(2)
使用人である結月よりも、女主人である閑子の方が先に起きている。
本来なら使用人が先に起きるべきであり、この状況に結月は未だに慣れない。だが、これは閑子が望んだことであった。
閑子はもともと、台所に立つのが好きらしい。
この西洋式の台所自体、家を建てる際に閑子が要望して作ってもらったそうで、二口のガスこんろもガスオーブンも、白いタイル張りの流しや作業台も、彼女のお気に入りだ。
そして、一番の理由は――
『私、夜はあまり眠らなくて。暇でしょうがないのだもの』
閑子は、肉体を持たない幽霊である。
結月が最初に出会ったとき、明るく朗らかな閑子が幽霊だなんて思いもしなかったのだが、彼女の白い足袋は今も宙に浮き、透けている。歩いているようで実は宙を滑っている様を見る度に、幽霊なのだと実感した。
そのせいか、眠るという概念が彼女に無いそうだ。
一応、夜に布団には入るそうだが、ぼんやりとまどろむことはあっても、ちゃんと眠れているのか分からないという。偶に、ものすごく眠くなって、気づいたら時間がだいぶ経っていることもある、と聞いた。
閑子は、どうせぼんやりするなら何かしていたいと、雨戸開けや炭火起こし、料理の下準備を率先して行っている。
仕える主人よりも遅く起きるのは申し訳なくて、せめて同じ時間に起きたいと申し出たが、閑子はあっさりと答えた。
『私に付き合っていたら、結月ちゃんの身体が持たないわ』
さらに、結月には他に洗濯や裁縫、掃除などの家事を任せるから、あまり無理はしないでほしいと、閑子に逆に気遣われてしまった。
しまいには、閑子の夫――天方家の主人である涼からも、『妻のわがままを聞いてくれないかな』と乞われたため、結月は首を縦に振るしかなかった。
そして、閑子と話し合った結果、結月は朝の六時から台所に入るようになったのだ。
閑子の横に並んだ結月は、すでに弱火にかけてある鍋の中を覗く。水が張られて昆布が底に沈んでいる。今日の出汁は昆布……と、作業台に削った鰹節が置かれているので、これも入れるのだろう。
鍋が沸騰するまでの間に、結月は量ってある米をお釜に入れて水で手早く洗った。同量の麦を足した後、水を加えてしばらく浸水させる。
「今日はあぶらげと青菜の味噌汁にしましょうか」
「はい」
野菜かごから出した青菜と、昨晩の残りの油揚げを短冊状に切っていると、閑子が「そろそろ取り出していいわ」と合図してきた。
昆布を取り出した後は、そのまましばらく火にかけて、沸騰したら鰹節を加える。ひと煮立ちさせて鰹節が沈んだら、木綿の布巾で濾して出汁の完成だ。
「結月ちゃん、そろそろご飯炊くわね」
「はい、お願いします」
結月が味噌汁に取り掛かっている間に、閑子がお釜を置いた方のコンロに火を点ける。
……触れることができないのにどうやって物を動かすのだろうか。一度、閑子に尋ねてみたら、「えいっ、て念じたら動くのよ」と大雑把な答えが返ってきた。
もっとも、細かい力の調整はできないそうで、一度、お茶を淹れようとヤカンと急須を動かしていたら、お湯は零れるわ、急須に罅は入るわ、湯呑は落として割ってしまうわで大変だったらしい(それを目撃した女中は、翌日に天方家を出て行ったとのことだ)。
なので、材料を切ったり、お茶を淹れたりといった細かい作業は、結月が行うことになっている。
これが、朝の炊事のだいたいの流れだ。
「昆布と鰹節は甘辛く煮るんですよね」
「ええ。漣くんが好きなのよ」
閑子と会話を交わすことで、結月は少しずつ天方家の炊事の仕方を覚えていく。
結月は一通り、ご飯の炊き方や汁物の作り方などの調理の基本はできる。
だが、野宮家では炊事専門の女中が数人おり、結月はその手伝いに回っていたため、一人ですべてをこなしたことは無かった。また、西洋式の台所は初めてで、最初は水道の使い方もガスの点け方もわからなかった。
こうして閑子が側で丁寧に手順を教えてくれるおかげで、結月はこの一週間で流れを覚えることができた。
味噌汁と、菜の花と青菜の辛子醤油和えができたところで、米の炊ける良い香りが漂ってくる。火を止めた閑子が、「あとは蒸らすだけね」と微笑んだ。
七時前には朝食が出来上がり、結月は先に台所の作業台でご飯を食べる。
味噌汁の塩加減は良い。和え物は……菜の花と青菜をしばらく出汁に浸していたから、味は美味しい。けれど、辛子があまりきいていなかった。ご飯はほど良く硬めに炊けていた。
幽霊の閑子はご飯を食べる必要はなく、先ほど台所を出て行った。一階の雨戸を開け、その後は涼を起こしてくるとのことだ。
朝食を食べ終えた結月は、自分の食器を流しに運んだ後、炊いたご飯を入れた木のおひつと味噌汁の鍋、和え物の小鉢、それに作り置きの小魚の佃煮を食堂に運ぶ。
テーブルに配膳していれば、廊下が軋む音がした。
涼が起きたのだろう。結月は、開けたままの食堂の扉の方を振り返って挨拶する。
「おはようございます、だ……」
顔を出したのは涼ではなく、息子の漣であった。
中学校の制服である白シャツと紺色のズボンを纏った漣は「おはよう」と返してきた後、「ございますだ…?」と小首を傾げて、怪訝な表情を浮かべる。
「貴女、そんなに訛っていたっけ?」
「い、いいえ、言い間違えただけで……」
てっきり涼だと思っていたので「旦那様」と呼びかけようとしていた結月は、慌てて「漣さん」と呼んだ。
漣は、結月より三つ下の十三歳。
つい先日、中学校の二年生に進級した少年だ。
父親ゆずりの怜悧な美貌を持つ少年は、「ふぅん」と怪訝な表情を解かぬまま、食堂に入ってきた。自分の席に着く前に、おひつの蓋をあけて、さっさと自分でご飯をよそう。
普通なら女中の結月がすべきことであるが、天方家では女中の居ない時は漣が代わりに炊事を行っていたそうで、こうして自分で準備をすることは厭わないそうだ。
とはいえ、側にいる結月は居たたまれない。今までも何度か「やります」と申し出たが、「これくらいは自分でできる」と漣も引かなかった。
結月は味噌汁をお椀に注いで漣に渡すと、一礼して食堂から出た。食事中の給仕も必要ないと、すでに断られている。
台所に戻った結月は、小さく息をついた。
漣といると、妙に緊張してしまう。
漣の素っ気ない……やや冷たいとも思える態度に、彼の機嫌を損ねるようなことをしただろうかと、いつも不安になるのだ。閑子と涼がおおらかで優しい分、余計に気になってしまう。
閑子に一度それとなく聞いてみれば、『漣くんってば、お年頃なのね』と、気にするどころか何故かはしゃいでいた。そうして、気にすることないわよぉ、と笑顔で助言されたものだ。
……悩んでいても仕方がない。
自分がもっと気を配れるように精進すればいいのだ。
結月は気合を入れ直して、漣の弁当を用意し始めた。