり会になった。
夜、真理子の部屋で寛ぐ二人。
真理子の膝枕の上で希望は、
「あたし、やっぱり自分の名前が嫌い」
と、吐き捨てるように言うのだった。
お風呂に浸かって身体は暖まり、洗濯も完了したものの、洗った下着は当然として濡れた制服も乾く目処が立たない。真理子は一時的な着替えを希望に渡す。パンツのサイズは合うもののブラジャーは合わないため、キレ気味にTシャツを渡してしまったが。
時間は十八時三十分。住宅街で街灯の明かりが届かない暗い箇所もあり、あまり遅くなると女子高校生が一人で帰宅するのは危険だ。
真理子は自分の服を貸すことを提案したが、希望は難色を示す。いくら親友とはいえ、その親友の服を着るのはやっぱり気が引ける。希望はできれば制服と下着を時間ギリギリまで乾かし、それらを着て帰りたいと話した。その提案に今度は真理子が反対する。濡れた制服で帰らせたら、希望が風邪を引くかも知れない。
話がまとまらず、二人してうーんと唸っていると、真理子の母親が帰宅する。真理子が母親に事情を話すと、希望は真理子の家に泊まっていくことになった。希望が真理子の家に泊まるのは初めてではなく、真理子の母親の信頼も厚い。『いつも真理子と仲よくしてくれてありがとう』なんて言われると、こそばゆくなってくる。
お泊まりが決まると、希望はスマホで自宅に連絡した。
「もしもし、ママ? 希望……今日、マリの家に泊めてもらうことになって……うん、夕方の雨のせいで……うん……うん、これから気をつけまーす。うん、伝えとくよ。それじゃ、じゃーねー」
画面をタップして通話を終了すると、希望は溜め息をついた。
「どうだった?」
「お泊まりのことは何も言われなかったけど、『折りたたみの傘くらいカバンに入れておけ』ってお小言言われちゃった」
「あはは……」
「うちのママもマリのこと信頼してるから。『真理子ちゃんによろしくね』、だってさ」
「今度ちゃんと挨拶に伺わないとなあ」
「うちはそういうの気にしないからいいのに」
「わたしが気にするの」
「はいはい、そうですか」
真理子も希望の母親とは面識がある。希望の家に泊めさせてもらったときはよくしてもらった。ざっくばらんな人で、『うちの娘にならないか?』なんて言われたとき言葉に詰まってしまったのは、印象に残る出来事だ。
「二人は相変わらず仲がいいのね」
二人の他愛のない会話に真理子の母親も加わった。にこにこしているのは、娘とその友達が和気藹々と話しているを見て、安心しているのだろう。
「お母さんには仲よく話してるように見えるんだ?」
「あら、それ以外に何があるの?」
「いや……まあ……」
「ごめんね、希望ちゃん。この子、気難しいところがあって」
「いえ、そんなこと……あたし、マリにお世話になりっぱなしで……」
「そうなの? それならよかったわ。これからも、うちの子と仲よくしてちょうだい」
「はい」
(猫被ってるだけなんだよなあ)
などと真理子は内心思っているのだが、もちろん声には出さない。
「さあさあ、遅くなったけど夕ご飯の支度をしましょ」
「あたし、手伝います」
「まあ、ありがとう。ほら、真理子も見習いなさい」
「……はい」
『お母さん、希望の外面のよさに騙されているんだよ』とは言えず、自分のエプロンを身につける。今日の献立はシチューと生野菜のサラダなので、真理子と真理子の母親がシチュー担当、希望がサラダ担当となった。シチュー担当の二人は普段から料理をしているので、鶏もも肉、じゃがいも、にんじん、たまねぎなど、手際よく切り順番に鍋へ投入していく。一方、普段料理をあまりしないサラダ担当は、レタスの葉をちぎるのも覚束ない手つきで、トマトの皮むきはピーラーを使っても歪な形になってしまう。見かねた真理子は鍋の具合を母親に任せ、希望にレクチャーをしつつサラダ作りを手伝った。
約一時間後、作った料理がテーブルに並び、三人は手を合わせて頂く。会話と笑顔の絶えない、賑やかな食卓になった。食後はもちろん、約束したケーキだ。
