3-9.キスまで5センチメートル
翌日、シアンは、ジャングルジムを登れるようになっていた。日々、急速に進化していくシアン、実に頼もしい。
次は餌を使った学習だ。
まず、餌をその辺において、自分で取って食べるように仕向けた。
最初は恐る恐る、餌の匂いを嗅いで逡巡していたが、餌の美味しさに目覚めると、積極的に餌探しをする様になった。
続いて、手で餌をあげるようにしてみると、人間を認識するようになった。
俺が飼育部屋に入ると、走ってやってくるのだ。
さらに、餌をあげずに焦らす様にしてみると……手を上げたり、お尻を振ったり、ダンスをする様になった。
実に可愛い……
これは美奈ちゃんに見せねばならない。
「おーい! 美奈ちゃん! ちょっとおいで!」
俺はメゾネットの上の手すりから、下のオフィスにいる美奈ちゃんを呼ぶ――――
しばらく待つと、
「何? もうセクハラは止めてね」
そう言いながら、怪訝そうな顔をして美奈ちゃんが部屋に入ってきた。
俺は言い返すのをぐっとこらえて、
「まぁ、ちょっとやってみてよ」
と、餌を渡し、シアンを指さした。
「なに? これをあげればいいの?」
美奈ちゃんは受け取った餌を、恐る恐るシアンの前に出した。
シアンは、美奈ちゃんの手の匂いを、クンクンと嗅いだ後、餌を両手でつかむと、カリカリと齧って食べた。
「きゃー! かわいぃー!」
大喜びである。
「餌を見せるだけで、焦らしてごらん」
「えー、かわいそう」
渋い顔して嫌そうな美奈ちゃん。
「まぁいいから、やってごらん」
「分かったわよ……、ごめんね!」
そう言いながら、美奈ちゃんは餌を見せながら、手に届かない距離で焦らした。
シアンはジャンプしたりして餌に飛びつくが、美奈ちゃんは上手くかわす。
「いや~なんか、かわいそう」
「まぁ見ててごらん」
餌をとるのをあきらめたシアンは、首を軽くぐるりと回すと、踊り始めた。
両手をあげながら、右向いて左向いて、一度四つ足になって、また右、左。
「あら、何か踊ってるわよ。下手くそな盆踊りだわ」
「そうそう、シアンは餌が欲しいというのを、踊りで表現するんだ」
「へー、上手く踊れました! はい、ごほうび!」
そう言ってシアンに餌をあげた。
シアンは、嬉しそうに両手をすりすりとこすって、餌を受け取る。
「あら、ありがとうって事かしら? かわいいじゃない」
ニッコリと笑う美奈ちゃん。
「これをね、もっと上手く躍らせたいんだよね」
「え? もっと上手くなるの?」
「理論上は、世界一上手く踊れてもおかしくないよ。だってAIだもん」
「え~?」
不審げに眉を寄せる美奈ちゃん。
「美奈ちゃんたちのサークルは、ダンスサークルだろ、ちょっと何か、見本を見せてやって欲しいんだよね」
「見本って……私に踊れって言うの?」
「いやいや、スマホで動画とか、見せてやって欲しいんだよね、何をどう見せたらいいか、俺良く分からんので」
「ふーん、盆踊りの次ねぇ……ソウルダンス?」
そう言いながら美奈ちゃんは、スマホでソウルダンスの動画を検索し、シアンの前に置いた。
リズミカルに軽く腰を落としながら、足を開いて右行って左行って、手はクラップ。
音楽も流していい感じだ。
シアンは警戒し、草むらに隠れてしまったが……スマホをじっと見ている。興味はあるようだ。
さて、どうなりますか……。
動画を繰り返し再生していると、音楽のリズムに歩みを合わせながら、草むらから恐る恐る出てきた。
「お、音楽には合わせてるね~」
俺が感心してると、
「ビビってないで踊りなさいよ!」
と、美奈ちゃんの檄が飛ぶ。いやいや、初見で踊れは無理だろう。
そのうちにシアンは二足で立つと、身体を左右に振り始めた。
「お、いいぞ、盆踊り!」
美奈ちゃんは嬉しそうだ。
さらに見ていると、今度はステップを踏み始めた。
「おー、いいねいいね!」
そう言いながら、美奈ちゃんも踊り始めてしまった。
「シアン! こうよ! こう!」
美奈ちゃんは、リズミカルに左右に重心を移しながら、足をシュッシュと伸ばし、肩を上手く使いながら腕を回し、収める。
「おー、さすが! 動きのキレが違うね~!」
「あったりまえよ!」
調子が出て来たのか、足をクロスさせて本格的に踊り始めちゃう、美奈ちゃん。
思わず見入ってしまったが、ふとシアンを見ると……踊ってる!
