(6)
三か月ほど前から、女中が来る度に、閑子は家事の手伝いをできればと張り切ったらしい。
霊体の閑子は細かい作業はできなかったが、少し物を動かしたり、風を起こしたりする程度のことができたのだ。
そして――
『あら、戸が開いたままだわ。閉めておきましょ』と、扉を閉めたり。
『あらあら、桶のお水溢れちゃうわ』と、蛇口を捻ったり。
『味噌はここよ、醤油はあちらね』と、台所の棚を開け閉めしたり。
『机の下は掃除しづらいわよね』と、書斎の重い机を持ち上げたり。
『庭の水まきくらいはしなくちゃ』と、如雨露も無しに庭の花々に水を上げたり。
しまいには『ガスの点け方がわからないのね』と、台所のガス台で大きな炎をあげてみせたり――
目の前で起こる怪異に怯えた娘たちは、次々に辞めていったという。
紹介所で女中の募集を引き続き行ってもらっていたが、この三週間、誰も来なかったというわけだ。
閑子はすっかり気落ちしてしまうし、涼と漣も身の回りのことができず、まともなご飯にもありつけずにいた。
そこに、結月が訪れたのだ。
閑子は結月を見て、ほっとしたように微笑む。
「結月ちゃんは、私のこと怖がらないでいてくれるんだもの。私、嬉しくて」
「……今は怖いんじゃないの?さっきだって倒れたし」
「えっ!?そ、そうなの?」
漣の指摘に、閑子はおろおろと結月の顔色を窺ってくる。「こ、怖いかしら?」と困ったように尋ねてくるので、結月は首を横に振った。
幽霊と分かった今でも、結月は不思議と、閑子に対しては恐怖を感じなかった。彼女には他の霊のように暗い陰がなく、どこまでも明るく朗らかだからだろうか。
「いいえ、怖くありません。……あの、私の方こそ、どうかここで働かせてください」
結月の返事に、ぱあっと閑子が表情を明るくする。
「ありがとう、結月ちゃん!」
閑子は勢いよく抱き着いてきて、しかし結月の身体をすり抜けてしまった。
慌てて体勢を戻して、照れたようにはにかむ閑子に、結月は思わず頬を緩めた。
――結月には、断る理由が無かった。
結月の力を厭うことなく、むしろそれを有難いと受け入れてくれる人たちがいるなんて、思ってもいなかったことだ。
天方家の人々がどういう人たちなのか。
どうして幽霊の閑子がこの家に留まっているのか。
分からないことはまだたくさんあるが、でも、この家でなら自分の力を隠さなくて済む。
知られることを、怯えなくて済む。
「……これから、よろしくお願いします」
頭を下げた結月に、閑子と涼は笑顔で頷き、漣は少し微妙な表情を浮かべたのだった。
***
新たな女中、しかも自分たちと同じ“見える”目を持つ、珍しい子を雇うことが決まったようだ。
両親――涼と閑子が決めたことなので、漣自身は納得してはいない。まあ、雇って給金を払うのは両親なので、漣が口出しできることではないが。
歳は十五、六歳くらいの少女。
奥二重のどんぐり眼は黒目がちで、少しおどおどとした様子がある。化粧っ気の無いふっくらとした唇と子供鼻、着古した縞柄の着物や、組紐で結わえただけのおさげ髪は、まさに田舎から出てきたばかりという印象だ。
黙って見ていれば、さっそく家の中を案内したいと、閑子が嬉々として手を上げる。今までにない浮かれっぷりだ。女中のことがよほど気に入ったのだろう。
だが、その新しい女中――結月という少女は、先ほど倒れたばかりだ。今日はひとまず女中部屋で休んでもらった方がいいだろう、と涼が提案したが、結月は「大丈夫です。案内してください」と慌てて答えた。
彼女の目にはどこか必死な色があった。まるで、少しでも怠けたらこの家を追い出されると思っているかのように。
……これでは、大人しく休めと言っても聞かないだろう。
涼もそう思ったのか。とりあえず案内はして、途中具合が悪くなったらすぐに休むこと、と言い含めて、閑子と結月を送り出した。
応接間に涼と二人きりになれば、穏やかな声がかけられる。
「何か言いたそうだね、漣」
「大丈夫なの?あんなに簡単に他人を家に入れて」
間髪入れず返せば、にこりと笑みが返ってくる。
「大丈夫だよ。閑子がとても気に入っているのだし」
「母さんは警戒心が無さすぎる」
「まあ、そうだけどね。でも、あの子……結月くんが家に入っても、門の“花”はいつも通りだったろう?」
「一枚、無くなっていたけど?」
「彼女に憑いていた雑霊か何かのせいだろう。精神的に弱っている人間は憑かれやすいものさ。気持ちが塞いだり、不安を煽られたりしてね。……特に、彼女のような子は大変だったろう」
「……だったら尚更、彼女を雇うのは危険なんじゃないの?」
漣は眉を顰めて、言葉を続ける。
「母さんがあんな状態なのに……もしも、彼女が母さんをあんな目に遭わせた奴と通じていたら――」
「漣」
涼に名前を呼ばれ、漣は息を呑んだ。怒鳴ったわけでもないのに、涼の声には力がある。細めた目に見据えられて、漣は口を引き結んだ。
「お前の気持ちは有難いが、閑子のことは私が対処する。何も心配しなくていい」
「……」
両脇の拳を握り目を伏せる漣に、涼は表情と口調を緩める。
「大丈夫。閑子はそう軟じゃないからね。それに、女中さんが居なければ、私達もまともに生活できないだろう。そろそろ家で、温かいご飯とおかずを食べたいものだよ。お前も、きちんと火熨斗のかかったシャツを着たいだろう?ねえ」
やんわりと話を終わらせる涼に、漣は「部屋に戻る」と一言返して踵を返した。二階に上がり、自室で学生服の上着を脱ぐ。
姿見には、自分で火熨斗を当てたものの皺の取れていない白シャツが映り、漣は腹立たしい気持ちでそれを脱ぎ去った。
長着と袴を見に付けながら、漣は小さく呟いた。
「……いいさ」
楽天的な両親の代わりに、自分が気を付ければいいだけだ、と。
第一話はこれで終了です。
第二話の更新まで、しばしお待ちを。