夕食後、後片づけも済ませ、二人は真理子の部屋で寛いでいた。
クーラーはつけず窓を開けるとすでに雨は止んでいて、少しジメジメした感じはするものの、涼しい風が入ってきて過ごしやすい。防犯のためカーテンは閉め外の様子を窺い知ることはできないが、時折家の前の濡れた道路を車が通り過ぎていく。
勝手知ったる何とやらで、希望は真理子のベッドで横たわり、スマホでショート動画を流しつつ漫画を読んでいる。そんな希望を『しょうがないなあ』と思いながら、真理子は椅子に座って小説を広げた。『小説』といえば聞こえはいいが、最近表紙の絵が気に入って買ったライトノベルだ。
「よく動画聞きながら漫画読めるね」
寛ぐ希望に対して真理子は、嫌味ではなく感心してそう言った。
「ごめん、気が散る?」
「ううん、それくらいは平気」
「そっか。じゃあ、そのままにさせてもらおうかな。マリはまた異世界転生もの?」
「『また』とか言うな。まだまだ伸び代のあるジャンルなのに」
「ふーん……まあ、いいけど」
会話が終わると二人は本に目線を落とし、黙々と読み続ける。時間は二十二時を回ったところ。電波時計なので、正確に時間を刻んでいく。しばらく、スマホから流れる賑やかなBGMだけが耳についた。
「ふっ……う〜ん……」
先に声を漏らしたのは希望の方で、手足を大きく伸ばす。さらに、大きく息を吐くと真理子の方を向いた。
「ねえ、マリ」
「うん?」
「膝枕してくれない?」
希望が唐突に甘えてくるのは今に始まったことではなく、時と場合にもよるが真理子も希望に甘えられるのはやぶさかでないので、読んでいた本を机に置くと希望のいるベッドの方へ向かう。頭の近くに腰かけ膝をぽんぽんと叩くと、希望はイモムシのように身体をくねらせ、頭を膝の上に載せ仰向けになる。いつの間にか手にしていた照明のリモコンを操作し、部屋の明かりを消した。
「……」
顔を窓の方へ向けるもカーテンが外の景色を遮っており、むくりと起き上がるとカーテンをさっと開けた。少し早足でベッドへ戻ってきて、再び寝そべり頭を真理子の膝の上に預ける。
真理子も希望に釣られる形で窓の外を見た。雨は止んでいるものの未だ厚い雲が空を覆っていて、月も星も見ることはできない。比較的街の明かりが多い場所だが、晴れていれば二等星くらいの星は見ることができるのに。もっとも、二人は天体観測に興味があるかといえば、それほどでもないのだが。
夜の帳と同化したような部屋の中、二人はじっと外を見続ける。不意に希望が顔の向きを変え、真理子の方を見る。
「マリ」
そして、再び希望が真理子を呼ぶ。
「どうしたの?」
「あたしの名前を呼んでみて」
「……」
外からの明かりが僅かに差し込むくらいで、暗い部屋で希望の表情を窺うことは難しいが、その瞳を見つめると吸い込まれそうになる。
希望の真摯な願い。真理子は上手く口が動かせず、一度唾を飲み込んでから、膝の上に頭を載せる親友の名前を呼んだ。
「希望」
「……」
願い通り名前を呼んでも希望はぴくりとも身体を動かさず、真理子を見つめたままだった。そして、顔を膝に埋めるようにうつ伏せの姿勢になり——
「あたし、やっぱり自分の名前が嫌い」
——小声で、吐き捨てるようにそう言った。
「無理に自分の名前を好きになる必要、ないんじゃないかな。自分を表す記号みたいなもんだと思ってれば、いくらか気が楽だよ」
「マリはどう? 今でも自分の名前が嫌い?」
「嫌いだよ。『マリ』って呼ばれる分には平気だけど、『真理子』って呼ばれるのはね」
『マリ』と『真理子』。言葉にすれば一文字しか変わらないのに、その一文字が真理子にとって大きくのしかかる。
真理子はそっと希望の髪を撫でた。
「『あなた』が自分の名前を嫌いでも、わたしは『あなた』の傍にいる。わたしね、これでも普段『あなた』から【希望】をもらってるんだよ」
恥ずかしくて口にしないが、その傍若無人な振る舞いに、太陽のように明るい笑顔に、日々少しばかりの【希望】を授かっている。けれど、仮にそれを伝えても、余計に落ち込ませるだけだろう。真理子も自分の名前が嫌いだから、自分に置き換えればそれがわかる。