なんと、美奈ちゃんの踊りをコピーしてるのだ。
いや、これはすごい……。
こんなダンス、俺には踊れない。
確かに動きはぎこちないが、ちゃんと踊れてる。
これを初見でコピーとは、シアンのポテンシャルの高さに思わず脱帽である。
「ハハッ! やるじゃんシアン! じゃ、これはどうかな!」
そう言って、今度は足をくねくねさせながら、複雑なステップを入れてきた。
負けじと、それをコピーするシアン。
モニターに表示されているコンピューター稼働率は、100%で真っ赤になっている。AIは全力で美奈ちゃんのダンスを吸収しているのだ。
なんだよ、そこまでついて行けるのか……
俺はAIの性能の凄さに唖然とした。
渾身の踊りを初見でコピーされた美奈ちゃんは、ムキになって、
「次はこれよ! ズールスピン!」
「あ! 床はダメ!」
俺の制止も聞かずに、今度は床を使ってズールスピン。
グルリと1回転目は決まったものの、2回転目でジオラマの壁にガン!と衝突。
「オゥフ!」
喚きながら反動で、俺の方にゴロゴロ転がってくる美奈ちゃん。
「危ない!」
俺は華麗にジャンプで回避する……が、着地点にシアンの餌が……。
「グアッ!」
仰向けの美奈ちゃんの上に、覆いかぶさるように倒れ……。
しかし、ガッシリと腕立て状態で、衝突は回避!
俺の真下で、ハァハァと荒い息を立てて、紅潮する美奈ちゃんと目が合った。
キュッキュッと琥珀色の瞳が動く……。
すぐ目の前で、ぷっくりとした美味しそうな唇が、ゆっくりと動いている。
思わず見つめ合う二人……
徐々に……キスしたくなる衝動に襲われ、少しずつ縮まる二人の距離……
すると、美奈ちゃんがそっと目を閉じた。
『え?』
目を瞑ったという事は、キスしていいというサインだと思う……のだが人生経験が足りない俺には全く判断がつかない。セクハラを誘っているのでは? という穿った見方すら頭をもたげる。
透き通るような美しくしっとりとした肌、形のいいギリシャ鼻、そして熱い果実のような唇……
本当に女神様の生まれ変わりの様な、尊いまでに美しい存在が、すぐ前でキスを待っている。そんな事本当にあるんだろうか? 夢? 騙されてる? 俺は頭の中がグルグルしてしまい、ショートしたように何も考えられなくなった。
そして怖くなった俺は逃げるように立ち上がり、何もなかったかのように美奈ちゃんの両手を取って、優しく引き起こした。
「……。」
美奈ちゃんは、何も言わず立ち上がると、服に着いた埃をはらう。
「大丈夫? いいダンスだったよ」
冷静を装って、そう声をかけると、美奈ちゃんは不機嫌そうにこっちを睨んだ。
「きょ、今日はセクハラじゃないよね?」
引きつった笑顔で俺がそう言うと、美奈ちゃんはキッと睨んで、俺の頬を軽くはたいた。
「恥かかせたわね!」
そう言って、美奈ちゃんはドアを『バタン!』と乱暴に閉め、出て行ってしまった。
俺はあまりにいきなりで対応できず、はたかれた左の頬をさすりながら、立ち尽くしていた。
やがて後悔や苛立ちのぐちゃぐちゃした混乱の海が押し寄せ、眩暈を覚えた。
触ったら「セクハラ!」、我慢したら「恥かかせた!」、一体どうしろというのか?
『無理ゲーじゃないか!』
俺は、美奈ちゃんが出て行ったドアを思わず睨んだ。
ただ……、認めたくはないものの、俺が人間として何か足りないという事を、再度突きつけられた気がした。『キスしてもいいよ』と言う女の子の弾む気持ちを無下にして、あまつさえ罠かもと疑って、体裁ばかり考えた俺のクズさが心を苛む。
「はぁぁ~」
俺は頭を抱えて大きく息を吐いた。
人の心はかくも難しいものか……。
ふと、見るとシアンは、頬をはたく真似をしている。
「そんなのコピーしなくて、いいんだよ!」
俺がそう言うと、シアンはキョトンとして首をかしげた。
そして流れ続ける音楽に乗って、さっきの美奈ちゃんのダンスを踊り始めた。
滅茶苦茶上手い。
さっきに比べてぎこちなさが減り、滑らかに動いている。
小さな真っ白いマウスが、高度なダンスを軽やかに踊る――――
これは凄い……、こんなの見た事ない。
これ、YouTubeで流したら、きっと1億PVは行くだろう。一夜にして世界のスターだ。絶対そんな事できないのだが。
俺は餌をシアンに出したが……。
餌には目もくれずに踊っている。もはや、餌が欲しいから踊っている訳じゃないようだ。
初代シアンは、決して踊らなかった事を考えると、リズミカルに身体を動かしたい欲求、というのが生身の身体には宿るのだろう。
これは大切な知見と言える。
でも……、女心の知見の方が……欲しかった……。
すぐ目の前にあった、美しく曲線を描く睫、柔らかく潤いを含んだ苺のような唇、そしてふんわりと上がってくるブルガリアンローズの香り……。思い出すだけで心臓のドキドキが止まらなくなる。
「キス……したかったなぁ……」
キスまでたった5センチメートル。しかし、この5センチを超えられずダメ人間の烙印を押された俺は、はたかれた頬をゆっくりさすりながら、悶々とし……、頭を抱えてブルーになった。