ハルさんとシッシーの、チョコレート事件
ハルさんとシッシーのチョコレート事件
早春の風は冷たさが残るものの、日差しはめっきりと明るくなってきました。
ハルさんの家の前にある白梅と紅梅が、ここ数日、競うように花開きはじめ、田んぼをとりまく土手の斜面には、黄色い灯りをともしたように、菜の花が咲きだしました。
すみれ色のコートをはおったハルさん。今日は町までお出かけです。
バス停に立つハルさんを、頭の上から呼ぶ声が聞こえました。
「お出かけかい?ハルさん」
ハルさんが上を見上げると、そこには天狗さまともうひとり、女の人が並んでハルさんを見つめているではありませんか。
「あら? 天狗さま。ええ。ちょっと楽しい用事で」
「わかった! あま~いもののお買い物ね?」
女の人はふわっとほほえみ、ハルさんに軽やかにウインクしてみせました。
「天狗さま、その方は……」
ハルさんがたずねようとしたとたん、バスがやってきて、天狗様と女の人はどこかへ行ってしまいました。
「なんてきれいな方だろうねえ。はずかしがりやの天狗さまなのに、案外すみにおけないもんだ」
バスの座席に腰をおろしながら、ハルさんの心もウキウキしていました。
ハルさんが久しぶりに町に向かった用事。それはまぎれもなく、バレンタインデーの甘いチョコレートのお買い物でした。
デパートの八階は、バレンタインデーの特設広場。いろんな種類のチョコレートがずらりと並んでいます。子ども向けのものから、大人向けまで。洋酒が入ったもの、キャラクターのデザインのもの、味にこだわったもの、どれもこれも食べてみたくなるようなチョコレートばかりです。
「まずはこうちゃんね」
遠くに住んでいる五歳の孫のこうちゃんは、動物が大好きだから、迷わず動物チョコレートのセット。
「シッシーにはこれにしようかな」
山から訪ねてきてくれるイノシシのシッシーには、大きなハート型のチョコ。
「三太郎と、父ちゃんにはこれにしようかね」
河童の三太郎には、家族で食べられるように果物味の詰め合わせチョコ。
「天狗さまには……」
しばらく、あちこち見ながら歩き回って、ハルさんが決めたのは、扇型のチョコレート。天狗さまの持っている羽うちわにそっくりなのでした。
チョコレートを買って、ラッピングのコーナーへ行くと、そこはすでに長蛇の列。腕時計を見ると、帰りのバスの時間がせまっています。これからリボンと包装紙を買いにいく時間はありません。ハルさんは仕方なくバス乗り場の方に向かいました。
デパートを出たとたん、生あたたかな風がハルさんの髪の毛をもてあそぶように吹いてきました。
「ああ、チョコに似合ったリボンをかけたら、うんとすてきなプレゼントになったのにねえ。まったく残念」
髪をかきあげ、ハルさんがそうつぶやいたときでした。
「じゃあ、まかせて」
どこからかそんな声が聞こえてきたと思ったとたん、ひとしきり強い風が、チョコレートの入ったハルさんの手提げ袋を、空高く巻き上げてしまったのです。
「あ、ちょ、ちょっと。ちょっと待って!」
あわてふためくハルさんの前に、バスが止まりました。このバスを逃したら、あとは三時間待ち。
後ろ髪をひかれる思いで、ハルさんはしぶしぶバスに乗り込みました。
バスから降りて、家までの道のりをトボトボと歩きながら、ハルさんは泣き出したい思いでした。
せっかく買ったチョコレートが一瞬にしてなくなったなんて、まぬけすぎてだれにも話せることではありません。
「よっ、ハルさん、お帰り!」
玄関の前で待ってくれていたシッシーを見ても、うなずいただけのハルさんでした。
「おい、ハルさん、いったいどうした? どこか痛いのか? 具合悪いのか?」
ふだん元気なハルさんが、ぜんぜん笑わないし、しゃべってもくれない。これは一大事です。
「大変だ、大変だ」
シッシーはすぐさま、どこかへ走っていきました。
しばらくして、ハルさんの家に天狗さまがやってきました。
「この袋をなくされたのだろう? ハルさん」
思わず、ああっと声をあげたハルさん。その中身を見て、さらにびっくりしました。
チョコレートの箱が、ひとつひとつきれいに包装されて、リボンがかけられているのです。
その包装紙とリボンは、まるで、菜の花や、白梅、紅梅、そして早春の空の色を染め抜いたような、うっとりするような美しい色合いをしていました。
「だれがこんなことを……」
手にとって呆然とつぶやくハルさんに、天狗さまが言いました。
「ハルさん、どうも佐保姫殿の仕業らしいのだよ。佐保姫度はときどき驚くようないたずらをしでかすお方でな。シッシーがハルさんの様子が変だとかけこんできたとき、佐保姫殿が、きっとこのせいだと袋を戻してくれたんじゃ。ハルさんにくれぐれもお詫びを言ってくれとのことじゃ」
「天狗さま、佐保姫殿って、もしやさきほどの?」
「そうそう。春の女神じゃ。ここ数日、佐保姫殿が来てくれたおかげで、花たちがどんどん開いておるだろう。産土の神のご命令で、わしが村じゅうを案内をしているところだ」
「天狗さま、私、佐保姫さまにお礼をしたいんですが」
「お礼?」
首をかしげる天狗さまに、ハルさんは、自分用に買った小さなチョコレートを差し出しました。
ハルさんが大好きな、いちごのホワイトチョコレート。その箱は、うすい桃色の包装紙に包まれ、紅梅の色のリボンが結ばれています。
「とってもすてきなラッピング、本当にありがとうございましたとお伝え下さい」
「わかった。しかと届けて参ろう」
天狗様は、すぐさま帰っていきました。
「大丈夫かあ、ハルさん」
まもなくもどってきたシッシー。笑顔のハルさんを見て、ほっと安心したようでした。
「いったいぜんたい、その袋の中身は何なのさ」
「これかい? フフッ、まだ秘密」
「え~っ、オレ様、腰が抜けるほど心配したのに、秘密かよ」
「あと二日待ってくれたら話してあげるよ」
「ちえっ。仕方ねえなあ。約束だぜ。必ず話してくれよな」
「もちろん。真っ先に話すよ」
その晩、ハルさんは仏壇のだんなさんの写真の前に、小さな箱をお供えしました。
白梅を染め抜いたような真っ白な包装紙に、レースの縁取りをしたリボン。
「はい。忘れちゃいませんよ。あんたの好きだったチョコレート」
旦那さんは、アーモンドチョコレートが大好きでした。
「早めにお供えするから、私にも分けてちょうだいね」
風が、コンコンと窓ガラスをノックしました。
「チョコ、ありがとう。ハルさん」
ハルさんの耳には、佐保姫さまのかすかな笑い声が聞こえたような気がしたのでした。