「マリはそう思ってくれるのに……どうして自分ではこんな窮屈に感じるんだろう」
一度吐き出した不安は止まらず、希望は真理子のスエットの裾を掴む。真理子は咄嗟に答えてあげられなかったが、持論を展開することに徹した。
「さっきも言ったけど、無理に自分の名前を好きになる必要ないんだって。何なら、夜通し『あなた』の愛称一緒に考えようか?」
「……」
希望の沈黙に、真理子は『納得していないだろうな』というのを感じ取れた。『自分の名前を好きになる必要はない』という考えは、真理子なりの処世術だ。真理子は自分の名前を好きになることを諦めてしまった。逆に、希望は自分の名前を好きになることを諦めていないから、こうして今思い悩んでいる。
真理子は希望が羨ましかった。
二人の出会いは、高校に入学したとき。
同じクラスで席は隣同士。お互いはじめは特に何もなく、クラスメイトの一人という認識だけだった。数日後授業が始まるが、二度目の数学の授業の前だった。
「ねえ、刑部さん」
授業と授業の合間の短い休み時間、真理子が数学の授業の準備をしていると、希望が声をかけてきた。
「佐久良さん、どうしたの?」
「数学の教科書忘れちゃって……よかったら見せてくれない?」
「いい……けど……」
真理子が面食らったのは、真理子が『はい』と答える前提で、希望がすでに机を寄せてきていた。グイグイくる子だなあ、というのが真理子の希望に対する第一印象だった。
「ありがと。刑部さんって名前は何っていったっけ?」
一応、自己紹介のときにフルネームは言ったが、この時期皆名字を覚えるのが精一杯で、名前まで覚えられないのは仕方のないこと。
「真理子」
「どんな字書くの?」
「【真理】に子どもの【子】」
今までこの説明で間違いなく伝わった。そして『いい名前だね』って言われるのが一連の流れだ。正直、嫌気が差してくる。その気持ちを顔に出さないようにしていると、希望から思いもよらない言葉が出てきた。
「『マリちゃん』って呼んでいい?」
「……」
「どうしたの?」
「愛称で呼ばれたのはじめてで、ちょっとびっくりしちゃって……」
「ごめん、馴れ馴れしかった?」
「ううん……『マリ』って呼んで。『ちゃん』はいらないよ」
「わかった。よろしくね、マリ」
「佐久良さんの名前は……確か、希望だっけ?」
「すごい! よく覚えてるね!」
(『希望』って名前が引っかかって、何となく覚えていただけなんだけど)
「説明は要らないかもだけど、『hope』の【希望】って書いて希望だよ。よろしく」
「わたしも名前で呼んでいいかな?」
「もちろん! よかったぁ……クラスの子となかなか話すきっかけがなくて……こんなに話したの、マリがはじめて」
「わたしも……内心どうしようって思っててさ。よかった、希望が隣の席で」
くすくす笑い合っていると、チャイムが鳴り、間もなく数学の先生が教室へやって来た。一冊の教科書を二人で使いながら、真理子は希望の顔を横目で見る。希望は自分の名前に自信を持っているようで、『自分とは反対の子なのかな』と感じていた。
その日の授業が終わり、意気投合した二人は一緒に下校する。
自分の最寄りの駅、好きな漫画や小説、よく見る動画投稿者……話すと二人の趣味や好きなものは本当にバラバラ。特に好きなお菓子に関しては致命的で、希望はたけのこ派、真理子はきのこ派だった。これに関して二人はこの先ずっとわかり合えないだろうと覚悟した。
けれど、こうして互いに好きなこと、ものを話し合い、人となりを知ることで、どんどん惹かれ合っていくのを感じる。希望も真理子も友達はそれなりにいるが、こんなに誰かを身近に感じることは今までになかった。
お互いを知り色々話し合い、やがて『嫌いなもの』を話すようになるまでそう時間はかからない。二人とも自分の名前が嫌いだったのだが、『答え合わせ』をして真理子は驚きを隠せなかった。
「希望って自分の名前が好きなんだと思ってた」
