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2020.08.01:3/3
我輩は、そのまま洋館に留まり、夜明けを迎えた。
藍色の空が白み、館の周囲を囲む暗闇が薄れ、遠い地平線から朝陽が射し込んでくる。だが、淀んだ重い空気は晴れる事が無く、爽やかとは言い難い朝だった。
しかし件の少女は、起き上がってきた。
魘された様子もなく、正気を失った様子もなく、何事も無かったように平然と。
……ここまで来たのだ、もうしばらく少女の動向を観察する事にしよう。
夜の世界を縄張りとする不死の魔物、その最大の敵は――太陽の陽射し。大抵のものは日の出と共に影に潜み、あるいは眠りにつき、太陽の光から逃れる。逃げ遅れた場合、塵となって消え去ってしまう。
よって、夜明けを迎え現れた太陽は最も忌避すべき存在だが――しかし、そこは我輩、厄災認定を受けてしまうほどの魔物。陽の光による消滅の危機は、当の昔に克服した。まあ多少チリチリしているが、万全の状態ならば太陽など恐ろしくない。昔は死ぬかと思ったがな!
さて、起き上がった少女は、洋館の側にある古い井戸へ向かい、身支度を整えている。館の有様から分かるように、井戸の方からも黒々とした嫌な空気が溢れ出ている。きっと井戸の中にも、呪いに関連するものが投げ込まれているのだろう。だが、少女は気付いていないのか、井戸水を必死に組み上げ、その水で顔を洗う。……本当によく無事だな。
(む……?)
少女は、おもむろに桶を持ち、よたよたと運び出す。館の中へ行くかと思いきや、外壁へと向かう。陽の当たる場所で立ち止まると、外壁に沿うように弱々しく咲く野花へ手のひらで掬った水を掛け始めた。
どうやら、世話をしているつもりらしい。
けれど、呪いで毒された水は、土と植物を潤さず害するだけだ。現にあの萎びた野花も、太陽に向かうだけの力も失われている。
それでも少女は、懸命に話しかけていた。
「げんきに、なってね」
気遣われるべきは、あの小さな住人の方なのだが……健気が過ぎる。
この辺りで既に、我輩の胸はギチギチに締め付けられた。何も知らないのか、それとも知りながらそう振る舞っているのか。いずれにせよ、陽を浴びる細い後ろ姿はあまりにも儚く――魔物となって以来失った何かを、我輩へ想起させるようだった。
◆◇◆
――丸一日、この小さな住人に張り付いてみたが、結局、判明した事実は無かった。
住人はこの少女のみで、来訪者もなく、一人きりで過ごしている。呪い塗れの洋館の外へ、逃げ出そうと思えばいくらでも逃れられるだろうに……その素振りすら、僅かすら無かった。
けれど、自棄になっているようにも、見えなかった。
灰を被ったような、ボサボサの髪。汚れた褐色の肌に、古びた簡素な衣服。手足も細く、危うさしかない少女は、それでも生きようとしている。身支度を整え、野花を気に掛け、食物を口にし、荒れた洋館を片付け、古びた図鑑を開いて……そんな風に一日を過ごした姿は、自棄を起こしているとは言い難い。
きっとこの少女は、この館に居続けなくてはならない理由を知っている。
だとしても、望んでそうなったとは、思えない。
一日張り付いていたが、少女は何度も古い書架に向かっては、本を開いていた。難しい内容のものは絵だけを見てすぐに戻してしまったが、図鑑はお気に入りのようで、熱心に見つめていた。大きな瞳には、苦境に対する怨嗟ではなく、無垢な好奇心が満ちていた。
外の世界への、憧れ。
眠る前、窓辺から夜空に向かい両手を組むのは、彼女なりの祈りか。
おびただしい呪いで閉じられた窮屈な世界で、萎びた野花に話しかけ、懸命に生きる。それは、不死の魔物となって長い我輩では、もはや得る事のないものだ。生きているのか、死んでいるのか、それすら曖昧な人類の天敵では持つ事などこの先きっと無いのだろう。
――このような環境でも、必死に生きようとしている少女、手を伸ばすべきではないのか。
――手を伸ばし、守ってやるべきではないのか。
――誰が。
――数分と持たず正気を失う無数の呪いに染まった場所で、誰が、守ってやれるというのだ。
墓場に多くを置き去りにした身に、何か、駆け巡ってゆく。熱い血潮が巡るような、忘却していたその感覚に、我輩は静かに震えた。
「……うむ、そうだな」
これほどの呪いの中、影響されず動けるのは、もはや我輩しかおるまい。
我輩が――手を貸すべきだ。
そしてそれは、我輩の、長年の夢が叶うという事でもある!
「――今こそ我輩、転職の好機を得たり!」
――夜間の遭遇で最も恐れられる、大規模な移動範囲を持つ不死の厄災“呪月の魂狩り”。
この日、ついにかの魔物は転職を(勝手に)し、心優しい洋館の守護霊になった。
世界規模で最凶の霊が取り付いたわけではない。
断じてないぞ。