「どうして?」
「わたしが『名前で呼んでいいかな?』って言ったら、何の躊躇いもなく快諾したから……」
「そうだっけ?」
「そうだよ。あの日のこと、わたしはよく覚えてる」
「あはは……あたし、もう忘れちゃった」
「なんだかなあ」
「今の世の中に【希望】なんてないのに、どうしてうちの両親はあたしに『希望』なんて名前つけたんだろう」
「……」
希望の悲しんでいるような、怒っているような、言葉では表しづらい固い表情を見て、真理子はかける言葉がない。
「ただ——」
「ただ?」
「友だちに名前呼び続けてもらったら、いつか好きになれるかなって」
「ごめん、希望の気持ちも考えないで……」
「謝らないで。あたしが呼んでほしいの。これからも『希望』って呼んで、マリ」
「……うん」
こうして二人は親友といえる関係になり、一年以上経過した今に至る。
【希望】と【真理】。それらが今の世の中において耳に心地いいだけの綺麗事で、欺瞞で厚く塗り固められ、虚構の闇の中、その深層に沈められてしまっているのことを、二人は知っている。
世の中の大人たちは見くびりすぎだ。この情報に溢れた社会、多感な年頃の子どもたちの、『自分に必要な情報を探し出す能力』を。十六、十七年しか生きていない子どもだが、いかに大人が社会でずる賢いことをしているか、ネットのニュースだけを見てもわかること。
身近なところでは、二人に対して一切そう思っていないのに『いい名前だね』と言う社交辞令。本人たちは聞こえないように言ってるのであろうが、聞こえてくる『何も知らない子どものくせに』と言われる理不尽。他にも挙げればキリがないが、この二点だけでも【希望】と【真理】を不審に思うのに十分な理由になる。
先の見えない未来に対して、光り輝く【希望】を胸に邁進できるのなら、絶対の定義を示す【真理】が道を照らしてくれるのなら。親のつけてくれた名前を誇りに思えるのなら、二人はこうして思い悩む必要なんてない。
しかし、現実は——未来への展望を見出せない二人を、口を開け丸呑みにしようと待ち構えている『何か』。そんな存在を漠然と感じ、身体の奥から虞を抱く。
高校に入学してから今日まで、不安で夜も眠れないことが何度かあった。世の中がどうであれ、来年の今頃にはすでに進路を定め、それに向けて行動しなければならない。けれど、二人は将来のことはおろか目先のことすらままならず、また言い知れぬ不安に打ち克つ信念はなく、足は竦み立ち止まったままだった。
ただ、こうして二人で手を繋げば、少なくとも不安は和らぐ。希望は真理子の手を取り、真理子の指の間に自分の指を入れ『恋人繋ぎ』にした。
「マリ……」
「うん?」
希望が伏せていた顔を上に向け、真理子の顔を見据える。
「もう大丈夫だから。『あなた』なんて他人行儀な呼び方止めて、いつも通りに呼んでよ」
「わかった……ねえ、希望」
「ん?」
「わたしたちが世の中のことをどう思っていても、ふたりきりじゃ生きていけない。世の中に上手く合わせて、立ち振る舞わないと。それは……わかるよね?」
「……わかってる」
希望の目つきが鋭くなった。この顔は決まって自分の無力さを感じているときに見せる。
「マリの言うことは、いつだって正しい。マリの言うこと聞いて間違えたことなんて、一度もないもん」
「買い被りすぎだよ」
「そうかな?」
「そうだよ」
「そっか……ふぁ……あぁ……眠くなってきちゃった」
「お風呂ではしゃぎすぎなのよ」
「あはは……」
「寝よっか」
「うん」
再度希望は起き上がると窓を閉め、ベッドに戻ると二人並び、真理子は布団をかける。手は繋いだまま、特に何か話すことはなく、二人はうとうとし始める。
もう少しだけこのまま——何も考えず二人一緒にいられたら。先のことはどうでもいい。笑い合いながらささやかな幸せを一緒に感じていたい。眠りに落ちる前、二人はそう願う。これくらいの願いを望んでも罰は当たらないだろうし、特に意識せずとも普段通りの生活が送れればそれでよかった。
真理子が交通事故に遭うまでは——